第11話 待つ時間にも、名前をつけて
お読みいただき、ありがとうございます。
雨で変わってしまった、二人の約束。忙しい毎日の中で、待つ側の気持ちにも目を向けるお話です。
雨の日の食堂は、濡れた上着の匂いがする。
入口に桶を置き、床を拭き、湯を多めに沸かす。晴れた日にはいらない仕事が、少しずつ増える。
それでも今日は、時計を見るたびに嬉しかった。
カイルが仕事を終えてから、夕食を食べに来る。閉店のあと、二人で少し歩こうと約束していた。
「雨、やまないねえ」
母が窓を見た。
「軒下で話すだけでもいいよ」
「私は、洗濯物の心配をしてたんだけど」
顔が熱くなり、私は空の皿を重ねた。
約束をしたのは三日前。次の休みは合わないから、とカイルが言ってくれた。長い時間ではない。それでも、仕事の先に会える予定があると、一日が少し違って見えた。
*
夜の客足が落ち着いた頃、衛兵の制服を着た青年が来た。
「カイルから、伝言です」
胸が先に縮んだ。
「西門へ応援に出ています。荷車が横転して、道が塞がったそうで。今日は、終わる時刻が読めないと」
「怪我は」
「本人は無事です。手が離せないので、お伝えしてほしいと」
私は息を吐いた。
「ありがとうございます。こちらは気にしないでと、伝えてください」
青年へ温かいお茶を渡す。飲み終えると、彼は礼を言って雨の中へ戻った。
無事ならいい。
それが一番だ。
そう思っているのに、用意していた二人分の杯を見ると、指が止まった。
「片づけとこうか」
母の声に、私は頷いた。
「うん。今日は、もう来られないと思う」
言葉にすると、やっと寂しさの形が分かった。
*
閉店して、煮込みの鍋を小さな火に戻した。
「置いとくのか」
父が尋ねる。
「明日の分にもなるから」
父は何も言わず、蓋をした。
私は椅子に座り、髪留めを外した。白い花の彫り目を親指でなぞる。
待つと決めたわけではない。ただ、まだ眠くなかった。
窓の外を通る足音がするたび顔を上げ、違うと分かって帳簿へ戻る。その繰り返しが嫌になって、とうとう帳簿を閉じた。
好きになる前は、来ない人をこんなふうに待たなかった。
彼が悪いのではない。
それでも、私は残念だった。
どちらか一つにしなければいけない気がしていたけれど、きっと両方でいいのだと思った。
*
扉を叩く音がしたのは、母が二階へ上がったあとだった。
開けると、カイルが立っていた。
髪が濡れ、泥のついた外套から水が落ちる。
「遅くに、ごめん。灯りが見えたから」
「終わったの?」
「ああ。伝言、届いた?」
頷くと、彼はほっとした顔をした。
「今日は、もう帰る。顔だけ見て謝りたくて」
私は扉を大きく開けた。
「入って。お腹は?」
「パンは食った」
「それ、夕飯?」
カイルは黙った。
私は笑って、父を呼んだ。厨房から顔を出した父は、彼を見るなり乾いた布を持ってきた。
「外套はここへ。床はあとで拭けばいい」
「すみません」
「腹が減ってる人を座らせる店だからね」
父は鍋へ戻った。カイルは何度も頭を下げ、窓際の席へ腰を下ろした。
*
煮込みを前にしても、彼はすぐ匙を取らなかった。
「待たせたよな」
「少し」
正直に答えると、彼の眉が下がった。
「ごめん」
「うん。でも、連絡くれたから。怪我したんじゃないって分かって、安心した」
私は向かいへ座った。
「また、こういうことある?」
「あると思う。天気とか、事故とか。休みだって、急に変わることはある」
「そっか」
「……嫌になるよな」
カイルの声が小さくなった。
私は首を振った。
「今日、会いたかった。それは本当。でも、仕事を放って来てほしかったわけじゃないよ」
彼が顔を上げる。
「だから、遅れるって教えてくれてよかった。これからも、分かったら教えて」
「ああ」
「私も、店が混んで出られなくなるかもしれないし」
「それは、皿洗いに行く」
「休みの日にまで?」
「皿洗いながらでも話せるだろ」
私は笑った。胸につかえていたものが、ようやくほどけた。
カイルも少し笑い、今度こそ匙を取った。
*
