第12話 今のお前に、伝えたい
お読みいただき、ありがとうございます。
今日は、カイルが今の気持ちを言葉にする夜です。リーナと一緒に、彼の話を聞いていただけたら嬉しいです。
カイルが借りた石を返しに来たのは、雨の翌々日だった。
包んでいた布は洗われて、畳み目までまっすぐになっていた。
「助かった。ありがとう」
「父さんにも伝えるね」
受け取ると、その下から小さな紙袋が出てきた。
「これは?」
「布を借りた礼」
「石じゃなくて?」
「両方」
袋には、蜂蜜の焼き菓子が入っていた。父と母の分も、きちんと三つある。
彼は耳の後ろをかいた。
「今日、閉店のあと、少し時間もらえる?」
私は袋を落としそうになった。
「うん」
「仕事、延びない日だから」
「分かった」
頷いてから、もう一度頷いた。
カイルはなぜか真剣な顔になり、店を出ていった。
*
その日の夕飯は、少しだけ塩が足りなかった。
「リーナ、味見した?」
父に聞かれ、私は慌てて鍋を見た。
「あ、ごめん。今、する」
「今日は何回、時計見た?」
「見てない」
答えながら、壁の時計へ目が行った。
父は笑わなかった。かわりに、自分で塩をひとつまみ入れた。
「落ち着かない日は、声に出して確認しよう。皿の数も、火を消したかも」
「……はい」
仕事と気持ちは、別々になってくれない。
それでも、お客さんの夕飯まで落ち着かない味にしてはいけない。
私は注文の札を声に出して読み、もう一度、皿を確かめた。
そのあいだも、心のどこかは夜へ向かっていた。
*
約束の時刻に、扉の鈴が鳴った。
今夜のカイルは私服だった。
私も着替えて降りるつもりだったのに、片づけが少し延びた。
「ごめん、待ってて」
「手伝う」
「いいよ。もう終わるから」
彼は頷き、持ち上げかけた椅子をそっと戻した。
何でもしてあげたい顔なのに、私が断ると待ってくれる。
それが今夜は、妙に胸に残った。
二階でエプロンを外し、髪を整える。白い花を留め、深く息をした。
鏡の前の私は、何かを期待している顔だった。
そう気づいてしまうと、階段を下りる足が遅くなった。
*
水路沿いの道には、夕食を終えた人がぽつぽつと歩いていた。
カイルと並ぶと、袖が時々触れる。
手をつなぐかどうかを考えるだけで、うまく話せなくなった。
「今日は忙しかった?」
彼が聞いた。
「うん。塩、入れ忘れた」
「大事件じゃん」
「父さんが直してくれたから、お客さんには出してないよ」
「よかった。俺、毎日通っても平気だな」
「毎日は飽きるよ」
「飽きねえよ」
迷いなく言われ、私は顔をそらした。
橋のたもとまで来ると、カイルが足を止めた。
店の明かりが届く、静かな場所だった。
「リーナ」
名前を呼ばれた。
「話したいこと、ある」
私は頷いた。
*
「昔、陽菜のこと、好きだった」
胸が詰まった。
ずっと聞けなかった言葉だった。
小学五年生の夏の先に、しまい込んだままの答え。
「俺さ。お前と遊ぶって決まってると、朝から落ち着かなくて。何して遊ぶか、前の晩に考えてた」
「……私も、楽しみだったよ」
声が少しかすれた。
カイルが頷く。
「でも、それだけで、今も同じだって言うのは違うよな」
私は彼を見た。
「お前がここでどう暮らしたか、俺はほとんど知らない。好きだった人も、嫌だったことも。二十年もあるんだもんな」
彼の手が、膝の横で一度握られた。
「最初は、会えたのが嬉しかった。生きてるってだけで、十分だと思った」
「うん」
「でも店で笑ってるのを見て、無理してるのを見て。この前、会いに来てくれて」
彼が、少し照れたように笑った。
「十分じゃなくなった」
水路の水が、橋の下へ流れていく。
私は両手を重ね、指先を握った。
*
「もっと会いたい。昔話だけじゃなくて、今日あったこと、明日やりたいことも聞きたい」
カイルは、私から目をそらさなかった。
「仕事で、約束守れない日もあると思う。この前みたいに、待たせることもある」
「うん」
「格好いいことばっか言えないけど、話さずに諦めるのは、やめたい」
