第九話・14
「……み、見てはいないか? 私の……その、胸の……」
「い、いえ、凝視はしてません。気になりはしましたが、本格的に気になる前だったというか……ご、ごめんなさい先生……!」
すみませんとごめんなさいでは、どちらの方が誠意が伝わるのだろう。分からないが、ひたすら今は先生に謝りたい。
「……海原はいい子だからな。女性の胸をじっと見たり、そういうことはしない」
していると思うし、俺の視線に先生も気づいていると思うのだが――いや、気づいていないのだろうか。
しかしこんなに分かりやすく視線を吸引されていながら、他の男子には見て欲しくないと思っている。先生に知られたらきっと、なぜ独占欲を発揮しているのかと呆れられてしまう――それとも先生は、いつものように『お姉ちゃん』らしく笑うのだろうか。
「で、では……私が海原を離したら、同時に後ろを向くことにしよう。それで仕切り直しだ」
「先生、俺、目を閉じてるので大丈夫です。そのまま後ろに下がってもらえれば……」
「う、うん……そうか、確かにそれでいい……」
俺が目を閉じても、岸川先生は名残惜しむかのようにしばらく離れず――やがて、そろそろと離れて、プールサイドを急ぎ足で歩いて教官室に入っていった。
先生から受け取ったタオルで身体を拭き、どうしたものかと考えていると、プールの入り口からかしましい話し声が聞こえてくる。
「はぁ~、今日も筋トレ疲れたよね~。もう乳酸で腕も足もパンパン……」
「ね~、しっかりクールダウンしないとね~。でも空野さん凄いよね、けろっとしてて」
「……そうでもない。私も脚がぱんぱんだし、お腹にもきてる」
「奈々ちー、これ以上引き締まったら腹筋割れちゃうんじゃない?」
「そんなことない……割れたらかっこいいけど……」
空野先輩が、部員たちと話しながら歩いてくる。一緒にいるのは三年生部員たちのようだ――岸川先生が昔指導で悩んでいた吉田さんも、今は熱心に部活をしているようで、空野先輩とも楽しそうに話している。
「そういえば、今日来てるって話だよね。二年のインテリヤクザくん」
「そんなあだ名の子、本当にいるのかなーって思ってたけど、いるんだよね。前に学校来る時に見たけど、確かにそういう感じで……」
「あ……み、みんなちょっと待って? あそこにいるのってひょっとして……あっ、奈々ちー?」
空野先輩が俺に気づくなり、みんなを置いてこちらにやって来る。練習前なのでジャージを競泳水着の上から羽織っているが、下はすらりとした脚が覗いていて、とてもではないが直視できない――岸川先生もそうだが、空野先輩もカモシカのような美脚だ。
「……涼太……じゃなくて……海原、本当に来てくれたの?」
「え、ええと……ごめん、やっぱり急に来たら驚くよな」
「ちょっと驚いてるけど……涼太、もしかしてもう泳いだ?」
「あ、ああ。泳いだといえば泳いだ……のかな」
空野先輩が目を見開く。彼女が、何をそんなに驚いているのか――それを尋ねようとしたとき。
「こんにちは~。君がななみんの言ってた、バイトで一緒の男の子?」
「先週の試合は応援に来てくれてありがと~、それにななみんのことも連れてきてくれて、私たちめちゃめちゃ感謝してたんだよ~」
『奈々ちー』なのか『ななみん』なのか、空野先輩のニックネームはどちらがいいのだろう――いや、いいとか悪いとかでもなくて。
「いや……俺は、大したことはしてないですよ」
初対面の人に対しては、やはり意識しなくてもバリアのようなものを張ってしまう。
普通に喋ったつもりが素っ気ないと思われ、あるいは攻撃的と取られて、距離を取られる。いつもこれでコミュニケーションの初手を失敗してきた。
空野先輩の友人に、悪い印象を与えたくない。なのに、また俺はこんなに簡単に、何も変われずに――。
そう思った時。俺を見ていた空野先輩が、微笑んだように見えた。
「またまたー、謙遜しなくてもいいのに。芽瑠っちも言ってたよ? 海原くんって雰囲気で勘違いされやすいけど、勉強凄く頑張ってて頭良くて、奈々ちーのモチベーションを上げられるんだって。それで試合の日も、自転車で凄い勢いで呼びに行ってたし」
「それで、二人で凄い勢いで帰ってきたよね~」
「私たちからも見えてたよ、試合会場の窓からみんなで見てて。あ、インテリヤクザくんだって言って盛り上がってたの」
吉田さん――いや、吉田先輩は俺の肩を叩きながら嬉しそうにまくしたて、もう二人のいかにもマイペースな雰囲気の先輩二人も、好意的といえば好意的なようだ。
俺はもしかして、上級生にはあまり恐れられてないんだろうか――別の先輩は明らかに俺を見ると身構えたりするので、水泳部に限ってはある程度警戒が解けているのだろう。




