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第八話・3

「……試合は週末の土曜日に行われる。泣いても笑っても、そこで結果が出る。私は、空野を勝たせるためなら何でもしてやりたい」

「俺は……」


 俺もそう思っている。


 ずっと頑張ってきた空野先輩を見てきた。部活が終わってからバイトに来たとき、休憩中に眠ってしまっている姿を見たこともあった。


 まだ俺と一緒にいた頃から、先輩は泳ぎが上手かった。


 その姿に憧れて、けれど先輩を見て胸が痛くなることから、いつか目を背けられなくなった。


 空野先輩が俺を遠ざけたのは、俺のせいだ。


 俺が、彼女のことを意識してしまったから。幼馴染みというだけでいれば、ここまで悩むことも、先輩と話すときに取り繕うこともなかった。


「少し、考えさせてください。俺はもう、吹奏楽をやらないと決めたんです」

「そうか。それは、海原……君の選択だ。私はそれを尊重するし、吹奏楽の演奏という形で応援をしなくても、それでもかまわない」


 そんなに、俺を甘やかさないで欲しい。俺はただ逃げているだけだ。


 昔のことを蒸し返して、空野先輩が今、俺のことをどう思っているのかを聞くのが怖かった。


 俺のことを自分の自転車に乗せて運んでくれた先輩は、優しかった。


 それでも彼女を信じようとしないのは、俺が弱いからだ。


「君は……ずっと傷つくことを恐れて。それで、周囲の人を遠ざけてきたんだな」


 気がつくと俺は、岸川先生に抱きしめられていた。


 頭を抱えるようにして、豊かな胸に顔を受け止められて。先生はジャージの下に、競泳の水着を着ていて、すべらかな感触が頬に当たる。


「せ、先生……ここだと、誰かに……」

「見られてもいい。私は、そう思っている……本当は、ずっと前にそう言うべきだったのかもな」


 先生の手が優しく頭を、そして肩を撫でていた手が背中に回って、温かく包んでくれる。こうしていると心まで溶かされていくような感覚があった。


「君が遠慮をしていて、それに気がついていて……先生と生徒として適切な距離を置きたいという君の気持ちを、理解しているつもりでいた」

「……つもりっていうことは……先生は……」

「時々我慢できずに言っているだろう……『お姉ちゃん』と。私は、海原のことが弟のように可愛くて仕方がない。それは先生と生徒という以上に、私の中で大切にしなければいけない気持ちだ。それを捨ててしまったら、私は私でなくなる」


 先生と生徒は、そんなことはしない。


 俺のことを弟みたいに扱ったりも、自分のことをお姉ちゃんと言ったりもしない。


 それを岸川先生は分かっていて、それでもそうしてくれる。


 俺が一人暮らしをしているから可哀想だとかそういう感情ではなく、本当にそうしたいと思って優しくしてくれている。


「それはきっと、杜山先生も同じなのだろう。きっかけや、時間の差はあっても、彼女の海原に対する気持ちはとても強くて、私もかなわないと思わされることがある。それは空野に対しても同じだ」

「……空野先輩は……俺に対して、そこまでのことは……」

「また勝手に決めようとしている。君の思い込みよりも、お姉ちゃんの勘が優れていることだってあるかもしれないだろう?」


 岸川先生は俺を腕から離す――夕日を浴びた彼女の頬に朱がさしている。


「……しかし、無理強いはできない。君がどうしてもまだ時間が必要だと言うなら、私も杜山先生も待つべきだろう……だが……」


 空野先輩にとっては、これからの試合一つ一つが、高校生活最後になるかもしれない重要な試合だ。


 俺が先輩を励ませば、調子が上がるかもしれない。そう岸川先生が思っているとしても、逆効果になる可能性だってある。


「私はそろそろ戻らなくてはいけない。海原、来てくれてありがとう。話をすることができて良かった」


 ただ、話したかっただけのはずがない。


 俺が空野先輩に会ってみると、応援するために吹奏楽部に協力すると、そう答えることを岸川先生は期待している。


 岸川先生がプールに向かって歩いていったあと、校舎から、吹奏楽部が練習する音が聞こえてくる。俺も聞いた覚えがある、定番の応援曲。


 ユーフォニアムの音は聞こえない。しかし、勝手に指が動いた――前にどこかで聞いたときは、ユーフォのパートが入っていたはずだ。


 有志だから、抜けているパートがあるのか。


 まだ入ったばかりの一年生も演奏に加わっているのか、演奏が止まって、一つのパートだけが吹き直しをする。


 杜山先生が、どんなふうに指導をしているのか。少し困った顔をしていそうにも思う。中学の時の顧問はかなり神経質に一つずつのパートを仕上げていたが、応援演奏ということで、ひとまず曲を仕上げることを重視しているようだ。


 木管の音が強く、金管の低音が物足りない。最も低い音を出すチューバも参加していないのだ。会場に楽器を持ち込むのが大変な大きな楽器は、いずれも参加していない。打楽器は入っているが、かなり変則的な編成だ。


 それでも曲として成り立たせているのは、杜山先生の指揮の柔軟さによるところが大きい。どんなふうに指揮棒を振っているのか、頭に浮かんでくるようだ。


「ああ、惜しい。そこのフレーズは……」


 ユーフォニアムが加わるべき部分に、音が足りない。頭の中に、自分が最も調子が良かったころの音が流れる。


 このまま、吹奏楽部に顔を出せば。今から練習に参加すれば、まだ遅くはないのかもしれない。


 だがそのとき、俺の迷いを咎めるようにスマホが震えた。電話がかかってきている――バイト先のコンビニから。


「……はい、もしもし」

「あっ、海原くん……良かった、もう学校終わってる? 家に帰っちゃったかな」


 店長の声。少し慌てたトーンで電話をかけてきたときは、どんな用件かはだいたい決まっている。


「俺、これから出た方がいいですか」

「ごめんね、パートさんが一人、お子さんが熱を出しちゃって。テスト終わってからもしばらく休めるようにしてたのに」

「大丈夫ですよ。俺なら、いつでも出られます」

「ありがとう。奈々海ちゃんはもうすぐ試合って話だから、できれば海原くんに来てもらえると助かるわ」

「分かりました。十五分くらいで行きます」


 電話をしながら、俺は歩き始めていた。


 校舎には向かわず、駐輪場に向かう。これまで通り、呼ばれたときはできるだけバイトに入り、自立のための貯金をする。


 空野先輩は、俺がいなくても大丈夫だ。県大会でいい勝負ができる選手が、地区大会でつまずくことはない。


 俺は、今まで通りでいい。近付こうとして、もう一度遠ざけられてしまうよりは、距離を置いていた方がいい。ずっと前に、そう決めたのだから。


※お読みいただきありがとうございます!

 ブックマーク、評価、ご感想などありがとうございます、大変励みになっております。

 次回の更新は6月27日(木曜日)になります。


※この場をお借りしてお知らせさせていただきます。

 6月29日(土曜日)に本作の書籍版が発売となります!

 つきましては店舗特典SSについて、次回の更新で告知させていただければと思います。

 よろしければチェックをいただけましたら幸いです!

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