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第八話・5

「……岸川先生に、何か言われた?」

「あ、ああ……試合前なのに、タイムがあまり良くないって」

「そう……でも、それは海原には関係ない。私が、調子を落としただけだから……」


 空野先輩の声には力がない。元気がないのに平気だなんて言われても、信じることはできない――それでも。


「先輩、俺が何か……」

「……海原に、迷惑はかけたくない。もう、バイトも辞める」


 空野先輩は何かがあって、俺から距離を取ろうとし始めていた。


 そう思うことを、自意識過剰という言葉で片付けようとした。


 本当は分かっていたはずだ――周りのみんなが、先輩の変化が俺に関係があると言うのは、思い込みで言っているだけなんかじゃないと。


 何を言えばいいのか。頭が真っ白になりそうで、それでも先輩が何かを誤解しているというのは確かなことで。


「……お、俺は何も迷惑なんて思ってない。岸川先生にも言われた……そんなふうに決めつけて、何になるのかって。でも、俺だって空野先輩に……」

「私は……海原に、岸川先生とのことで何か言う権利なんてない。勘違いをして、お説教みたいなことして……ごめんなさい。もう、しないから」


 俺が先輩に対してそうしていたように、先輩も遠慮していた。お互いに距離を取り合って、ぎこちないままで、それを変えようとしてこなかった。


 空野先輩が歩いていく。振り返らずに進んでいく。


 何かがあったのなら、理由を聞きたい。そんなふうに頑なになる理由を――でも。


 ずっと、距離を置いてきた。他人行儀にすることが当たり前で、昔のことを忘れたように接して、それで安心していた。


 門を開けて、家の玄関に入る。居間に入って鞄を投げ出し、ソファに座る。


「……何も言ってくれなかったら、分かんねえよ」


 空野先輩の変化を察するなんて、接する時間が限られていたら無理に決まってる。


 岸川先生も、店長も、俺に期待しすぎだ。当の俺自身が、先輩が何を考えているのか分からなくて、ふとした言葉で一喜一憂していたのに。


 ――ふふ……すまない、君はやはり優しいな。

 ――海原くんの優しいところが分かってもらえたら、人気者になっちゃうわね。


 先生たちはそう言ってくれても、空野先輩の気持ちを明るくすることすらできない。先輩のことが分からなくて諦めてるやつが、優しいわけがない。


 スマートフォンは震えない。分かっていたはずだ、先生たちが俺のために色々なことをしてくれるのは、一時的なことだと。


 先生と生徒。近所に住んでいるだけの二人。どちらも、必ず親しくしなければいけないわけじゃない。


 それでも、俺はどうしたいのか。


 俺は空野先輩のことが分からなくて、それでいいと思っているのか。


 ――分からない。今はもう、考えることにどれほども価値を感じなかった。


 ◆◇◆


 長い間、俺はその夢を見ていなかった。


 俺が、空野先輩と幼なじみでなくなったあとのこと。


 俺とは親に頼まれて親しくしていただけ。本当は好きでも何でもなかった。


 その頃の俺にだって、分かっていた。空野先輩と仲良くすれば、いくら友達だと言っても周囲は事実を無視していたずらに囃し立てる。先輩に、これ以上迷惑をかけられない。


 ――でも、空野先輩が言っていたことが本心でなかったことを、彼女は伝えようとしてくれていた。


 だから俺は、高校で先輩と再会して、それから昔のわだかまりを忘れたように、知人として接することができた。


 一年の夏休みに意を決してバイトを始めたあと、先輩もすぐに入ってきた。


 先輩が店に来たとき、俺はそのことに気づいていながら、特に声をかけたりすることはなく遠くから見ていただけだった。中学の三年間もそうだったように。


 同じバイト先を先輩が選んだことを、俺は都合がいいように捉えなかった。家から適度な距離にあって、学校帰りに立ち寄ることができる、そんな条件で先輩もバイトを探したのだろうと思った。


 水泳部のエースなのに、バイトを始めたことを不思議に思いはした。でもそれを言ってしまうのは詮索になると思えて、ずっと触れずにいた。


 一緒にバイトのシフトに入った初日、俺は必要なこと以外は空野先輩と全く話さなかった。昔のことを忘れたわけじゃなく、知り合いだったことすら、周囲に知られてはいけないと思っていた。


 そんな俺に、先にバイトから上がって帰るときに、先輩は声をかけてくれた。


「……涼太」


 聞き間違いではないと思う。先輩はそのときだけ、下の名前を呼んだ――不安そうに。


 俺は、すぐに反応できなかった。していいのかどうかも分からなかった。


「……海原くん。お疲れ様」

「あ、はい。お疲れ様です」


 そこで敬語を使うのは、当たり前のことだと思った。俺はまるで初対面みたいに、空野先輩に挨拶をした。


 先輩はすぐに立ち去らなかった。何か言おうとして、それは声にならなかった。


「……なさい……」


 唇の動きと、かすかに聞こえた言葉の端だけで、決めつけることはできない。


 でも、本当は分かっていた。あのとき先輩が、俺に何を言おうとしたのか。


『ごめんなさい』


 分かっていたのに、気づかないふりをした。彼女の謝罪を受け入れなかった。


 それは、俺が弱かったからだ。また近づいて、そして裏切られることを恐れた。


 先輩は裏切ってなんていなかった。俺が強ければ、もっと先輩の心を楽にしてあげられた。


 幼なじみで無くなったと虚勢を張って、昔のことを忘れようとすることもなかった。



 昨日の夜何か食べたかも覚えていない。勉強をしようとして、手につかずにベッドに寝転がって、そのまま眠ってしまっていた。


 土曜日、試合が行われる日。


 少し開いたところから差し込む光は、朝のものというには明るい。


 もう、試合の時間は過ぎただろうか。空野先輩は、勝てただろうか。


 身体を起こして、カーテンを開ける。今日もバイトのシフトが入っているから、昼前には店に行かなければ――


「――海原! 海原、今すぐ出てきてくれ!」


 最初は目の錯覚だと思った――けれど、瞬きをしても、家の前から彼女の姿は消えなかった。

※お読みいただきありがとうございます!

 ブックマーク、評価、ご感想、誤字報告などありがとうございます、大変励みになっております。

 次回の更新は7月1日(月曜日)になります。


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