第十三話・1
放課後、吹奏楽部が音出しを始める前に、俺はユーフォニアムが練習している教室までやってきた――同じクラスの小谷さんと鈴木さんが「今日は吹奏楽部に来てくれたりする? 今日も忙しい?」と聞いてくれたのだが、ちょうど杜山先生にそろそろ顔を出したいと伝えていたので、今日は行けると答えた。
「え、まじで? 冗談じゃなくて?」
「うわぁ、海原君が久しぶりに来るんだ……みんな大丈夫かなぁ」
「あまり身構えないでもらえるとありがたいんだけどな……無理そうなのか?」
二人は顔を見合わせる。これは駄目なやつか、やはり怖がられているのか――と思っていると。
「ううん、どっちかというとみんな楽しみにしてるから、浮かれちゃいそうっていうか」
「女子ばっかりだからそわそわするよね。男子に免疫のない子もいるし」
「そうなのか。まあ、俺はユーフォのパートがいる部屋にしか出入りしないつもりだけど……あとは合わせる時だけ、音楽室に行くよ」
「それがいいと思う。まあ、うちらは海原くんにいつでも挨拶行っちゃうけどね」
「あんたは宿題教えて欲しいだけでしょ。うちもだけどさ」
二人はじゃれ合うようなやりとりをしたあと、先に教室を出ていった。俺が女子と一緒にいるとまた妙な噂を囁かれるだろうし、そこは配慮してもらえた形だ。
「海原が部活に……こんな日が来るとはな」
純が感慨深そうに話しかけてくる。俺としても、二年になったばかりの頃はこんなことになるとは全く思っていなかったので、茶化すなとも言いづらい。
「正式に入部したわけじゃないけどな。純も部活じゃないのか?」
「俺の部は天文部なんていう、ロマンしかない部活だからな。思い立った時にしか活動しないんだ……他にも掛け持ちしてるけどさ」
「忙しそうで何よりだ。それじゃ、行ってくる」
「ああ、いいよなあ……楽器が出来るやつって。俺にもピアノが弾けたなら……」
ピアノは俺も音感を養うためにやっていた――あまり芽は出なかったが、楽譜を読めるようになったのは良かったと思う。まあ純は何となく言っただけだと思うが。
◆◇◆
ユーフォニアムを含む中低音パートが練習している部屋は、旧校舎の最上階にある、元は普通の教室だった場所だ。
ユーフォは一年と三年が一人ずついて、俺を入れると各学年に一人ということになる。一年は音無さんというボブカットの女子で、三年生は風上先輩という、セミロングの髪にシャギーを入れたいかにもギャルっぽい人だ。
「あんさー、海くん。ちせちゃんから楽譜もらってるって聞いたけど、どんな感じ?」
「一通り目は通しました。難所が一つあるくらいですが、楽器練をさせてもらえれば問題なく合わせに入れると思います」
「うわ、やっぱすごいんだねー……うちらも二人で練習してるけど、このままだと海くんにソロ頼むことになっちゃうかも」
定期演奏会でユーフォニアムのソロがある曲――俺がもらった楽譜の中にも、確かに一つあった。月光をイメージした、ジャズ調のスローナンバーだ。
俺もジャズは好きだが、父親も若い頃結構聞いたとのことで、家にCDが多くある。その中に含まれている曲だったので、音楽プレイヤーに入れて勉強中などに聞いていた。
イメージトレーニングは十分だが、実際にどれくらい吹けるかは分からない。俺は譜面台に楽譜を広げ、貸してもらった銀色のユーフォニアムを構える。
「海くん、吹いてみてくれる? うちら聞いてるから」
「分かりました」
「あ……う、海原くんソロやるの? コンバスも合わせていい?」
「そうですね、入ってくれるとありがたいです」
メトロノームを設定し、先輩に入りの指揮棒を振る仕草をしてもらう――そして。
俺はユーフォニアムを吹き始める。主旋律を吹くうちにコントラバスが途中から入ってきて重低音のリズムを刻んでくれる。
肺活量を問われる難しい部分も、何とかブレスを増やさずに乗り切れた。音も想像した通りに出ているし、今日は調子がいい。
演奏する中でさらに集中力が高まっていく。これを人前で吹いたら――吹奏楽部の編成の中で吹いたら。想像するほどに高揚感が増して、楽器と自分が一体化していくような気さえする。
やがて演奏が終わる。譜面をめくる動作をほぼ無意識にやっていて、気がつけばソロパートの終わりまで来ていた。
「……こんな感じですが」
風上先輩と音無しさんが目を輝かせ、おお、という顔をする――だが彼女たちが何も言わないでいるうちに、教室の入り口の方からパチパチと拍手が聞こえた。
「杜山先生……来てたんですね」
