第1話 また明日って、言ったのに
剣と魔法の世界でも、働けば疲れるし、明日の仕事も気になる。 それでも、好きな人の「お疲れさま」で、少し元気になれる。
そんな、働く大人たちの日常と恋を描いていきたいと思います。
「陽菜、おっそーい!」
坂道の上で、晴斗が振り返った。
膝には絆創膏。シャツの裾には泥。さっきまで木に登っていたせいで、髪の毛に葉っぱまでついている。
「晴斗が速すぎるんだよ!」
「陽菜が遅いんだろー」
「もう知らない。一人で行けば?」
足を止めると、晴斗は困った顔をした。
それから坂を駆け下りてきて、私の前に手を差し出す。
「ほら」
「……何?」
「一緒に行くんだろ」
当たり前みたいに言われて、私はその手を握った。
晴斗の手は、いつも温かかった。
勝手に走り出すくせに、私がついてきているか何度も振り返る。いたずらをして先生に怒られると、なぜか私まで一緒に謝ることになる。
明日は絶対、一緒に遊ばない。
そう決めた翌朝には、教室で晴斗を探していた。
あの日、坂の上で何をしたのかは、もう思い出せない。
でも、帰り道の約束は覚えている。
「じゃあ、また明日な!」
「うん。また明日!」
晴斗は、小学五年生の夏に亡くなった。
約束していた明日は、来なかった。
*
「……陽菜。その唐揚げ、俺の」
声に顔を上げると、向かいに座る悠真が、私の箸を見ていた。
箸の先には、唐揚げが一個。
「食べないのかなって」
「最後の楽しみに取ってた」
「……返そうか?」
「そんな悲しそうな顔で言われても」
悠真は笑って、私のトレーに手を伸ばした。
「あ。それ、私の卵焼き」
「交換」
「それも最後に食べようと思ってたのに」
「気が合うね、俺たち」
卵焼きを口に入れた悠真が、満足そうに頷く。
私は仕方なく、唐揚げを食べた。
おいしい。
でも、ちょっと負けた気がする。
大学の食堂は、昼休みの学生たちでにぎわっていた。隣のテーブルでは試験の話、後ろではアルバイト先の愚痴が聞こえてくる。
「朝倉ー、ゼミの親睦会って、まだ参加できる?」
通りがかった友達に声をかけられ、私は箸を置いた。
「できるよ。今日お店に人数伝えるから」
「助かる! あとで連絡する!」
「忘れないでね!」
手を振って見送ると、悠真が頬杖をついていた。
「また幹事?」
「いつの間にか」
「いつの間にかで予約まではしないだろ」
「だって、誰も決めないんだもん」
みんなで出かけるのは好きだ。
楽しかったね、と言ってもらえると嬉しい。
ただ、お店を決めるまでが長かった。
安いほうがいい人。料理がおいしいところがいい人。駅から歩きたくない人。
全員の希望を聞いたら、私が一番決められなくなった。
「結局、どこにしたの?」
「駅前のイタリアン」
「陽菜が行きたいって言ってたところ?」
「そこは、ちょっと高かったから」
「……ふうん」
悠真がスマートフォンを取り出した。
「何?」
「その店、土曜日に行こうか。映画のあと」
私は顔を上げた。
「いいの?」
「俺も気になってたし」
「私、まだ店の名前言ってないけど」
「この前、前を通ったときに三回くらい言ってた」
そんなに言っただろうか。
言ったかもしれない。
「覚えてたんだ」
「三回も言われたらね」
悠真は何でもない顔で、画面を見ている。
付き合い始めて八か月。
こういうところには、まだ慣れない。
「……楽しみ」
小さく言うと、悠真がこちらを見た。
「うん。俺も」
窓から入る日差しが、テーブルの端に落ちていた。
土曜日は映画を見て、ご飯を食べる。
来週は課題を出して、その次は試験。
卒業したらどうするか。
どこで働くのか。
二人の将来については、まだ、ちゃんと話したことがなかった。
