祖国のすぐそばへ 6
「あの、私は暴漢でも物盗りでもありませんから……」
その男はズボンの後ポケットに入れていたメモ帳とペンを出してきた。
「サインが欲しかっただけです」
ハットたち三人はテーブルの下で顔を見合わせ、笑いながら椅子に座り直した。
「私たちは普通の人間ですから、サインなんてものはしないですよ」
ペトがその男に話し掛けたのですがブルはやや不満げな顔をした。ブルは有名人ぶってサインをしたかったのかもしれません。ハットは困惑した表情から安堵の表情を見せていました。
「そうですか、それは仕方がないですね。私は先祖代々モノルに住む一家に生まれたナイル・エリオと言います。毎日欠かさずあなた方の投稿をチェックしています」
「ナイル・エリオさん……、よくメッセージを送ってくださる方ですよね! 私はミッドハット・ホールと言います」
「あなたがハットさんですか! いつもご丁寧に返信してくださりありがとうございます」
このナイル・エリオと言う男性は、チカリヤ人が多数流入したことや彼たちのコミュニティが勢力を拡大していることに加え、オルダヤやヒカルゴでの洗浄党の勢いがシルバーピークにも飛び火するのではという警戒感、さらにはすでに洗浄党が流入していて見えないところで活動しているのではないかという恐怖心など、祖国シルバーピークの行く末を案じているという。
ハットたちは多くの人たちの意識や考え方、実際に感じていることなどを聞くためにモノルの街を回る予定で、最初の地としてこの市場を選んだことを告げた。
「市場は一般の方が最も多く集う場所ですから、ここならば本音の部分が聞き出せるのではと思ったのです」
「確かに多くの人が行き交うモノルで最も賑やかな場所の一つですからね。でもハットさんたちに言っておきますが、ここはシルバーピーク人以外も多くが集まります。あなたたちに対して嫌悪感どころか敵対心を抱く人もいますから注意するほうがいいですよ」
「ついさっき僕とブルが襲われましたよ、ここで嗅ぎまわっていたことが気に入らなかったようです」
「最近は物盗りよりもそういう犯罪が多いですから」
「なるほどね、だから俺が大声で怒鳴りつけた時も誰も驚かず、お店の人たちがすっと入ってきて男を捕まえたんだな」
「今日のSNSの発信も楽しみにしています」
そう言うと男は離れて行った。
「ペト、俺はサインする気満々だったのに、まさか断るとはなあ」
「ブル、僕は断ってくれて助かったよ。サインなんて芸能人かスポーツ選手がするものだろ? 僕はただSNSで発信している一般人だもん。それにさ、サインを書いたのは良いけど悪用されたら怖いなとも思ったんだよ」
「ブル、ハットの言い分が正しいと私も思うよ。まったくでたらめな情報にハットのサインを載せられそれが広まったら、後々大変なことになるだろ?」
「そういうことまで考えなくちゃいけないのか……、何だか窮屈な生き方をしているんだな、俺たちって」
「ブル、ハットはすべて本名を名乗って発信しているから気を付けるしかないんだよ。私たちはハットと違ってあまり名前は出してはいないけど、ハットの仲間のブルがこういうことを言ってたなんて嘘情報にサインが転記されたら困るだろ。それに、窮屈な生き方になっているのは私たちだけじゃない、シルバーピークなんて自由な国と言われてたのに、今は警戒心を持って生きている人も多いわけだしさ」
ヒカルゴだって昔は自由で開かれた国だったのに、洗浄党が支配するようになって少しずつ自由が奪われている。ゆっくりと締め付けられているからヒカルゴ国民で洗浄党を支持する人たちはそのことに気付かない。
いわゆるゆでガエルも状態です。気付いた時には時すでに遅くオルダヤのようになっていることでしょう。国への不平不満を呟いただけで禁固四五年も刑罰が待つ国に。
「ペト、ブル、今日はもう引き上げようか?」
「珍しいね、やっぱり襲われたことがショックなの?」
「俺はあのくらいならば全然平気だぜ、危なかったらまた俺が助けてやるぞ」
「そうじゃないんだよ、総領事にいろいろと話を聞きたいんだ」
本当は夜まで話を聞いて回ろうと計画していたのですが、ハットは何かを確認したくなったのか切り上げて帰ることを提案した。
「ハットが何か言いだすときは必ず大事な要素が含まれているからな、わかったよハット、俺も帰るとするよ」
「そうだね、ハットが何かを思いついた時は必ず何かがある。私もハットの意見に賛成するよ」
「ブル、ペト、ごめんね。どうしても総領事に確認したいことがあって。それとね……」
ハットは小声で話を続けた。
「え? 本当かよ!」
「うん、今もなんだよ」
「ハット、君はそれにずっと気付いていたのかい?」
「ううん、ずっとではないけど……、警察署から出てきた時に確信したんだ。その前からおかしいなとは思っていたけど」
三人は帰りはタクシーに乗車した。バスで帰るつもりだったけど、次のバスだと一時間以上待たなきゃいけなかったから。それに三人のバス代とタクシーの料金だとほぼ差もないですから。
タクシーの後部座席で二人に挟まれるように座ったハットは、また消灯したスマホを鏡の代わりにして背後を警戒していた。
「ハット、また後ろを警戒しているのか」
「ハットは用心深いというよりは、身の危険への察知能力が高いのかな」
「ペト、察知能力が高ければ市場で襲われることもなかったよ」
そう言いながらも後ろを付けてくるオートバイへの警戒をMaxにしたままのハット。タクシー運転手もオートバイの存在に気付いたようで、
「ちょっと遠回りしてみましょうか」
「運転手さん、お願いします」
そう返事したハットに対して二人は、
「うん? 付けられているのか?」
「ハット、後ろにいるオートバイかい?」
「うん……」
運転手は少し遠回りしたリ、街区をくるっと一周して元の道に戻ったりしましたが、オートバイはピッタリと後ろを付いてきます。
「もしも命を狙うのならばもう撃たれているはずさ。でもただ後ろを付いてきているってことは、行先を知りたいのだろうね。どうする、領事館ではなく別の場所で降りるかい?」
「いえ、そのまま領事館で降ろしてください」
ハットはタクシー運転手にそう答えた。
「おい、ハット……」
「ハット、いつものように何か考えがあってのことかい?」
「たぶん、僕たちがどこをうろつくのかが知りたかっただけで、僕たちが領事館にいることを知っている人物だから大丈夫なはずだよ」
タクシーが領事館の車寄せに止められると、付けてきたオートバイは領事館の前の道をそのまま素通りしていった。




