第九話・13
「良かった……本当に良かった。私はもう、どうにかなってしまいそうで……」
「すみません……俺、先生を待ってるべきだと分かってたのに、勝手に……」
「いいんだ。そんなことは気にしなくていい……私が来るまでに、泳いでいようとしたのだろう? それを私は咎めたりしない。私が傍についていられたらと思うだけだ」
先生は俺を責めない。勝手な行動を取ったのに、一切怒ってはいなかった。
そのことに安堵しながら、先生に格好悪いところを見せたくないと思っていたのに、考える限りで一番駄目なところを見せてしまったと思う――俺は一体何をしてるんだろう。水中で違和感を覚えることを、素直に先生に相談すべきだったのに。
「……海原の心臓が動いている。海原が息をしている……そのことをもう少し、こうやって感じていたい。私も、心臓が止まりそうになった。もし海原が……そんなことは、想像するだけでも耐えられない。絶対に、そんなことはだめだ……っ」
先生は穏やかに話しかけようとしてくれている。でも、気持ちを抑えられなくなっていって、早口になって――抱きしめる力が強くなる。
温かくて、柔らかい。いつまでもこうしてもらっていたい。
だが、意識が戻ってもこうしていたら、それは先生に甘えているだけになってしまう。水着姿の先生に抱きしめられたら、どうなるか――触れている部分に意識が向かってしまう。
思考が混線しているうちに、先生が一度身体を離す――俺は先生が何をしてくるのか分からず、顔が熱くなり、鼓動が早くなっていることを自覚しながら、先生を見ていることしかできない。
「……まだ呼吸が弱いように感じる。海原……もう一度じっとして……」
「っ……せ、先生、俺は大丈夫です……っ、もう、元気ですから」
「……本当に?」
先生は拗ねた子供のような顔で聞いてくる。俺を助けてくれて、俺のことを全部許してくれている先生――包容力の塊みたいな人なのに、俺の前ではそんなあどけない顔をすることがある。
時々見せてくれるその表情が、強く印象に残る。シャッターを切ってカメラで写し取るように、俺の記憶に焼きつく。
「本当に、大丈夫です。先生、助けてくれてありがとうございます」
「……そうか。身体にしびれているところなどはないか? 息がしづらいなどは?」
自分で上半身を起こしても、先生は俺の身体のいたるところに不調がないか確認する。先生もよく言っているけど、弟分の面倒を見る『お姉ちゃん』であるところの先生は、立場も忘れて微笑ましくなってしまうくらい甲斐甲斐しい。
「……念のために病院に行った方がいいかもしれないが。杜山先生に相談したら、そう言われるかもしれないな」
「確かに、杜山先生はもしものときのことを考える人ですから……でも、せっかく来たので、すぐに帰るのは……なんて、俺が言うのは筋が違いますね」
迷惑をかけてしまったので、日を改めた方がいいかもしれない。そう思ったのだが、岸川先生はふと何かに気づいた顔をして、プールサイドに置いてあるタオルを取りに行く。そして、俺のところに戻ってくると――頭にタオルを被せて髪を拭いてくれた。
「せ、先生……俺、タオルを貸してもらえたら自分でできますから」
「ううん、だめだ。海原は溺れてしまっていたんだから、全部私に任せておけばいい」
「……先生も、拭いた方が……その、髪が濡れてますし、水着も……」
「ふふっ、気にしなくていいんだぞ。濡れるのは当然で……ん……?」
先生は俺の正面に立って身体を屈めて髪を拭いてくれている。すると、ちょうど俺の目の高さにきてしまう部分は――。
そして、俺は気づいてはいけないことに気づいてしまった。
「せ、先生。指摘していいものかどうか迷いますが……ふもっ……!」
突き放すとか、バスタオルを被せて俺の視界を遮るとか、そっちの方向に行ってくれればよかったのだが――逆に先生は、俺の顔を引き寄せて自分の胸に埋めてしまった。
「あ、あまり見るな……こ、これは、慌てて飛び込んだから、準備が十分ではなかっただけだ」
「ふむ……ぷはっ……せ、先生、分かりました、あまり慌てないで……っ」
何とか落ち着かせようとするが、先生は俺を離してくれない。それが最も急を要する事項だというのに、両頬に思い切り胸が押し付けられたままだ――ほぼ挟まれている状態ともいえる。
電車のドアに滑り込んで顔だけ挟まってしまったら、これくらいの圧力を受けることになるのだろうか。競泳水着越しだと、スーツを着ているときとはまた違う、滑らかな感触で――と、挟み攻撃を享受している場合ではない。




