第八話・7
「……そんなことない。海原は……気づいてないかもしれないけど。バイトしているときも、クラシックやジャズの曲が流れたときは楽しそうだった。演奏するみたいに指が動いてた」
「っ……み、見てたのか? バイト中にそんなことしてたら、ちょっとどころじゃなく問題あるよな……」
勝手に指が動く――ユーフォニアムのパートがある曲を聞くと出てしまう癖。
自分で気がついたときは人に見られないようにしていたが、空野先輩は見ていた。だけど指を動かすだけでは、演奏のブランク自体が埋まるわけじゃない――それでも。
「海原なら、吹けると思う。文化祭の時も、凄く上手だった」
「……先輩……」
空野先輩が、笑った。俺のことを励ますために、笑ってくれた――これじゃ、完全に立場が逆転している。
「……指だけでも上手だった。ずっと見てたいくらい」
その笑顔は卑怯だと思った。微笑みじゃない、はっきりとした笑顔――うちのコンビニのアイドルとして人気を集める彼女が笑ったら、もっとレジが混雑して、大変なことになってしまうだろう。
しかし先輩は、笑顔だけど少し怒っているというような、複雑な表情になる。その目が潤んでいて、思わず動揺する――しかし、泣いてしまうというわけじゃなかった。
「……海原、嘘ついたでしょ。あの雨の日……傘を持ってるって」
「あ、ああ……バス停まで走れば何とかなると思って。ちょっと濡れただけでも、結構身体は冷えるもんだな」
「……今度は、本当のことを言って。私が、海原を温めてあげるから」
「えっ……せ、先輩、それは……」
空野先輩がベンチから立ち上がる。そして彼女は、目の前に立つと――俺の肩に手を置いて、背伸びをする。
キスをされるのかと思ったが、そうではなかった。
耳元で、吐息すら届く距離で、先輩が囁く。
「一位になれたら、また昔みたいに『涼太』って呼んでいい?」
至近距離でなければ聞こえないくらい、小さな声。けれど確かに伝わった。
返事をする前に、空野先輩は歩いていく。公園の入口で岸川先生と杜山先生が待っていて、岸川先生は俺を見て微笑むと、空野先輩を試合会場へと連れていった。
杜山先生は、銀色のユーフォニアムを持ってきていた。吹奏楽部は金と銀のユーフォニアムを合計三つ所有しているが、去年の文化祭のとき俺が使わせてもらったものと同じだ。
「こ、これが海原くんの楽器なんだけど……吹いていただけますか?」
「敬語じゃなくても、吹かせていただきますよ。いや、吹かせてください……杜山先生」
「……はい。先生はずっと、この時を待ってました」
杜山先生が笑う――心から嬉しそうに。そんな笑顔をされたら、ブランクがどうとか言っていられなくなる。
「あ、海原くん! すごーい、ちせちゃんがほんとに連れてきちゃった!」
「水泳部の選手の人も、何か元気そうだったし……なんかいい感じじゃない?」
同じクラスの吹奏楽部女子二人組も、今日の応援に参加していた――どうやら、杜山先生を呼びに来たらしい。
「有志の子たちでっていう話だったんだけど、うちの部員の子たちは仲がいいから、水曜日までにはほとんど全パートが揃っちゃったの。これでも半分なんだけどね」
「先生の人望ですね。俺も、それで参加したようなものですから」
「やるぅー! ちせちゃんのナンパ上手!」
「ナ、ナンパじゃありません。海原くんと私は、少しずつ関係を積み重ねて……」
「わー、何かえっちっぽい。ねえねえ、積み重ねたって何を? 教えてよ海原くん」
「今は演奏に集中したい。先生、音合わせの時間はありますか?」
「ええ、でも急がないと時間が無くなっちゃう。みんな、行くわよ!」
「「「はいっ!」」」
◆◇◆
姉ヶ崎高校吹奏楽部による応援演奏は、まず開会式のときと、うちの水泳部が試合に出ている間に行われた。
応援団が来ているような学校もあるので、音を出すことについては問題はなかった。しかし、水泳の応援で、しかも地区大会からブラスバンドの応援が来るというのはとても珍しいことらしく、水泳大会の取材に来たケーブルテレビで思い切り映されてしまった。
空野先輩の出場する競技は、百メートル平泳ぎと、百メートル背泳ぎ。
岸川先生も審判を勤めていて、プールサイドから緊張した面持ちで、部員たちの泳ぎを見守る。時に声を出して励ましながら。
自分の番が来て、飛び込み台に立った空野先輩は、観客席にいる俺の方を見た――ゴーグル越しでも、確かに目が合うのが分かった。
俺は声を出す代わりに、ユーフォニアムを構える。そして、杜山先生の指揮に合わせて、スタート後に追いかけるようにして演奏を始めた。
曲は前に練習しているところを聞いていて、俺も知っている曲だった――最初はうまく合わせられるかと緊張したが、杜山先生の指揮を見て、それに従うことと、周りの演奏を聴きながら溶け込ませることだけに意識を集中させた。
自分の音楽と、みんなの音楽が、杜山先生の指揮のもとで合わさって――一つになる。
各校の応援の声と、メガホンを叩く音に負けないように、俺たちは音を響かせる。
競泳選手は百メートルを泳ぐのに、一分もかからない。その短い時間が、とても長く感じられた――しかし。
「――はぁっ……!」
結果は、空野先輩の圧勝。二位に身体二つ分以上の差をつけてのゴール。
俺たちはファンファーレを吹く。気恥ずかしそうにプールから上がってきた空野先輩は、岸川先生や他の部員たちの方に歩いていき、みんなに抱きしめられる。
ゴーグルと帽子を外した空野先輩は、みんなに揉みくちゃにされたあと、もう一度こちらを向いた。岸川先生も一緒に。
いつもおどけたりしない二人が、一緒にピースサインを作る。
杜山先生もそれに答えてピースをする。俺はそこまではできなかったが、みんなと一緒に拍手をし続けた――久しぶりの一体感を、心地よく感じながら。
※お読みいただきありがとうございます!
ブックマーク、評価、誤字のご指摘などありがとうございます、励みになっております。
次回の更新は7月5日(金曜日)になります。