横転した荷車には、町へ野菜を運ぶ夫婦が乗っていたという。
雨で路肩が崩れ、片方の車輪が落ちた。怪我は軽かったけれど、怯えた馬を落ち着かせるのに時間がかかったらしい。
「馬のほうが、俺より力あるからな。焦ると余計に危ない」
「どうしたの?」
「飼い主に声かけてもらった。俺らは周りを静かにして、荷を下ろして」
華やかな武勇伝ではなかった。
濡れた袋を運び、通る人へ頭を下げ、一本ずつ車輪止めを置く仕事。
そんな一日のあとに、彼はここへ来てくれた。
「お疲れさま」
言うと、カイルの匙が止まった。
「……うん」
目元が、少し緩んだ。
その顔を見られただけで、待った時間が全部なくなるわけではない。でも、今ここにいることが嬉しかった。
私はパンをもう一切れ皿へ置いた。
「明日は休み?」
「午後から。午前は寝る」
「よかった。ちゃんと寝て」
「起きたら、また顔出していい?」
「うん。約束は、起きてから」
彼が笑った。
「そうしよう」
*
食事を終えたあと、私は棚から温めた石を取り出した。薄い布に包み、彼の前へ置く。
「帰るとき、手に持って。父さんが冬に使うの」
「親父さんの分は?」
「もう一つある」
カイルは遠慮がちに手を伸ばし、布ごと握った。
「あったけえ」
声が妙に素直で、私は嬉しくなった。
誰かを守ってきた手も、冷える。温めてもらう側になっていい。その当たり前を、彼にも忘れないでほしかった。
「こういうの、借りると返しに来る用事ができるな」
「用事がなくても、来ていいんだよ」
言ってから、目を合わせられなくなった。
カイルは石を包み直した。口元だけが、ずっと笑っていた。
*
父が厨房の明かりを落とす前に、カイルはもう一度、礼を言った。
「遅くまで、すみませんでした」
「うちも、娘がいつ帰ってくるか分からなくて心配する日はあるからね」
父は布巾を畳みながら言った。
「連絡をくれたのは、助かったよ」
カイルが姿勢を正す。
私は隣で、少しだけ居心地が悪くなった。叱られているわけではないのに、二人が真面目に話していると、こちらまで背筋が伸びる。
「必ず帰るって、簡単には言えませんけど」
彼は言葉を選んでいた。
「分かることは、ちゃんと伝えます」
父は頷いた。
「それで十分。私だって、何時に仕込みが終わるか、毎日外す」
「それは改善してよ」
私が口を挟むと、父が笑った。
カイルもつられて笑う。その表情を見て、さっきの約束が大きすぎないことにほっとした。
守れない約束を、安心するためだけにしてほしいわけではない。
今日どうだったかを聞き、明日はどうなりそうかを話す。分からないときは、分からないと言う。
そのくらいのことを、これから少しずつ覚えていきたい。
父が奥へ引っ込むと、カイルが声を落とした。
「ちょっと、緊張した」
「魔物より?」
「比べるなよ」
情けなさそうな顔がおかしくて、私はまた笑った。
彼は、私の父の前でも、ちゃんと自分の言葉で話してくれた。それが嬉しかったとは、まだ恥ずかしくて言えなかった。
*
帰る頃には、雨が小さくなっていた。
軒下へ出ると、空気が冷たい。カイルは外套を羽織り直し、私に向き直った。
「今日の分、また誘っていい?」
「うん。今度は晴れた日」
「晴れなかったら?」
「ここで、お茶」
彼が笑った。
「選択肢、増えたな」
「雨の日は雨の日で、考えればいいんだね」
カイルは頷いた。
それから、大きな手が少しだけ持ち上がった。
迷っているように見えたので、私から指先へ触れた。
彼の手は、まだ少し冷たかった。
両手で包むと、カイルが驚いた顔をした。
「帰ったら、温まってね」
「……ああ」
短い返事なのに、何だか頼りなく聞こえた。
私は手を離した。
彼は一度、開いた手のひらを見て、それから私へ笑った。
「おやすみ、リーナ」
「おやすみ、カイル」
待っているだけの夜ではなかった。
会いたかったと、伝えられた夜だった。
会いたかったことも、仕事を大切にしてほしいことも、どちらも本当。二人で話す時間を、少しずつ作っていきます。




