第九話・11
「ふふっ……慌てなくていいのよ。ゆっくりもぐもぐして食べてね……はい、ごっくん」
「……お、美味しいですが。先生、いくら何でも甘やかしすぎです」
高校生として扱ってもらえるなら甘んじて受け入れられるが、今の先生の甘やかし度数はどう見ても、幼稚園の先生と園児のレベルに相当している。
「ごめんなさい、海原くんが素直にあーんしてくれると、先生嬉しくなっちゃって」
「俺もいちおういい歳なので、それなりの扱いをしていただけると……」
「そんなこと言って、私よりええと……六つか七つ下なのかしら。私が小学校六年生のとき、海原くんは幼稚園なのよ。そう考えたら普通だと思うわ」
そのタイムスリップ理論を通してしまうとこれからも便利に使われてしまいそうだ――しかしどうやって説得していいものかと困った俺は、たった一つの冴えたやり方を選んだ。
「先生、俺の普段のイメージと落差がありすぎると、周囲に知られた時に致命的なので……できれば、甘やかすのは適度にお願いします」
「それは……確かにそうかもしれないわね。海原くんを先生が甘やかしてるって知られちゃったら、何だか秘密を知られちゃったみたいになっちゃうものね。分かったわ、海原くん。学校以外のときだけ、あーんして食べさせてあげる」
難しい問題は先送りにする。先送りにしたほうが後に響きそうだが、それは考えないようにして、スフレケーキを味わうことに集中した。
先生はずっと嬉しそうに見ていたが、机に向き直って自分のケーキを口に運ぶ。髪がかからないように片手でかき上げる仕草に、思わず目が止まる。
「……やっぱりあーんしてあげないと、物足りなくなっちゃいそう。そんなにじっと見てたら、また食べさせちゃうわよ」
俺の視線には敏感で、恥ずかしそうにする杜山先生。
このまま見ていたら本当に「あーん」が再開しそうなので、俺は彼女の方を見ないようにして食べ始める――先生がくすっと笑う気配がしたが、今は悪い気はしなかった。
◆◇◆
保健室でケーキをご馳走になったあと、先生は音楽室に向かい、俺はコンビニのバイトに向かった。
まだ先輩はバイトに復帰していないが、すでに来週からシフトに入っている。店長は「うちの女神を引き止めてくれてありがとう」と言っていたが、多分に茶化されている感じがする上に、伊角さんと女性二人で煽ってくるものだから、夜シフトの松重さんに「男子高生をいじるなよ、お姉さんチーム」と擁護されてしまった。
そして俺がバイトを無事に終えて、家に帰って何をしたかというと――去年一年間のうち、学校の授業でしか使わなかった海パンと帽子、ゴーグル探しだった。
正直を言うと、先生には「普通に泳げる」と言ったが、それは体育の授業でマイナス評価をされないためとか、止むを得ない場合に限ったりする。
人が泳いでいるのを見るのは嫌いじゃない。だが、自分が泳いでいるときは妙な気分になることがある――上下が分からなくなるような、息の仕方を忘れるような、そんな不安を覚えることがあるのだ。
翌朝学校に着き、純がまだ来ていないうちに、俺は岸川先生にスマホでメッセージを送った。
自分:先生、おはようございます
自分:昨日話していたことなんですが
岸川先生:おはよう、海原
岸川先生:もしかして、水泳部を見に来てくれるという話か?
自分:はい、水着も持ってきました
岸川先生:そうか、準備は万端だな
岸川先生:では、放課後にプールまで来てくれ
岸川先生:中には入れるようにしておく 今日は筋トレの日だから、他の部員のトレーニングを見てから私も行くからな
自分:わかりました、それじゃ着替えて待ってます
これでは、俺がすごく泳ぎたいみたいだ――むしろ、先生に教わりたがっているというか。
一日の授業を終えてアリーナにやってきたわけだが、男子更衣室で着替えてプールサイドで準備運動をしつつ、今さらに少し照れてきている。
なにせ、この姉ヶ崎高校には男子水泳部員がいない。女子部員が後から二十人以上もやってくるのに、俺がここにいたら場違い以外の何者でもないんじゃないだろうか。
『いえ、海原には……その、マネージャーのようなことをお願いしたいという意見が部員からも出ていまして。臨時で良いので、顔を出してもらえればと思っています』
俺は岸川先生がそう言っていたことを疑ったりはしない。しかし部員たちが俺にマネージャーをしてほしいと言うとか、普通に考えたら少々飛躍していると思いはする。
もちろん、ここに来ていることを純にはまだ話していない。俺が水泳部のマネージャーになるなんて言ったら「じゃあ俺も!」と言い出すに決まっているし、それを断ったら「海原だけ水着の天国を独り占めかよ! 俺たち友達じゃなかったのかよ!」と荒れ狂うに決まっている。ジュースでもおごってやれば落ち着くだろうが、そんなことで出費をするのも何か悔しい気分だ。




