第2話 知らないはずの名前
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、成長したリーナの働く日常から。
魔法のある世界でも、お昼どきの食堂は大忙しです。
いつもよりにぎやかな王都で、彼女の一日が始まります
「リーナ! 三番卓、煮込み二つ!」
「はーい! パンは?」
「両方つけて!」
「了解!」
湯気の上がる皿を二つ、お盆に載せる。
焼きたてのパンを添えて、私は厨房を出た。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
「お、うまそうだ」
「今日は肉、多くないか?」
「気のせいです。毎日たっぷり入ってます」
そう答えると、常連のおじさんたちが声を上げて笑った。
空いた皿を回収しながら、隣の席の注文を聞く。
奥では会計を待つ人が手を上げている。
「すぐ行きまーす!」
朝倉陽菜だった私が、この世界でリーナ・アステルとして生まれて、二十年が過ぎた。
魔法と剣がある世界。
空には時々、馬より大きな鳥が飛ぶ。街の外には魔物が出るし、人間と魔族の争いも続いている。
そんな世界でも、お昼になればお腹はすく。
そして、食堂で働けば忙しい。
「リーナ、お釣り!」
「あ、はい!」
魔法があるなら、お皿も勝手に運ばれてくれればいいのに。
そんなことを考えながら、私は銅貨を数えた。
*
王都エドキオ。
石造りの建物が並ぶ大きな街で、古くから住む人たちは、親しみを込めて「おエド」と呼ぶ。
私が働く食堂《麦の灯》は、中央大通りから二本入った場所にあった。
一階が店で、二階が私たち家族の住まい。
父が料理を作り、母が会計と仕入れを受け持つ。私は接客を中心に、手の足りないところへ入る。
つまり、大体どこでも足りない。
「今日、いつもの倍くらい来てない?」
ようやく客足が落ち着いたところで、私はカウンターに両手をついた。
「パレードがあるからねえ」
母は売上を数えながら、嬉しそうに言った。
「ありがたいことじゃないか」
「ありがたいけど、足が棒」
「二十歳の足なら、まだ曲がるよ。ほら、座る前にお願い」
差し出されたのは、空の籠だった。
私は母の顔を見る。
母はにっこり笑った。
「パン、追加で買ってきて」
「……はーい」
異世界に転生したら、すごい力が使えたり、何か特別なことが起きたりするのかと思っていた。
今のところ、私にできる魔法は、指先に小さな明かりをともすくらい。
疲れた足には、普通に休憩が必要だった。
*
通りに出ると、街はいつも以上ににぎわっていた。
軒先には色とりどりの旗。
屋台からは肉の焼ける匂いがして、子どもたちが木製の剣を振り回している。
王都がこんなふうに浮き立つ日は、まだ少し特別だ。
私が小さかった頃は、母から何度も言われた。
暗くなる前に帰ること。
知らない路地へ入らないこと。
何かあっても、衛兵だからといって誰でも信用しないこと。
それが変わり始めたのは、五年前。
若き王、アオキス・トーチが即位してからだった。
衛兵の不正が取り締まられ、大通りには魔道灯が増えた。商人たちは以前より安心して店を開けるようになり、私たちの店も夕食時の客が増えた。
もちろん、裏通りまで全部安全になったわけじゃない。
それでも、母が「日が暮れるよ」と迎えに出る回数は減った。
「リーナちゃんも、英雄様を見に来たのかい?」
パン屋のおかみさんに聞かれて、私は籠を差し出した。
「私は仕事です。丸パン、二十個お願いします」
「二十? ずいぶん売れたねえ」
「みんな、パレード前にお腹を満たしたいみたい」
「帰りも寄ってくれりゃいいけどね」
「うちの厨房が先に倒れそう」
笑いながら受け取った籠は、温かかった。
今日は西方街道の魔物討伐を終えた部隊が、王都へ帰ってくる。
その先頭を務めるのが、英雄レオン・グラディス。
冒険者でありながら王の要請を受け、何度も大きな討伐に参加している人だ。
名前は知っている。
店のお客さんから、武勇伝も、女性に人気があるという話も、何度も聞いた。
ただ、私にとっては雲の上の人だった。
英雄が帰ってきても、夕方の仕込みは待ってくれない。
そう思っていたのに。
「来たぞ!」
誰かの声が上がる。
歓声が、通りの向こうから波のように近づいてきた。
気づけば私も、人垣の隙間から背伸びをしていた。
*
最初に見えたのは、王国の旗だった。
続いて、鎧を着た騎士たち。
その中に、一人だけ騎士とは違う装いの男性がいた。
黒い外套。腰には大きな剣。
馬上から沿道を見渡す姿は、遠目にも堂々としていた。
「あれがレオン様よ」
「こっち向いて!」
隣の女性たちが手を振る。
レオンは何か声をかけた仲間に笑い返し、そのままこちらへ顔を向けた。
目が合った。
……気がした。
その瞬間、彼の笑顔が止まった。
ほんの少し、目が見開かれる。
私もつられて目を丸くした。
けれど次の瞬間には、彼は顔をそらしていた。
「きゃあ、今こっち見た!」
「見たわよね!」
隣ではしゃぐ声を聞きながら、私は自分の顔に手を当てた。
何かついている?