そこで一度、息を吸った。
「今のお前と、付き合いたい。リーナ」
私は返事をしようとした。
でも、最初に出たのは息だけだった。
カイルが待っている。
急かさず、答えを決めた顔もせずに。
「私も」
ようやく声が出た。
「晴斗に会えたの、嬉しかった。ずっと、もう会えないと思ってたから」
彼の瞳が揺れた。
「でも、今、会いたいって思ってるのは、カイルだよ」
言葉にすると、胸の中にあったものがはっきりした。
「お店の扉が鳴ると、来たかなって思う。休みが分かると、一緒にどこへ行こうかなって考える」
頬が熱い。
それでも、途中で笑ってごまかしたくなかった。
「カイルのこと、もっと知りたい。私も、付き合いたい」
彼は黙っていた。
驚いているようにも、困っているようにも見えた。
「……カイル?」
「聞こえてる」
声が、少し上ずった。
「聞こえてるけど、もう一回、言ってほしい」
「無理」
「何で」
「恥ずかしいから」
彼が笑った。私も、とうとう笑ってしまった。
*
差し出された手に、自分の手を重ねた。
昨日までと同じ手なのに、今日は離したくなかった。
「抱きしめてもいい?」
カイルが尋ねた。
私は頷いた。
大きな腕が、ゆっくり背中へ回る。
強く引かれるのではなく、私が近づくのを待ってくれた。
胸元へ額が触れた。
心臓の音がした。
私の音より、速い気がした。
「……緊張してる?」
小さく聞くと、頭の上から声がした。
「してるに決まってるだろ」
少し笑ってしまった。
「私も」
上着をつかむと、背中の腕にほんの少し力がこもった。
怖いくらい嬉しかった。
今度こそ失いたくないと思った。
その願いを、今夜全部彼に背負わせたくはなかった。
だから私は、ただ言った。
「これから、よろしくね」
「ああ。よろしく」
*
帰り道、話すことはたくさんあるはずなのに、二人とも静かだった。
手をつないでいるだけで、会話の場所までいっぱいになったみたいだった。
店の前へ着いても、カイルはすぐ手を離さなかった。
「明日、顔に出るかな」
「もう出てるよ」
私が答えると、彼は困った顔をした。
「仕事、大丈夫かな」
「そこは、ちゃんとして」
「する」
真面目に頷くのがおかしかった。
扉を開ける前に、私から手を握り直した。
「会えて、よかった」
カイルがこちらを見る。
「俺も」
それだけで、また帰りづらくなった。
*
父と母には、その夜のうちに話した。
カイルは玄関先で背筋を伸ばし、私の隣に立っていた。
「リーナさんと、お付き合いさせてもらうことになりました」
いつもと違う呼び方に、私まで緊張した。
母は驚かなかった。
「そう。リーナが困った顔をしたら、ちゃんと聞いてやってね」
「はい」
「言いたいことがあるのに、忙しいからって飲み込む子だから」
「母さん」
抗議すると、父が口を開いた。
「カイルさんも、言っていいんですよ。うちの娘、世話を焼きたがるでしょう」
彼は私を見て、少し笑った。
「はい。助かってます」
父も笑った。
祝福は、食堂らしく温かいお茶になった。
母が焼き菓子を出してきた。昼間、カイルが持ってきてくれたものだった。
「三つだから、誰かと半分ね」
「私、カイルと分ける」
口にしてから、父と母の顔を見られなくなった。
隣でカイルが咳払いをする。
「じゃあ、俺が小さいほうで」
「同じ大きさに割ればいいでしょう」
「それが難しいんだろ」
私たちは皿の上で菓子を割った。少しだけ大きいほうを彼へ渡すと、カイルは黙って受け取った。
母が笑いながら、お茶を注いでくれた。
特別な夜なのに、食べるものを分けている。そういう始まりが、私たちには似合う気がした。
四つ並んだ杯を前に、カイルがほっと息を吐く。
私は隣で、その袖へそっと触れた。
恋人になったからといって、明日の仕事がなくなるわけではない。
休みも、都合よく合ってはくれない。
それでも、明日会いたいと伝える相手ができた。
その人が、私の隣で笑っていた。
思い出の続きから、今を生きる二人の恋へ。ここからは、恋人同士としての日々も描いていきます。




