最終章 紅坂の未来に光はあるか
最終章です。
抜けるような五月の青空を、鳶が悠々と泳いでいる。
松葉杖を付いた紅坂は、伊賀の丘に立っていた。
優しい葉擦れの音をたてる、木々の匂いを嗅いでいると一昨日の事が嘘のようだ。
だが、傷痕の消えた腹部と、心の底にぽっかりと空いた空洞は、懐かしい緑が鼻孔をくすぐっても、心に安らぎを与えてはくれなかった。
目が覚めるなり、問うた兄の安否。
マルから手渡された答えは、古びた一枚の写真だった。
そして一言。
「魔の死体は残らない」
目の前が、暗転し、再び気を失った。
薫風がはためかすワンピースのポケットの中で、よれたフォトを押さえる。
十三の時、兄と二人で撮った写真。
目に涙が滲むのを抑えきれない。
昨日一日、自室で泣き続けたのに、涙は涸れなかったようだ。
白い麻の生地で覆われた、お腹を撫でる。
無くなった傷は、代わりに大きな裂け目となって、自分の心に穿たれた。
アンちゃん。
そう呟き、紅坂は又泣いた。
去ったタクシーの代わりに、里からの迎えが、舗装されていない道路をやってきた。
紅坂の前に巨大な木造の門が聳えている。
伊賀の里にある、頭領の邸宅だ。
幼い頃からの習性で、ここに立つたび、足がすくむ。
その中の、広大で美しい日本庭園も、そこで、折檻を受けた記憶のある紅坂にとっては、大岡裁きの白州も同然だ。
苦い思いしか去来しない。
石畳を、ひょこひょこ歩きながら、紅坂はふと、今日は中間テストの初日だったな、と思った。
蒼瀬も美香も、消耗しきってはいたが、命に別状はなさそうだった。
気まずそうな、小夜と雪の顔、心配げな樫沢。
誰も何も言わなかった。
もう会うこともない。
もうすぐ一七歳の誕生日だ。
以前は、一生来てほしくないと、すすり泣いた、十七歳の誕生日。
いまは、何とも思わない。
そういえば、兄ををその手で仕留めれば、苦界行きはカンベンしてやると頭領にいわれていた。
自分が…… 手を下したのではないから、その話は無しだろう。
それで、よかった。
あんちゃんを煙に変えたのが自分でなくて、本当に良かった。
そんな事をしていたら、死んでも自分が許せないだろう。
紅坂は自分が許せなかった。
大好きな兄の事を信じ切れなかった自分が。
紅坂は、犬丸が姿を消したとき、それは自分を助けるためだと思い込めるほど、自分に自信が持てなかった。
人に愛された事が禄に無いためだ。
兄の口癖は、「俺たち居候だから、しゃあねえやな」だった。
犬丸は、紅坂の将来に付いて、何も言ったことは無かった。
今思えば、何故、紅坂に、一連の計画を匂わせなかったか分かる。
幼い頃から染みついた恐怖感で、紅坂は頭領に嘘をつくことが出来ないからだ。
そんな紅坂の事だけを考えてくれていた兄が、自分を捨てたと思い込んでいた。
紅坂は、自分に対して情けないを通り越し、愛想が尽きていた。
コロコロの付いたキャリーバッグが石畳でガタガタと音をたてる。
結果を頭領に報告する義務を終えたら……
紅坂は、キャリーバッグに隠してある、TNT火薬を意識した。
この邸宅を、自分ごと吹き飛ばすつもりだった。
だから、なにもかもどうでも良かった。
ただ、この長い廊下を歩き、頭領のいる部屋までの、何分かは、二人の同級生を思い出し、短い空想に浸りたい。
今頃、初日の試験も終わって何をしているだろう。
明日の試験に向けての勉強か。
それとも……
クスリと、紅坂は笑ってしまった。
自分の事をちょっぴりは考えてくれてるかな。
怪我は大丈夫だろうか、とか、どうしてるかな、とか。
まあ、それならメールくらいあってもよさそうなものだ。
でも……
遠慮してるとか。
紅坂は自分のめでたい空想に、笑みを深くした。
でもそれも終わり。
紅坂は辿り着いた襖の前で、膝を付いた。
大きく深呼吸をする。
その時、不機嫌なしゃがれ声がした。
「ミク、早く入んな」
頭領の声に、紅坂は心臓を跳ね上がらせた。
闘えば負けるわけは無いし、自爆する覚悟も固めたが、やはり怖い。
失礼します、と返事をし、紅坂はいつもの呪文を唱える。
あんちゃん、もうすぐそっちに行くね。だから、力を貸して。
LOCK&……
『ロー』紅坂は下腹に力を込め、襖を開けて立ち上がる。
もう、膝を突いてこの老婆には会わない。言いたいことを言ってから死んでやる。
「……ド」
そして、絶句した。
その和室は、二十畳ほどあるだろうか。最低限の調度に、紅坂の向かいの壁一面、障子戸が開け放たれ、縁側の向こうに広大な森が見えた。
忍びの位が上がる時などの、特別な折りにしかこの部屋に呼ばれたことはない。
伽羅の香りがしみついた畳の上には、肘掛けに凭れ、背中越しに鋭い眼光を向ける、和服姿の老婆。
頭領だ。
「ミク、こっちに来て座んな」
紅坂はそう言われても、動けなかった。
引いてきた、キャリーバッグの取っ手をカタリ、と落としてしまった。
森を背に端座している二つの影に目も魂も奪われていたからだ。
「おう、紅坂おせえぞ」
学ラン姿の樫沢が言った。
暑苦しい黒の改造学生服を素肌に纏い、さらしを巻いた腹を見せている。
座布団の上にあぐらを掻いたその姿は、異様な迫力を発散していた。
道着を纏った武術家が、普段の何倍も大きく見えるのに似ている。
紅坂は思い当たった。応援団の正装だ。
そしてその横。
細身の体にスーツを纏い、洒落たネクタイを締めている。蒼瀬だ。
女の子のような顔はそのままだが、正座したその姿に、紅坂は気圧されるようなオーラを感じた。
首には、包帯が巻かれ、顔色も悪い。
「先に、おじゃましてます―― 相棒が、こちらのご婦人に話があるそうなので」
蒼瀬は無表情に言った。
紅坂は一言も発せ無かった。
「すわれ!」
頭領の怒声を浴び、紅坂は我に帰った。
慌てて、頭領の斜め後ろに控える。
紅坂は、真っ白になった頭のまま、会話が始まるのを待った。
明日から、20時投稿に戻ります!
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