第九話・9
昼食をたらふく食べた直後の授業だが、思ったより眠くはならなかった。
日頃、午後の授業中に眠くなることがあり、それについて岸川先生に相談してみたところ、このように指導してもらえた。
――糖質を急に摂りすぎると血糖値の乱高下の原因になるので、野菜を食べてから糖質を摂り、緩やかに吸収できるようにするといい。血糖値を安定させるためには糖質の少ない間食をするのも良いが、学校では間食は持ち込めないからな……。
岸川先生はすごく真剣に考えてくれていたが、俺は食後に眠くなるのは消化に集中するためで仕方ないと思っていたので、対策を教えてもらえただけでも感謝していた。
「岸川先生らしいわね。でもね、糖分は勉強で疲れちゃったときに元気にしてくれるものでもあるから、摂るタイミングと摂り方が大事なんだと思うわ」
放課後、俺が何をしているかというと――まだ前にひねった足に一応軽めのテーピングをしているのだが、帰り際に杜山先生に会って、保健室で巻き直してもらっている。
話しながらも杜山先生は手際よくテーピングを巻き直してくれる。しかし保健室のベッドに座ってやってもらうと、前に屈み込んでいる先生の角度次第では――肌色の谷間が無防備にさらされてしまって、とても平常心を保って見下ろすことができない。
「そんなわけで……海原くん、大きくて柔らかくてミルキーなものって何だと思う?」
急に聞かれても、どういった流れで「そんなわけで」なのか分からない。肌色に気を取られて、話を聞き逃していただろうかと焦ってしまう。
「ミ、ミルキー……いえ、先生は確かにとても立派ですが、ミルキーということは……それに大きさはまだしも柔らかいというのは、俺が知っていてはいけないことで……っ」
「ふふっ……知らないのなら教えてあ・げ・る。大きくて柔らかくて、とっても甘くてクリーミーなものっていうのはね……」
先生、ミルキーなのかクリーミーなのか、それともどちらでもいいんですか――と指摘すべきか悩む間に、俺の足になんとも言えず柔らかい感触が当たる。
テーピングをしながらおしゃべりに夢中になるあまり、先生は俺の足を取ったままで無造作に引き寄せていたのだ。足の左右にふよふよと当たっているものは、どう考えても――いや、普通こんなふうにしても当たらないので、先生が規格外だともいえるが、責任転嫁はいけない。
「あら……? 海原くん、ちょっといい? このテーピングの仕方だと、ベストの形じゃないかもしれないわ。ええとね、ちゃんとコツがあるの。先生に全部任せて」
「っ……だ、大丈夫です、今のやり方で十分……」
先生は慌てる俺の様子など目に入らず、胸の谷間に俺の足を置いたままでテーピングを巻き直し始めた。逆側の足が嫉妬しそうなほどの楽園――杜山先生には自覚がないというのも罪深いと思う。
「んしょ……ここを結んで……うん、いい感じ。さっきよりも負担が少ないでしょう」
「負担というか、あ、圧迫が……先生、俺の足はもう……」
「もう? うふふ、海原くんが牛さんになっちゃった。なんてね」
牛さんは控えめに言っても杜山先生ですと言ったら、さすがに信頼関係にヒビが入るどころではすまないだろうか。それともミルクは出ませんと冗談を返してくれたりは――駄目だ、今の俺は頭の回転が鈍っている。うかつに口を滑らせないように自制しなくては。
「うん、腫れはすっかり引いてるし、来週の球技大会には出られると思うわ。海原くん、運動もすごく得意なのよね」
「えっ……あ、ああ、岸川先生から聞いたんですか?」
急にどうしたのだろうと戸惑うが、杜山先生と岸川先生は水泳大会の一件からすっかり親密になっている。二人で話をしているときに、俺のことが話題に出てもおかしくはない――というのも自意識過剰なように思うのだが。
「岸川先生と話すようになってから、いつも海原くんのことを話してるわよ。体育の授業では心を鬼にして、喧嘩を売ってきた他のクラスの子の気持ちを受け止めたりしてるんですってね」
「い、いえ……心を鬼にというか、普段から鬼のような扱いをされてるみたいで……」
「うふふ、海原くんったら謙遜しちゃって。本当はとっても優しいのに、みんなが甘えちゃわないように厳しい雰囲気を作ってるんでしょう。先生分かってるんだから」
そんな話だったらどれだけいいかと思うが、普通にしているつもりが怖がられてしまうだけだ。
それが、最近は徐々に、じわじわと、心なしか状況が好転しつつある――のだろうか。
「吹奏楽部のみんなも、海原くんって最初は近寄りがたいイメージがあったけど、演奏に入ってくれると凄くやりやすいっていうか、自然に合わせてくれるって言ってたわよ。技術がみんなを引っ張れるくらいにあるから、周りの音を聞けるだけの余裕があるのよね」
「それは……水泳部の応援演奏なので、綺麗に合わせることも大事ですが、勢いも大事だと思いまして。高音も低音パートも初めての場所で少し緊張してましたから、これくらい鳴らしていいんだというのは伝わればと思ってました」
演奏中に考えていたことを改めて話すというのは、正直を言って照れる。俺は自分が考えていることを上手く伝えるのが苦手だからだ。
「私も海原くんが引っ張ってくれて嬉しかった。私はね、海原くんが吹奏楽部に馴染んでいったら、コンマスができちゃうくらい技術も求心力もあると思うんだけど……」
「い、いや……先生、俺は正式な部員にはなってないですし、ただのサポートですから。それにユーフォがコンマスっていうのは……」
「確かに珍しいけど、ユーフォニアムっていう楽器を作った人は、コンサートマスターをしてたのよ。海原くんがみんなにアドバイスして、演奏を調整してるところを見たら、誰だってコンマスを任せられるって思っちゃうはずよ……なんて、強引にしたら海原くんも困っちゃうわね」
「俺は演奏に参加できるだけでも光栄に思ってます。もうずっと、楽器に触ることはないんじゃないかと思ってましたから」
「そんなこと、絶対ないと思うんだけどな。海原くんは、吹奏楽が嫌いになってやめてたわけじゃないんだもの……そうじゃなきゃ、あんな演奏はできないわ」
一度覚えてしまえば、自転車の乗り方と同じように、楽器の扱いを忘れてしまうなんてことはない。
金管の音を聞いただけでも、コンビニでのバイト中に不意にジャズが流れただけでも、自分が演奏したらどうなるかをイメージして、指が動く――そうしたとき、頭の中では、いつでも理想の音が鳴っている。
そう、今だって。想像しただけでも動こうとする指を、意識して止めようとする。
けれど、止まりきらなくて。その手を、先生の手が包み込んでいた。
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