(6-3)
今晩は。
今夜もよろしくお付き合いのほどを。
空間も、時間も、全てが凍てついた。
呼吸をする事も忘れた小夜たちに、犬丸の怒りに満ちた言葉が追い討ちをかける。
「伊賀に貰われっ子が多い理由はそれだ。親の容姿が良ければ、子を買うんだ。
一生遊んで暮らせる金額を提示してな……
上手く偽装している魔が、本性を現すのは夜だ。肌まで合わせりゃ、確実に発見できる。
だが、ミクにも逃げ道はあった。伊賀の忍びは、十五歳になったら、紛争地帯で人を殺すか、諜報の仕事に就くかを選択できる。
だが、ミクに人は殺せねえ。甘すぎるんだ」
犬丸は天を仰いだ。
「伊賀は、俺が魔に同化した事にビビッてる。当然だ。ミクにひでえ事する奴ぁ皆殺しにしてやる、官僚だろうと、大統領だろうとな。
俺はそれを頭領に電話で伝えたが、あのババア、掟は掟、魔の脅しに膝を折ったら、取り潰されるまでもなく、伊賀は終わりだとよ」
小夜は、伊賀が慌てる理由を理解した。
国家にとって犬丸は、最凶最悪のテロリストだ。
そして、これが市ヶ谷の知るところになれば、間違いなく伊賀は取り潰される。
表立った大掛かりな動きを控えたくもなるはずだ。
樫沢は吼えた。
「ふざけんな! そんな事、絶対にさせねえ、ケンさん、約束します、俺が……」
必死の台詞を、犬丸が怒気に満ちた声で遮った。
「俺にできねえことが、どうやったらお前にできんだよ? 伊賀のデカさを知らねえからそんな事が言えんだ」
樫沢は唇を震わせ、言葉を失った。
犬丸の声は、計り知れない苦痛に満ちていた。
「いいか? お前が今思いついた事なんざ、何万回もシュミレーション済みなんだよ。そして、俺の出した結論はコレだ。
陰の金属でミクを健常体にし、死を偽装して伊賀から逃がす、顔と戸籍は、変えなくちゃなんねえがな。
だが、伊賀の防衛網を侮ったおかげで失敗だ。
なら、ケルベロスの死体から陰の金属を取り出せないか。が、同化している以上、そうなると俺も死ぬ。結局コード000から血を抜くしかねえ」
「アオはどうなるんすか?」
「死にゃしねえ…… と思う。実際どれだけの血が必要か、わかんねえからな」
雪の震える声が、割って入った。
「勝手言いなや、このロン毛。自分らの事ばっかり。まわりはどうでもええんか?」
「いい。俺と、ミクが生き残りゃあな」
犬丸は即答した。
小夜は言った。
「雪」
雪はぺったりと座り込んだままのろのろと顔をあげた。
「とっとと終わらせて、斎賀先生に文句言いにいこうぜ…… ふざけんなってよ」
雪が胸を突かれたように眼を見開いた。
「只、文句いうだけじゃ、つまんねえ、美香にとびきりエグいの捻り出してもらおうぜ。その後、みんなで母さんのカレーを食うんだ」
呆然としていた雪はニヤリと笑うと、慌てて涙を拭った。
「美香の舌に合わせてうんと甘いヤツこさえてもらお。残したら母さん怒るよって見ものや」
そして、謝るんだ、いままでの分。気づけなくて――
ううん、勇気がなくてごめんなさいと。
でも、斎賀先生も悪い。
凄く悪い。
私たちの事を考えるあまり、斎賀先生が不動家にとって、どれだけ大切な存在かを、全然考えてなかったんだ。
小夜の全身から、闘気が放出される。
雪の眼も輝き、目に見えるオーラと共に次女は立ち上がった。
「ほうか、あっぱれな兄妹愛どすな。まずは妹の方から止め刺したりましょか?」
犬丸は慌てた風もなく言った。
「いい考えだが、そいつはやめとけ。早めに死んどきゃ良かったって言う目に遭うぜ」
雪は引かなかった。組んだ腕の拳から音を立てて、鈎爪が伸びる。
「おおこわい、怖い。なら、あんたの首から狩ったることにしまひょ」
犬丸は挑発を無視し、淡々と言った。
「一つ提案がある。結界を解き、俺を通せ。ケルベロスは今眠っている。コード000とミクを渡せばお前達は見逃してやる。うまく行きゃ、誰も死なずに済む」
小夜が答えた。
「俺からも提案がある。てめえ、そこで指咥えて朝まで立ってろ。アオが000なら、母さんが、なんらかの方法を講じてくれるかもしれない。美香をなんとかしてくれるはずだ」
