第八話・6
「岸川……先生……?」
「海原っ……良かった、いてくれたな! もう時間がない! 早く準備をして出てきてくれ!」
俺は鍵を外し、窓を開ける――先生はジャージ姿で、きっと水泳部の試合はもう始まる時間で。
「出てきてくれって……先生、一体どこに……」
「場所なんて、そんなことはいい。海原、君がいなくてはならないんだ!」
「俺は……分からないですよ、先生っ……! なんで俺なんですか、岸川先生も、杜山先生も……俺は、俺にはっ、そこまで言ってもらうようなことなんて……」
「――ある! あるから私はここにいる! 海原の意見なんて知らない!」
岸川先生は凛とした声で言い切る。ずるいくらいに堂々としたその姿は、まさに「女騎士先生」以外の何物でもなかった。
「知らないって……そんな、むちゃくちゃだ……」
「無茶でも何でもいい、だから降りてこい! 何なら、私が着替えを手伝ってやる!」
ご近所迷惑も顧みず、そんなことを大きな声で言う。
きっと岸川先生は、後になってこんな大胆なことをしてしまったと恥ずかしがるのだろう――でも。
こんなふうに行動に踏み切れる先生の勇気を、俺は心から尊敬している。
「ほら、早くしないと門を乗り越えてしまうぞ!」
「っ……分かりました、分かりましたから! すぐに行きます!」
「うん、朝食もちゃんと用意してあるからな! 向こうに着いたら食べさせてやる!」
俺は部屋の中に引っ込み、外に出る準備をする。
どこに行くかと聞いたが、本当は分かっていた――だから着替える服は決まっている。
姉ヶ崎高校の制服。それを着て岸川先生と行く先は、一つしかない。
◆◇◆
悩んでいたことが馬鹿らしくなるほど、空が青かった。
岸川先生の後ろについて、俺は自転車を漕ぐ。向かう先は、市営アリーナ。
水泳部の試合が行われる会場。しかしアリーナに入るわけじゃなく、岸川先生は、会場の近くにある公園に向かった。
「……杜山先生」
杜山先生は公園の入口で待っていた――緊張した面持ちだったのに、俺を見た瞬間に表情が和らいで、いつもの先生に戻る。
「海原くん……来てくれると思った」
「すみません。俺、やっぱり練習に出ないで……」
「ううん、いいの。私が無理を言ってたんだから……でもね、やっぱり諦めきれなかった。だって、勿体ないもの」
「……でも、俺は……」
「海原くんがきっと吹いてくれると思って、楽器はね、車で持ってきてあるのよ。後で音を出してみて、ちゃんとメンテナンスもしておいたから」
どうしてそこまで――そんな無粋なことを、もう聞いてはいけないだろう。
ここに連れてこられると分かっていて、俺は岸川先生についてきた。それで何もせずに帰るなんてことが、できるわけがない。
「それと、海原。ここまで頼ることになってすまないが……」
岸川先生が公園の中を見やる。そこには、ベンチに座っている空野先輩の姿があった。
「試合が始まるまで、少し一人になりたいと言ってな」
「……俺が声をかけたほうが、調子を崩したりしないでしょうか」
「うん……そういう可能性も、否定はできない」
「それでも俺に、行くべきだって言うんですね」
「私もそう思ってる。海原くんのことで悩んでるわけじゃなくても、空野さんは海原くんじゃなきゃ駄目だと思うの」
「い、いや……と、もう否定してたら始まらないですね」
自信なんてない。昨日の夜、空野先輩と話しても上手くはいかなかった。
でも、俺はまだ何も言っていない。空野先輩に言いたいと思っていたことを、何も。
空野先輩の座っているベンチに近づく。彼女は俺が来たことには気づかず、俯いていた――しかし。
「……っ」
俺を見て、彼女は目を見開く。
そんなふうに驚いた顔を見るのは、本当に久しぶりだ。
「……海原……どうして……昨日、ひどいこと言ったのに……」
先輩が昨日の夜をどんな気持ちで過ごしたのか。彼女が何を悩んでいたかも知らず、何事もなく今日を過ごしていたなら、それこそ二度と取り返しがつかなかった。
「何もひどいとは思ってない。ひどいのは、いまだに何も分かってない俺自身だ」
けれど、何をすればいいのかは分かる。
ここに来てするべきことは一つしかない――岸川先生と、杜山先生に対する感謝を返したいからというだけじゃない。
「こんなこと言われてもって、思うかもしれないけど。俺は空野先輩を応援したい」
先輩は俺を見ている。何言ってるんだこいつとか、そういう目じゃない――。
正面から向き合うことができないくらい、俺をじっと見ている。まだ何か言わなければ、先輩は答えてくれないらしい。
「……俺、わりと人に嫌われるみたいなんだ。中学の頃から特にそう言われるようになったっていうか……ほら、目つきとか悪いしさ」
「……知ってる。そういうこと、言われてたのは……でも……」
「でも、岸川先生は全然気にしなかった。さすが女騎士先生だ、なんて最初は思ったけど……本当は、嬉しかったんだ。先生に会ってからずっと、感謝してる」
岸川先生にも聞かれているだろうか――いや、きっと誠実な人だから、立ち聞きみたいなことはしないだろう。それは杜山先生も同じだ。
「高校になったら自立する前準備として、勉強とバイトに打ち込むって決めた。だから吹奏楽はやめた……やめても誰も止めたりしないと思った。でも、違ったんだ」
「……杜山先生は、海原のこと、前から知ってたの……?」
「コンクールに出たときのことを見ててくれたんだ。でも、凄いよな……文化祭の時も、今日も、飛び入りで吹くようにって言ってくれて。文化祭で吹いてから、半年以上も楽器を触ってないんだぜ」
純のように、おどけた口調になる――あいつと一年前から話していて、俺も少なからず影響を受けていたらしい。
少しでも笑ってもらいたい。店長が見たという空野先輩の笑顔を、俺も見てみたい。
その願いは、思っていたよりずっと簡単に届いた。笑ってもらうためには、思っていることをそのまま伝える勇気が必要だった――俺を呼びに来てくれた岸川先生のように。




