第八話・4
一日一日、時間の流れが遅く感じた。
戻ってきた答案を見ると、総合点は上がっていた。このままの調子で勉強すれば、先生に志望校を言っても苦言を呈されることはないだろう。
親からは電話で話したとき、そろそろ塾か予備校に通った方がいいんじゃないかと言われた。
受験対策が専門の講師から、蓄積されたノウハウを教えてもらった方が確かにいいとは思う。だが、俺は即答はしなかった。
人手が足りず、毎日バイトに入って、俺は何も考えないように仕事に集中した。
岸川先生からも、杜山先生からも連絡はなかった。二人とも、部活のことに集中しているのだろう。
今は、俺に声をかけても仕方がない。俺が吹奏楽部に参加しないと言ったのだから、二人がそう思うのは当たり前のことだ。
◆◇◆
「海原くん、奈々海ちゃん来週からも予定を言ってくれてないんだけど、部活が忙しいのかな? それとも、そろそろ受験の準備でやめちゃうとか?」
金曜日の夜。バイト中に店長からそう言われたとき、俺は胸が締めつけられるような痛みを感じた。
進学を控えた空野先輩は、いつバイトを辞めてもおかしくない。店長もそれを見越して先輩をバイ
トとして入れたと話していた。
「そうかもしれないですね。試合に勝ったら、ますます練習を頑張らないといけないし」
「明日、試合があるんだっけ? 海原くんは応援しに行ったりするの?」
「いや、俺は……」
「……行かないんだったら、バイト入れちゃうよ? 明日も人手を増やしたい時間があるから。海原くん、できるだけいっぱい入りたいって言ってくれてたよね」
店長の言い方は、何か俺を試しているみたいに聞こえる。わざとそうしているんだと分かっていて、俺はあえて挑発に乗ってしまった。
「それだと、俺が空野先輩の応援をしに行く方が、自然みたいじゃないですか」
「私は、そう思ってたけど……海原くん、奈々海ちゃんと一緒にバイトに入るときは、背筋がぴんとしてた。あの子はちょっとぼーっとしちゃうところがあったりするから、海原くんがてきぱき動いてフォローしてた」
店長は、そういうところを良く見ている。見ているのに、普段は言わない。
「俺は、そんなふうに見えてましたか」
「大人なめんなよ? 少年の考えることなんてお見通しなんだから。奈々海ちゃんに優しくしたいっていうの、どれだけ素っ気なくしても分かってるわよ」
「っ……や、優しくしたいとかじゃ……ただ、円滑にできればってだけで……」
こうなってしまうと、どれだけ俺が取り繕っても誤魔化しきれなくなる。
「他の店員さんとも円滑にできてるのに、奈々海ちゃんだけ腫れ物に触るみたいっていうか、すごく遠慮してるでしょう」
「……俺は、そんなにわかりやすかったですか」
「ううん、ポーカーフェイスだけど。今のは実をいうと、カマをかけてみたってやつ?」
店長は笑う――こんなふうに一筋縄ではいかない人だから、美人でも独りなんじゃないかと思いはするが、勿論言わない。
「あの子はたぶん、まだバイト続ける気だったと思う。急にシフト入れなくなってフェードアウトしちゃうような子じゃないしね」
「店長から電話をするとか、そういうことは……」
「うーん……えーと、大人なめんなとか言っといて恥ずかしいんだけど、私も奈々海ちゃんのことは何ていうか神聖視してるのね。あんな綺麗な子がうちの制服着てバイトしてるだけで、お客さんも大喜びだし、そういうのってある種の才能じゃない。真似しようとしてもできないっていうか」
神聖視というのは大袈裟な例えではなく、空野先輩のことを「神秘的」とか「綺麗すぎて近づきがたい」という人はいる。同じ学校にいれば自然に耳に入ってくるほど、彼女はその名を知られていた。
「つまり……店長も、空野先輩にバイトを続けて欲しいってことですか」
「……前、バックヤードで何か話してたでしょ? あの日、奈々海ちゃん凄く嬉しそうだった。この子がこんなふうに笑うんだって、お姉さんときめいちゃったわよ」
「空野先輩が……」
「……ていうか、二人とも住所が凄く近いのに、やたら他人行儀なのよね。そのわりに、やっぱり仲いいんじゃないって思ったから。海原くんが応援なんて知らないって言うの、勝手に寂しいなって思っちゃって」
店長とこんなに話をするのは、初めてのことだ。いつもこの時間にお客さんが途絶えることはない――そう思っているうちに、お客さんが何人か入ってくる。
「……明日、急にシフト入れなくなってもいいから。また奈々海ちゃんのああいう笑顔見たいしね」
みんな、空野先輩のことを応援している――そして、俺に期待している。
それでも、もう時間は流れてしまった。俺は、吹奏楽をやらないと決めて、こうして水泳部の試合前日を迎えている。
「いらっしゃいませ。温め、いかがなさいますか」
明日もこうやってレジ打ちをしているうちに過ぎる。空野先輩は、きっと俺がいなくたって調子を上げているはずだ。
バイトから上がったあと、家に入ろうとしたときのこと。
ずっとこの辺りで見かけることのなかった、後ろ姿を見つける。あれは、空野先輩だ。
「っ……」
声をかけようかと迷う。プールでの練習風景を見ていなかった俺は、空野先輩がどんな様子なのかを知らない。
自転車を降りて押す先輩の足が、少しふらついて見える。
それを見て、俺は走り出していた。
足音に気づいて、空野先輩は振り返る。そして、わずかに目を見開く。
「……海原」
「せ、先輩……っ、その……大丈夫ですか……?」
街灯の下で、先輩の目が潤んで見える。しかし彼女は、俺からすぐに目を逸らした。




