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生まれ変わったこの街で、もう一度恋をする  作者: 凡夫 成


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11/15

第11話 待つ時間にも、名前をつけて

お読みいただき、ありがとうございます。


雨で変わってしまった、二人の約束。忙しい毎日の中で、待つ側の気持ちにも目を向けるお話です。

 雨の日の食堂は、濡れた上着の匂いがする。

 入口に桶を置き、床を拭き、湯を多めに沸かす。晴れた日にはいらない仕事が、少しずつ増える。

 それでも今日は、時計を見るたびに嬉しかった。

 カイルが仕事を終えてから、夕食を食べに来る。閉店のあと、二人で少し歩こうと約束していた。

「雨、やまないねえ」

 母が窓を見た。

「軒下で話すだけでもいいよ」

「私は、洗濯物の心配をしてたんだけど」

 顔が熱くなり、私は空の皿を重ねた。

 約束をしたのは三日前。次の休みは合わないから、とカイルが言ってくれた。長い時間ではない。それでも、仕事の先に会える予定があると、一日が少し違って見えた。


     *


 夜の客足が落ち着いた頃、衛兵の制服を着た青年が来た。

「カイルから、伝言です」

 胸が先に縮んだ。

「西門へ応援に出ています。荷車が横転して、道が塞がったそうで。今日は、終わる時刻が読めないと」

「怪我は」

「本人は無事です。手が離せないので、お伝えしてほしいと」

 私は息を吐いた。

「ありがとうございます。こちらは気にしないでと、伝えてください」

 青年へ温かいお茶を渡す。飲み終えると、彼は礼を言って雨の中へ戻った。

 無事ならいい。

 それが一番だ。

 そう思っているのに、用意していた二人分の杯を見ると、指が止まった。

「片づけとこうか」

 母の声に、私は頷いた。

「うん。今日は、もう来られないと思う」

 言葉にすると、やっと寂しさの形が分かった。


     *


 閉店して、煮込みの鍋を小さな火に戻した。

「置いとくのか」

 父が尋ねる。

「明日の分にもなるから」

 父は何も言わず、蓋をした。

 私は椅子に座り、髪留めを外した。白い花の彫り目を親指でなぞる。

 待つと決めたわけではない。ただ、まだ眠くなかった。

 窓の外を通る足音がするたび顔を上げ、違うと分かって帳簿へ戻る。その繰り返しが嫌になって、とうとう帳簿を閉じた。

 好きになる前は、来ない人をこんなふうに待たなかった。

 彼が悪いのではない。

 それでも、私は残念だった。

 どちらか一つにしなければいけない気がしていたけれど、きっと両方でいいのだと思った。


     *


 扉を叩く音がしたのは、母が二階へ上がったあとだった。

 開けると、カイルが立っていた。

 髪が濡れ、泥のついた外套から水が落ちる。

「遅くに、ごめん。灯りが見えたから」

「終わったの?」

「ああ。伝言、届いた?」

 頷くと、彼はほっとした顔をした。

「今日は、もう帰る。顔だけ見て謝りたくて」

 私は扉を大きく開けた。

「入って。お腹は?」

「パンは食った」

「それ、夕飯?」

 カイルは黙った。

 私は笑って、父を呼んだ。厨房から顔を出した父は、彼を見るなり乾いた布を持ってきた。

「外套はここへ。床はあとで拭けばいい」

「すみません」

「腹が減ってる人を座らせる店だからね」

 父は鍋へ戻った。カイルは何度も頭を下げ、窓際の席へ腰を下ろした。


     *


 煮込みを前にしても、彼はすぐ匙を取らなかった。

「待たせたよな」

「少し」

 正直に答えると、彼の眉が下がった。

「ごめん」

「うん。でも、連絡くれたから。怪我したんじゃないって分かって、安心した」

 私は向かいへ座った。

「また、こういうことある?」

「あると思う。天気とか、事故とか。休みだって、急に変わることはある」

「そっか」

「……嫌になるよな」

 カイルの声が小さくなった。

 私は首を振った。

「今日、会いたかった。それは本当。でも、仕事を放って来てほしかったわけじゃないよ」

 彼が顔を上げる。

「だから、遅れるって教えてくれてよかった。これからも、分かったら教えて」

「ああ」

「私も、店が混んで出られなくなるかもしれないし」

「それは、皿洗いに行く」

「休みの日にまで?」

「皿洗いながらでも話せるだろ」

