第九話・12
「……それ以前に……どうなんだ、俺」
自分に対する問いかけ。姉ヶ崎高校が誇る室内プールは、水深が一番深いところで2メートルある。
泳げないわけではないし、足が着かないところが怖いなんてこともない。
しかし、もし岸川先生に泳ぎを教えてもらっているときに、あの奇妙な感覚が生じてしまったら――先生に、格好悪いところを見せてしまうかもしれない。
『海原、涼太……うん、覚えたぞ。海原、君は泳ぐのは好きか?』
『はい、それなりに……水泳部の人たちには、全然かなわないと思いますが』
去年、水泳の授業でタイムを測ったときは、クラスではタイムは速いほうだった。
水泳は得意だし、好きでもある。あの奇妙な感覚も、今となっては気にならなくなっているかもしれない――原因が分からないのだから、治るときも特に理由なく治ったりするんじゃないだろうか。
(……岸川先生は、俺が水に入ることに違和感があるって知ったら……やっぱり、俺をプールに呼ぶのは止めた方が良かったって思うよな)
マネージャーをすると決まったわけじゃない。やるとしても臨時になると思うし、泳ぐ必要も必ずしもないかもしれない。
だが、先生は厚意で俺に水泳の指導をしてくれようとしている。ならば教わる前に、不安要素はなくしておいた方がいい。
(よし……いつも、やろうと思えば乗り切れたんだ。問題ない)
俺は水泳帽を被り、ゴーグルを着ける。そしてプールサイドで身体に水をかけて温度に慣らしてから、飛び込み台に立った。
何も違和感はない。二十五メートル泳いで向こうまで行けば、向こう側は浅くなっているので危険もない。深くなっているのはプールの手前側だけだ。
向こうの壁を見つめ、俺は集中する――そして。
「……っ!」
意を決して飛び込む。水面で腹打ちをしたりはしない、それなりに手応えのある入水角度だった。
両手を重ねて腕を前に伸ばし、ドルフィンキックを打って、浮上する――これでもうかなり進むことができている。
楽器の演奏と同じように、クロールの仕方だってそうそう忘れるものではない。手で水を掻き、水を蹴り、タイミング良く呼吸をして前に進む。
向こうまで泳ぎ切るなんてあっという間だ。俺は何を心配していたんだ――岸川先生が来たら、もう泳いでいたのかと怒られるだろうか。そうなったら俺は、
(……なんで……消えてないんだ、まだ……っ)
手が、足が、急に重くなる。
全てがスローモーションのように、気が遠くなりそうなほどに遅くなる。水が絡みついてくるようで、明るかった水中が、濁っているかのように暗くなる。
ずっと、見ていなかった。
自分が暗いところに沈んでいくような夢。どれだけ藻掻いても、どこが上なのかも分からなくて、息が続かなくなって――もう駄目だと思ったところで目が覚める。
金縛りになったとか、一人暮らしにまだ慣れていないからだとか。理由をつけて何てことはないと思ううちに、忘れていた。
なのに、まだ俺の中に残ってしまっていた。
水に対する恐怖。認めたくなくて目を逸らしていた、その感情。
◆◇◆
誰かが、呼ぶ声がしたような気がした。
室内アリーナに反響する、凛とした声。水中にいても聞こえた――水が震えて、少しの後に誰かに抱きかかえられる。
光に向かって、引き上げられていく。
夢の中でも、俺はいつも沈んでいるばかりじゃなかった。
誰かが助けてくれる――そして俺はようやく、悪夢から目を覚ますことができていた。
「……はら……海原っ……!」
もう一度、声が聞こえ始める、。
身体は動かず、自分がどうなったのかも分からない。辛うじて分かるのは、もう水中にはいないということ。
「海原……っ、私が目を離さなければ……海原っ……!」
いつも憧れていた、その声。
生徒たちの憧れで、俺にとってもそれは変わらなくて――本当なら遠い存在のはずで。
「……海原……すまない。私には、他に方法が……」
応えなくてはいけないのに、身体が動かない。声も出ない――。
ほんの少しだけ、先生の声が途絶える。
そしてもう一度、近づいてくる――先生が、すぐ近くにいる。
「……っ……」
彼女が何をしてくれているのか――分からない。
ただ、何も感じられなくなっていた身体が、唯一感じることができるようになったのは。
頭と頬に添えられた、温かい手の感触。
◆◇◆
遠のいた意識が、再び戻ってくる。
意識が途絶えていた時間は、どれくらいか――短いのか長いのかも、分からないが。
「……海原……聞こえるか? 私のことが見えているか……っ」
岸川先生が俺を覗き込んでいる。水泳の指導をするときに着るものなのか、彼女は水着姿だった――濡れた髪もそのままに、先生は目を潤ませて俺を見ている。
「……見えてます。先生……助けてくれたんですね……」
「っ……!」
先生が覆いかぶさってくる。プールサイドに寝かせられた俺を、先生が抱きしめてくれている――俺も先生も水で濡れているけど、温かい。




