(6-4)
こんばんは。
今夜もよろしくお付き合いのほどを。
闇だ。
真っ赤な闇。
どこからか、低く地を這うような唄が聞こえる。
痛い。
硬い何かが脳髄を鼓動に合わせて突き上げてくる。
そして、熱い。
全身をじりじりと焦がすような息苦しい熱。
気がヘンになりそうな感覚に苛まれ、美香はぼんやりと、死を意識した。
思考のどこか遠くで恐怖感が必死に手を振っているが、取り合う気になれず、
ただ、何もかもが面倒くさかった。
美香は冥土への道を歩もうとしていた。
そのとき。
美香ちゃん。
どこかで誰かが呼んでる。それは、瑞々しい感情を刺激する、初夏の朝露。
美香ちゃん。
また誰かが呼ぶ。
それは、暗灰色のキャンバスに落とされた、パステルカラーの色彩。
あなたは誰? ごめんね、うまく思い出せないの。
美香はぼんやりと独りごちた。
美香を包む闇の色が、暗色へと変化していった。
それにつれて、痛みと熱のデュエットがすこしづつ遠くなっていく。
地の底から聞こえる唄がだんだん大きくなってきた。
そして、自分を優しく包む、暖かい感触。
闇が明け、光が射した。
白く霞む視界に、ぼんやりとした景色が映る。
突然、いままで聞こえていた唄がはっきりと耳に飛び込んできた。
「……おんばざらだえんてぃ主夜神そわか」
それは真言だった。
夜を護り、邪を退ける主夜神のマントラ。
猫を使い神とする、夜の守護神。
われら五行天狗の本尊だ。
徐々に視野に入る輪郭が焦点を結び、自分が誰かに抱きしめられてるのが分かった。
日向の干し草のような心落ち着く匂い。
……アオくん?
呼びたくても口に出す勇気がない彼のあだ名。
それを口の中で転がす。
視界に入るのは、自分を抱き起こし、包みこむ滑らかな腕と肩。
そして。
彼の首筋に刻まれた傷から溢れるビロードの様な色の鮮血。
美香の呼吸が荒くなった。
自分の体も、敷き詰められた氷で湿った布団も、ペンキをひっくり返したかのように赤黒い。
お互いが、半裸という事実よりも、彼の命に関わる状態に気づき、美香は心臓が止まりそうになった。
「蒼瀬…… くん?」
だが、口から漏れ出たのは、しゃがれた呻き声だった。
はっとしたように、蒼瀬が体を離し、美香を見つめた。
驚愕を宿したその表情は、薄目をあけている美香を認め、顔をくしゃくしゃにした。
屑星を散らした様な煌めきが踊る、
蒼瀬の大きな瞳に見る見る涙が盛り上がった。
ああ、この顔だ。美香は思った。
薄汚れた電気街で見つけた、私の王子様。
脆さに似合わない強さを秘めた、優しい狼。
「美香!?」
傍で、腰を浮かせたミサが絶叫した。
「蒼瀬くん、美香……」
駆け寄りそうなミサを押しとどめ、蒼瀬は半泣きで言った。
「目を開けました…… 熱もマシになってます。でもこれからです」
「美香、お願い、そのまま…… マルさん、なにやってんです、もっとじゃんじゃん唱えてってば!」
身振り手振り忙しく、無理を言うミサの声をどう感じたのか分からないが、マルの読経が大きくなった。
荒い呼吸を続ける美香は、蒼瀬の傷の事を問おうとした。
華奢で白い裸体を晒した少年は、手のひらでごしごし顔をこすると、頑張った笑顔を美香に見せてくれた。
それは過たず、美香のハートに届く。
朦朧とした意識の中で、美香は宇宙の真理に気づいた。
私ハ、カレニ、恋シテルンダ
その事は、彼女にとって、世界中の紛争よりも、近所のスーパーのタイムセールよりも、生きた金属よりも、ずっとずっと大事だった。
涙が溢れて来た瞳を閉じる。
「美香、蒼瀬くんの姿を瞼に焼き付けて」
ミサの真剣な声が聞こえたから。
「王子様は白馬に乗ってるとは限らないの」
次回、「電気街の羊に狼の牙はあるか」