 私は笑った。胸につかえていたものが、ようやくほどけた。

 カイルも少し笑い、今度こそ匙を取った。


     *


 横転した荷車には、町へ野菜を運ぶ夫婦が乗っていたという。

 雨で路肩が崩れ、片方の車輪が落ちた。怪我は軽かったけれど、怯えた馬を落ち着かせるのに時間がかかったらしい。

「馬のほうが、俺より力あるからな。焦ると余計に危ない」

「どうしたの?」

「飼い主に声かけてもらった。俺らは周りを静かにして、荷を下ろして」

 華やかな武勇伝ではなかった。

 濡れた袋を運び、通る人へ頭を下げ、一本ずつ車輪止めを置く仕事。

 そんな一日のあとに、彼はここへ来てくれた。

「お疲れさま」

 言うと、カイルの匙が止まった。

「……うん」

 目元が、少し緩んだ。

 その顔を見られただけで、待った時間が全部なくなるわけではない。でも、今ここにいることが嬉しかった。

 私はパンをもう一切れ皿へ置いた。

「明日は休み?」

「午後から。午前は寝る」

「よかった。ちゃんと寝て」

「起きたら、また顔出していい?」

「うん。約束は、起きてから」

 彼が笑った。

「そうしよう」


     *


 食事を終えたあと、私は棚から温めた石を取り出した。薄い布に包み、彼の前へ置く。

「帰るとき、手に持って。父さんが冬に使うの」

「親父さんの分は?」

「もう一つある」

 カイルは遠慮がちに手を伸ばし、布ごと握った。

「あったけえ」

 声が妙に素直で、私は嬉しくなった。

 誰かを守ってきた手も、冷える。温めてもらう側になっていい。その当たり前を、彼にも忘れないでほしかった。

「こういうの、借りると返しに来る用事ができるな」

「用事がなくても、来ていいんだよ」

 言ってから、目を合わせられなくなった。

 カイルは石を包み直した。口元だけが、ずっと笑っていた。


     *


 父が厨房の明かりを落とす前に、カイルはもう一度、礼を言った。

「遅くまで、すみませんでした」

「うちも、娘がいつ帰ってくるか分からなくて心配する日はあるからね」

 父は布巾を畳みながら言った。

「連絡をくれたのは、助かったよ」

 カイルが姿勢を正す。

 私は隣で、少しだけ居心地が悪くなった。叱られているわけではないのに、二人が真面目に話していると、こちらまで背筋が伸びる。

「必ず帰るって、簡単には言えませんけど」

 彼は言葉を選んでいた。

「分かることは、ちゃんと伝えます」

 父は頷いた。

「それで十分。私だって、何時に仕込みが終わるか、毎日外す」

「それは改善してよ」

 私が口を挟むと、父が笑った。

 カイルもつられて笑う。その表情を見て、さっきの約束が大きすぎないことにほっとした。

 守れない約束を、安心するためだけにしてほしいわけではない。

 今日どうだったかを聞き、明日はどうなりそうかを話す。分からないときは、分からないと言う。

 そのくらいのことを、これから少しずつ覚えていきたい。

 父が奥へ引っ込むと、カイルが声を落とした。

「ちょっと、緊張した」

「魔物より?」

「比べるなよ」

 情けなさそうな顔がおかしくて、私はまた笑った。

 彼は、私の父の前でも、ちゃんと自分の言葉で話してくれた。それが嬉しかったとは、まだ恥ずかしくて言えなかった。


     *


 帰る頃には、雨が小さくなっていた。

 軒下へ出ると、空気が冷たい。カイルは外套を羽織り直し、私に向き直った。

「今日の分、また誘っていい?」

「うん。今度は晴れた日」

「晴れなかったら?」

「ここで、お茶」

 彼が笑った。

「選択肢、増えたな」

「雨の日は雨の日で、考えればいいんだね」

 カイルは頷いた。

 それから、大きな手が少しだけ持ち上がった。

 迷っているように見えたので、私から指先へ触れた。

 彼の手は、まだ少し冷たかった。

 両手で包むと、カイルが驚いた顔をした。

「帰ったら、温まってね」

「……ああ」

 短い返事なのに、何だか頼りなく聞こえた。

 私は手を離した。

 彼は一度、開いた手のひらを見て、それから私へ笑った。

「おやすみ、リーナ」

「おやすみ、カイル」

 待っているだけの夜ではなかった。

 会いたかったと、伝えられた夜だった。


会いたかったことも、仕事を大切にしてほしいことも、どちらも本当。二人で話す時間を、少しずつ作っていきます。

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