犬丸があきれたように苦笑した。
「おいおい、こっちが先約だぜ?」
バシィッ、と高圧電流の様な音が空間に弾けた。
犬丸が鳥居の結界に腕を突っ込んだのだ。
雪の姿がかき消え、次の瞬間、犬丸の手が届かない距離に出現、不可視の障壁を突き破って来た、犬丸の左手にファイアブレスを放った。
不用意に飛びこまない雪の用心深さに小夜は頼もしさを覚える。
だが、小夜は見た。
犬丸の全身に襲いかからんとした灼熱の炎が届く瞬間、犬丸の左手が変化した。
肘から先が、一瞬でふくれあがり、雪の上半身ほどの、漆黒の球体となった。
いや、それは黒い犬の頭だ。
今となっては見慣れてしまった、ケルベロスの頭部だ。
それが口を開け、禍々しい牙が並んだ口腔内から、黄色い液体を吐き出した。
真っ赤な炎と正面から激突する。犬丸のアンバランスになった左手から、迸る不吉な黄金色は、焼けた鉄板に水をぶちまけたかの様な音を立て、気化し、炎を相殺する。
「雪、下がれ! 神経毒だ!」
小夜の警告に次女は、止まない水勢から距離を取る。
入れ違いに、ハンドボール大の石が唸りを上げて飛来した。
ケルベロスの眉間に鈍い音を立てて命中したそれは、一瞬、毒液の放出を止める。
バックステップする雪の横を、大きな影が追い抜いた。
「お」
小夜が目を瞠った。
「お お お」
小夜の前を、一八〇近い巨体が、猫科の猛獣並の敏捷さで駆け抜けた。
「おおおおおおおらァ!」
地鳴りを思わせる必殺の気合いを入れ、狂気の形相で樫沢は犬丸に突っ込んだ。
技も何もない。タオルの巻かれた右の拳をピッチングの如き、豪快なフォームでフルスイングする。微塵も迷いのない鉄拳は、ケルベロスの眉間に命中し、信じられ無い事に、その巨大な頭部をずれさせた。だが。
「――!」
ケルベロスが悲鳴と共に吐き出した毒液の名残を、樫沢は上半身に受けてしまう。瞬間的にそらした顔は無事だったが、首元にもかかり、硫酸を浴びたかの様な白煙が立ち上った。
「樫沢、水に飛び込め!」
小夜は五メートル以上を一っ飛びに滑空、飛び膝蹴りを、ケルベロスの耳の下あたりに炸裂させた。犬丸は、結界から体の前半分を出しているものの、スパークし続ける見えない電撃で動きが取れない。
「くたばれ!」
小夜は空中で姿勢を変え、犬丸に向かって爪を閃かせた。
獲った!
小夜は、僥倖に、胸を高鳴らせた。
「惜しかったな」
青白いスパークが、侵入者の顔を照らす。
犬丸は既に血まみれの顔で、静かに笑った。
やはり倉庫で、かなりのダメージを受けていたのだ。
だが、小夜の目を釘付けにしたのは、犬丸の逞しい右腕だった。
彼の頸動脈の手前で、小夜の斬撃は無効化されていた。
鈎爪をカードでも挟むように、人差し指と中指で挟んで止めた犬丸は、いっそ優しいとも言える微笑みを浮かべた。
「お前達も樫沢も、俺と同じだ。誰かと、自分を守るために闘ってる…… けどな」
「ごほっ」
犬丸の掌を腹に受け、小夜は軽々と吹っ飛んだ。
雪のそばに墜落する。
「小夜!」
雪の悲痛な声も聞こえない。息が出来ない。目を見開き、よだれを口から垂らしながら、小夜はのたうち回った。
「小夜、しっかりしぃ!」
小夜は顎で、砂利の上を這いずりながら、パニックを起こしていた。
ちぎれた思考の断片が、やたらと大きいフォントで脳内を駆け巡る。
空気。やだ、苦しい、死ぬの? こわい、こわいよ、母さん、助けて。
手水場に上半身を突っ込んでいた樫沢が体を上げ、ずぶ濡れのまま叫んだ。
「小夜さん!」
結界を乗り越えてきた犬丸は、全身を朱に染めながら、言った。
「だけどな、椅子取りゲームの椅子はいつでも一つ足りねえんだ。だから…… 」
犬丸は古文書の中の予言者のように告げた。
「選択しなきゃならん。きれいなまま運命を受け入れるか、血に塗れてでも、望む物を手に入れるか」
4/23日に一気読みして下さった方、ありがとうございます!
頑張ろうって思えました。
そして、今も読み続けて下さっている方々。
ありがとうございます!