それでも土曜日になれば、隣には悠真がいる。
私はそう思っていた。
*
午後の講義が終わったあと、私は教室で出欠表とにらめっこしていた。
「朝倉さん、ごめん。これも先生に出してもらっていい?」
「うん。職員室の前、通るから」
「ありがと! じゃあ、また明日!」
受け取ったレポートを、ファイルの上に重ねる。
その拍子に肘が当たった。
「あっ」
机の端から、資料が滑り落ちた。
床に広がる紙を見て、思わずため息が出る。
「もう……」
しゃがみ込むと、机の下へ滑った一枚を、誰かが拾ってくれた。
黒瀬朔くんだった。
「あ、ありがとう」
「……ん」
同じ学年で、いくつか講義が重なっている。
友達と話しているところはよく見るけれど、私とは挨拶をするくらいだった。
黒瀬くんは床の紙を拾い集め、角をそろえてくれた。
大きな手だな、と思った。
「あのさ」
「うん?」
「十九人」
「え?」
黒瀬くんが出欠表を指さす。
「こっちは十八になってる」
お店に送るメモを見て、私は息をのんだ。
「本当だ! お昼に一人増えたんだった」
慌てて数字を書き直す。
「助かった。ありがとう、黒瀬くん」
「別に」
「よく気づいたね」
「……見えたから」
短い返事のあと、沈黙が落ちた。
廊下からは、彼を呼ぶ声がする。
「黒瀬ー、置いてくぞ!」
「先、行ってて」
そちらには普通に返すのに、私を見ると、また口を閉じてしまう。
何か話そうとしてくれているようにも見えた。
私は少し首を傾げた。
「どうしたの?」
「……それ」
彼が、私の抱えるファイルを指した。
「全部、今日やるの?」
「うん。帰る前に終わらせようと思って」
「明日でもいいやつは?」
「え?」
「あるだろ。たぶん」
言われて、手元を見る。
親睦会の集金袋も、来週使う資料も、今日中に用意する必要はなかった。
「……あるね」
「なら、明日でいいんじゃない」
黒瀬くんは立ち上がった。
「そっか。そうする」
つられて立つと、彼は少しだけ頷いた。
「ありがとう。またね」
「……また」
彼は鞄を肩にかけ、教室を出ていった。
廊下に出た途端、待っていた友達に何か言われている。
「遅えよ。何してたんだよ」
「何でもねえよ」
さっきよりずっと大きな声だった。
私、話しかけにくいのかな。
少し気になったけれど、ファイルは軽くなっていた。
*
大学の門を出ると、悠真が塀にもたれていた。
スマートフォンから顔を上げ、片手を上げる。
「お疲れ」
「待った?」
「ちょっと」
「ごめん」
「いいよ。ちょうどゲーム負けたところ」
「それ、私のせいにしないでね」
「まだ何も言ってないだろ」
隣に並んだ悠真が、私のトートバッグを持った。
「いいよ。重くないから」
「知ってる」
「じゃあ、何で?」
「手、空けてほしくて」
空いた私の手を、悠真が握った。
一瞬、言葉が出なくなる。
「……そういうの、先に言って」
「言ったら照れるだろ」
「今も照れるよ」
悠真は笑って、歩き出した。
私はつながれた手を見ないようにして、その横を歩いた。
夕方の商店街は、夕飯の買い物をする人で混んでいた。
総菜屋さんからコロッケの匂いがする。
パン屋さんの前には、焼きたて、と書かれた札が出ていた。
「陽菜」
「何?」
「今、お腹すいたって思った?」
「……顔に出てた?」
「足が遅くなった」
結局、パンを一個ずつ買った。
悠真はカレーパンで、私はクリームパン。
店を出てすぐ、悠真が自分のパンをこちらに向けた。
「一口いる?」
「何で分かったの?」
「聞かれると思った」
遠慮なくかじると、まだ温かかった。
私もクリームパンを差し出す。
悠真は一口食べて、唇についたクリームを指で拭った。
「土曜日も、何か食べながら歩いてそうだな」