頬をこすってみたけれど、何も取れなかった。
もう一度顔を上げると、レオンは前を向いていた。
さっきまで手を振っていたのに、今は手綱を握っている。
耳が赤く見えたのは、西日のせいだろうか。
馬はそのまま、人波の向こうへ進んでいった。
*
パレードを見送ってから、私は困っていた。
店へ戻る道が、人で埋まっている。
しかも、籠にはパンが二十個。
押されたら、夕飯の主食が全部つぶれる。
「……どうしよう」
「そこの籠、先に通してやって」
頭の上から声がした。
振り返ると、衛兵の制服を着た男性が立っていた。
背が高くて、肩幅が広い。
彼は人の流れを見てから、私の籠へ視線を落とした。
「食い物?」
「パンです。店の」
「そりゃ救出しないとな。こっち」
少し先へ出て、人々に声をかける。
「悪い、道を空けてくれ。押さないでな。英雄は逃げねえから」
冗談交じりの声に、周囲から笑いが起きた。
開いた隙間を、私は慌てて抜ける。
「ありがとうございます!」
「気をつけて帰れよ。パン、無事か?」
籠をのぞいて頷くと、彼は笑った。
片方の口元が、少しだけ上がる。
いたずらを思いついた子どもみたいな笑顔だった。
胸の奥が、不意に揺れた。
私はその顔を見つめた。
「……何?」
「あ、いえ」
首を振る。
似ていた。
そんなはずはないと思うくらい、懐かしかった。
「カイル! 向こう、頼む!」
別の衛兵が彼を呼んだ。
「おう!」
彼はそちらへ片手を上げてから、私を見た。
「じゃ、仕事戻るわ」
「はい。ありがとうございました」
カイルと呼ばれた衛兵さんは、軽く手を振って人混みへ戻っていった。
私は籠の持ち手を握り直す。
晴斗が大人になったら、あんなふうに笑ったのだろうか。
少しだけ考えて、それから店へ急いだ。
*
「助かったよ、リーナ。あと、これもお願いできる?」
帰り着いた私を、母が包みを持って待っていた。
パンを置いたばかりの私は、その包みを見る。
「……座る前に?」
「座る前に」
母は申し訳なさそうに、でも手は引っ込めずに言った。
「治療院にお弁当三つ。今日は向こうも忙しいんだって」
「ああ、パレードで?」
「人混みで気分が悪くなった人がいるらしいよ」
「分かった。行ってくる」
「帰ったら、ちゃんと休憩しな」
「約束ね」
今度こそ、という意味を込めて母を指さす。
母は笑って、私の手に小さな焼き菓子を一つ載せた。
「途中で食べな」
それで少し機嫌が直るのだから、私も単純だった。
*
治療院は、店から歩いて十分ほどの場所にある。
白い壁と、青い屋根。
中へ入ると、乾かした薬草の匂いがした。
「《麦の灯》です。お弁当、届けに来ました」
受付に声をかけると、奥からユリウスが出てきた。
「リーナ。ありがとう」
柔らかい髪が、いつもより少し乱れていた。
袖は肘までまくられ、目元には疲れが見える。
「忙しそうだね」
「ようやく落ち着いたところ。足をくじいた人が何人かいて」
「そっか。じゃあ、今のうちに食べて」
包みを渡すと、ユリウスは壁の時計を見た。
「……もう、こんな時間か」
「もしかして、お昼まだ?」
「あとで食べようと思ってたんだけど」
「その『あとで』って、放っておくと夕飯になるよ」
言いながら、私は近くの椅子を引いた。
「はい。座って」
「ここで?」
「また誰か来たら、立っちゃうでしょう」
