第九話・10
「っ……せ、先生……」
先生は俺の手の感触を確かめているみたいな手つきで、じっと見ている。そして、俺を見上げると、とても嬉しそうに微笑んだ。
「この手を見れば、海原くんが音楽をすごく好きなんだってわかる。私は、去年から……いえ、中学のときからずっと、海原くんのことに注目していた。だから、すごく嬉しいのよ。どんな形でも、あなたと一緒に吹奏楽ができるんだもの」
「……杜山先生」
俺が中学まで吹奏楽をやっていたから。ソロコンで賞を取っていたから勿体ないというだけじゃない。
先生と一緒に音楽をやる。先生の指揮で演奏する――そのことを、先生は俺のためだけじゃなく、自分が嬉しいから望んでくれていた。
俺のことを、根気強く勧誘してくれた。ときどき突拍子のない行動をしたりもするけど、それは全部俺と吹奏楽がやりたいから。
そんなふうに思ってしまったら、これからの演奏に私情をはさんでしまう。先生の指揮をまともに見られなくなったり――それは、俺が自己責任で何とかしなければならない問題であって、先生のせいにしてはいけない。
「……なんて、いい演奏をする子が一人でも増えたら、コンクールでも良い結果が出るかなって思っていたりしてね。去年は地区大会で銀賞だったけど、やっぱり悔しいっていう気持ちはあるの。私も、みんなもね」
その気持ちは、俺にも良く分かる。悔しいということを忘れて、何も感じなくなるために、俺ができたことは『仕方がない』と思うことくらいだった。
全ての部活が試合やコンクールに熱心というわけではない。競って勝つことだけが目的じゃない。
しかし一度あの熱を知ってしまったら、きっと誰でも忘れることはできなくなる。
「……ごめんね。海原くんは忙しいのに、一度手伝ってくれたらもっともっとって……おねだりばかりして、本当は私からもたくさんお返ししたいのに……」
それは、先生と生徒では問題が――と考える間に、先生は俺の手を取ったまま、ぎゅっと握る力を強くしていた。
「……海原くん、今ここでちょっとでもお返ししたいって言ったら受け取ってくれる? 少し甘いかもしれないけど、きっと満足してもらえると思うの」
「あ、甘いっていうのは……」
「それはね……」
先生は俺に近づき、そっと耳元で囁く。距離の近さを指摘することもできず、俺は少しも動けない。
「大きくて、柔らかくて、ミルキーな、私の……」
「そ、そんな、俺たちにはまだ早……」
「私の、特製スフレケーキを作ってきたの」
ああ――そういうことだと分かっていながら、なぜ俺は懲りずに妄想を膨らませてしまうのだろう。先生の思わせぶりな振る舞いがいけないと言いたくもなるが。
先生は俺の肩に手を置いてそっと身体を離すと、なぜか満足そうにふぅ、と吐息をついてから、保健室に備えつけてある冷蔵庫を開け、中に入っていたスフレケーキを取り出してきた。
「糖分は、取るタイミングが大事なのよ。これからアルバイトをして、帰ってからお勉強をする海原くんには、おやつが必要だと思うの。学校の中でおやつを食べてたっていうのは内緒にしないといけないけど、禁止ということはないのよ」
先生と生徒が個人的に親しくしているというのは、確かに問題がある。
あるのだが、俺は手作りのスイーツというものにめっきり弱くなっていた。岸川先生のクッキーを食べた時から、甘党のスイッチが入れられてしまったようだ。
誰のものでもいいというわけじゃない、しかし杜山先生のスフレケーキには、明らかに俺のセンサーが反応している。これは美味しいやつだと。
「このケーキにこうして、苺のシロップをかけて……ね。こうすると可愛いでしょう」
白くて丸いドーム状のケーキがふたつ。その一つ一つの尖端に、先生が苺のシロップを垂らす――この見た目は、何と言っていいのか。先生は、生徒に見せるには少々問題のある形のケーキを作ってしまったことにご自覚があるのだろうか。
「先生、もう少しシロップをかけたほうが……」
「そう? 海原くんは甘酸っぱいほうがいいのね……じゃあ、たっぷりかけてあげる」
先生と会話をしていると、脳が溶けそうになる――ケーキの見た目は人前に出していけない状態ではなくなったが、俺は椅子に座るように促され、先生は当然のように対面に座って、スフレケーキを適度な大きさにフォークで切り分け、俺に差し出してくる。
自分で食べられるので大丈夫です、先生――そんな言葉は、こうなってしまうと完全に封じられてしまう。
「はい、あーん……」
「んっ……んん……!?」
美味しい――甘すぎず、冷蔵庫に入っていたのに口に入るとスッと蕩けるようで、少し暑くなり始めた初夏の夕方にはちょうどいい涼感だ。