「映画館のポップコーンは?」
「昼ご飯、入る?」
「それは入る」
「だと思った」
交差点の信号が、赤に変わった。
歩道の端で足を止める。
握っていた手を持ち直すと、悠真も軽く握り返してくれた。
「ねえ、土曜日さ」
「うん」
「映画のあと、ご飯の前に靴見てもいい?」
「いいよ。歩きやすいやつ?」
「そう。今度こそ」
「この前も同じこと言ってた」
「今度は本当に」
見た目だけで選んだ靴で足を痛めたことを、悠真はまだ覚えている。
私は少し唇をとがらせた。
「ちゃんと試着するから」
「両足な」
「分かってるよ」
「あと、店の中歩いて――」
悠真の言葉が、不意に止まった。
ブレーキの音がした。
顔を上げたとき、曲がってくる車が見えた。
近い。
そう思った瞬間、腕を引かれた。
「陽菜!」
悠真の胸に、頬がぶつかった。
背中に腕が回る。
パンの入った袋が落ちる音がした。
私を抱き込む力が、痛いほど強かった。
何かを言おうとした。
でも、声になる前に、大きな音がした。
*
悠真。
呼んだつもりだった。
自分の声が聞こえない。
寒かった。
さっきまで握っていた手が、どこにあるのか分からなかった。
土曜日、映画に行くんだよね。
ご飯を食べて、靴を選ぶんだよね。
まだ予約もしていない。
何時の電車に乗るかも決めていない。
話すことが残っている。
だから、返事をしてほしかった。
悠真。
もう一度だけ、手を握ってほしかった。
*
「あら。起きたのね」
知らない声がした。
目を開けると、女の人が私を見ていた。
淡い茶色の髪。
見覚えのない顔。
その向こうには、木の梁が走る天井があった。
病院じゃない。
ここ、どこ?
悠真は?
口を開く。
「ぁ……う」
自分のものとは思えない声が出た。
もう一度、言おうとした。
でも、舌がうまく動かない。
「どうしたの、リーナ」
女の人が、私の頬に触れた。
その指が、妙に大きく見えた。
私は顔に触れようとして、手を持ち上げた。
短い指。
丸い爪。
小さな、小さな手。
握ろうとすると、指がゆっくり曲がった。
開こうとすると、また開いた。
私の手だった。
「まだ眠いのかしら」
体が持ち上がった。
女の人の腕の中に、すっぽり収まってしまう。
そんなはずはないと思った。
私は大学生で、さっきまで悠真と一緒にいて。
信号を待っていて。
それから――。
「少し冷えるわね」
女の人が、暖炉へ片手を向けた。
指先に、淡い光がともった。
小さな光は宙を漂い、積まれた薪へ落ちる。
ぽっと、火がついた。
私は炎を見つめた。
マッチも、ライターも使っていなかった。
女の人は何でもないことのように手を下ろし、私の体を布で包み直した。
「これで暖かくなるわ。お父さんも、もうすぐ帰ってくるからね」
窓の外に、石造りの塔が見えた。
遠くで鐘が鳴っていた。
私は女の人の服をつかんだ。
確かめるように、何度も。
布の感触も、頬に触れる腕の温かさも、消えなかった。
「……ぁ、あ」
悠真の名前を呼びたかった。
自分が誰なのか、伝えたかった。
けれど、出てきたのは泣き声だけだった。
「あらあら、どうしたの」
背中を優しく叩かれる。
何も聞けない。
何も伝わらない。
「大丈夫よ、リーナ。ここにいるわ」
知らない名前で呼ばれながら、私は泣いた。
明日も会えると、思っていた。
今度もまた、そう思っていたのに。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
「また明日」と言える日々は、当たり前のようで、大切なもの。 そんな思いから、この物語を始めました。
次回からは、成長したリーナの異世界での日常へ。 新しい世界で働く彼女を、見守っていただけたら嬉しいです。