ユリウスが、少し驚いた顔をした。
それから、おとなしく座る。
「……そうだね」
「人の体を治す仕事なんだから、自分の体も大事にして」
「はい」
「返事が素直でよろしい」
私が笑うと、彼も笑った。
けれどその表情は、すぐに静かになった。
「ユリウス?」
「……いや」
彼は包みをほどき、お弁当の蓋を開けた。
煮込みとパン。それに、卵を焼いたものが少し。
父が入れたおまけだ。
「今日は卵もあるんだ」
「うん。父さんから。治療院の人たち、最近ずっと忙しそうだからって」
「お礼、伝えてもらえる?」
「もちろん」
配達で顔を合わせるようになって、半年ほど。
ユリウスはいつも丁寧で、こちらが急いでいるときには、すぐ代金を用意して待っていてくれる。
以前、私が指を切ったときも、仕事の合間に診てくれた。
彼と話す時間は、何となく落ち着いた。
「リーナは、休憩できた?」
「これから。帰ったら絶対、座る」
「絶対?」
「母さんと約束したから」
ユリウスが小さく笑う。
私は腰の袋から、焼き菓子を取り出した。
「あ、これ半分食べる?」
「休憩のおやつじゃないの?」
「そう。でも、お弁当だけじゃ足りなかったらと思って」
割ろうとすると、彼が手を伸ばした。
「じゃあ、小さいほうを」
「遠慮しなくていいのに」
「リーナがもらったものだから」
結局、きれいに半分には割れなかった。
大きいほうを差し出すと、彼は困ったように笑いながら受け取った。
そのとき、受付から声がした。
「ユリウスさん、薬の確認をお願いします」
「はい。すぐに」
彼は食べかけの弁当を見て、それから立ち上がった。
「ああ、ほら。また」
「確認だけだから」
「戻ったら、ちゃんと食べてね」
「うん」
私は空いた包みをまとめた。
仕事の邪魔をしてはいけない。
「じゃあ、私は帰るね。また器、取りに来るから」
扉へ向かう。
その背中に、声が届いた。
「……陽菜」
足が止まった。
聞き間違いだと思った。
ここで、その名前を呼ばれるはずがない。
握っていた包みが、かさりと鳴る。
「陽菜!」
「……何?」
振り返ってから、気づいた。
私は今、誰の名前に返事をしたのだろう。
ユリウスが立ち尽くしていた。
伸ばしかけた手を、下ろすこともできずに。
彼の唇が動く。
「本当に……?」
いつも穏やかな声が、震えていた。
「笑い方が似てて。でも、それだけじゃ……そんなはず、ないって」
言葉が途切れる。
私は包みを胸元へ引き寄せた。
心臓が、ひどく速く打っていた。
彼の顔を見る。
髪の色も、瞳の色も違う。
知っている顔ではない。
それなのに。
「俺の卵焼き、最後に食べようとしてただろ」
息が止まった。
「陽菜に取られて……交換だって、唐揚げもらって」
ユリウスが首を振った。
「違う。逆だ。……ごめん。何から言えばいいか、分からない」
困ったとき、少しだけ眉を寄せる。
その表情を、私は知っていた。
「……悠真?」
名前を呼ぶと、彼は泣きそうな顔で笑った。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
英雄の視線、衛兵の笑顔、そして、知らないはずの名前を呼ぶ声。
リーナにとって、忘れられない一日になりました。
次回は、ユリウスとの再会の続きです。
二人が最初に何を話すのか、見守っていただけたら嬉しいです。