「ええ、音楽室にいたんだけど、音がしたからつい来ちゃった。風上さん、海原くんとソロのことを打ち合わせしたの?」
「海くんほんとヤバイから、お願いしよっかって音無ちゃんとも言ってたんだけど。やっぱり吹いてもらったら超ヤバかったよね、これ。あたしらができないとこもサラッと吹いちゃってたし」
音無さんはこくこくと頷いている。この子はとても口数が少ないが、意思表示は分かりやすい――風上先輩が絶賛してくれているのも、照れるが少し申し訳ないとも思う。
ソロはやはり、吹奏楽における花形だ。臨時で参加しているだけの俺が、いきなりソロを吹かせてもらうのは筋が通らない。
「海原くん、二人はこう言っているけど……どう思う?」
「俺は……その、周囲を威圧してしまうところがありますから。ソロをやっても、お客さんに喜んでもらえるか分からないですし……それに、臨時の助っ人ですから」
「有名な楽団でも、ゲスト演奏者とか普通にいるじゃん。ソリストを招いたりとか」
「……私も……そう思います。先輩のソロ……凄く、上手です……」
二人も毎日練習しているだけあって、謙遜している部分はある。しかしソロをやるとなると、何より度胸が必要になる――目立つこと、注目されることを全く厭わず冷静に演奏する、それは練習だけではなかなか身につかない。
その二人が、俺を信頼してくれるという。信頼に応えたい思いはあるが、やはり練習に毎日出ていないという事実が先に立った。
杜山先生の期待には応えたい。しかし、ソロを吹くのは前に出すぎている。
吹奏楽部にとって毎年大事な行事である定期演奏会。それに、参加させてもらいたい――譜面を見てそう考えて、今日はそれを伝えるつもりで来た。それより先に、ソロをやるかどうかという話になってしまって、戸惑ってしまった部分はある。
「……定期演奏会には、参加させてもらいたいと思ってます」
そう改めて言っただけで、ここにいる部員が好意的に受け止めてくれているのは分かる――だからと言って、調子に乗ってはいけない。
「分かったわ、海原くん。ソロのことは無理にとは言わないから、もし良かったらもう少し考えてみて。思いつきじゃなくて、今の演奏を聞いて、私も……みんなも、海原くんにやってほしいって思ったと思うの」
「うちらが練習しないってわけじゃないよ。海くんにお願いしたいのは、うちらが楽したいわけじゃないから」
「……海原先輩の、演奏が……凄いっていうのは、もう分かっているので……私たちも、聞きたいんです……」
そこまで評価してもらって、それでも二の足を踏んでいる俺は――もしかしなくても、情けない奴なんだろうか。
杜山先生は俺の肩に手を置いて、そして音楽室に戻っていった。
俺を吹奏楽部に入れたいと思ってくれた先生。そのためだけじゃなく、俺に夕食をご馳走してくれて――いつも優しくしてくれる。
けれど、やはり彼女は『先生』なんだと強く思う。
俺は吹奏楽が好きで、それを忘れようとしていた。コンクールで負けたときの気持ちをもう味わいたくない、それだけの理由で。
しかし、コンクールが全部じゃなかった。仲間と一緒に音楽を奏でられる場所は、あの張り詰めた空気の中以外にもある。
「……海くん、何であたしが急に慣れなれしいんだって聞かないの?」
――風上先輩が今更なことを言って、パートのメンバーがずっこける。
「風上先輩は……海原先輩が……その、迫力があるからって言って……ちゃんと先輩らしくしたいので、そのためです……」
「ちょっ、ちょっとー。音無ちゃんはあたしと相談してたんだから、言っちゃったら台無しじゃん。せっかく『愛称で呼んだら何となく先輩っぽくなる』作戦を思いついたのに」
中学時代、同じパートの先輩は飄々としたマイペースな人だった――風上先輩とは全然似ていないけれど、俺とコミュニケーションを取ろうとしてくれたところは同じだ。
ユーフォはそういう楽器なのかもしれない、と思うことがある。最初から志望してユーフォを吹く人は珍しく、吹奏楽部以外の人に自分が担当している楽器を言うと、なぜか変わり者のように見られる。他に有名な楽器が沢山あるのに、ユーフォニアムとは何をするものなのかと思われてしまうわけだ。
それを、吹いている俺は何とも思わない。ユーフォの良さは吹いてみれば分かるし、他の楽器の良さを理解した上でも、ユーフォが目立たない、変わり者の楽器と思うことはない。
「……私も、風上先輩も……海原先輩に聞いてもらっても恥ずかしくないように、ソロを練習しました。でも、やっぱり……海原先輩の演奏を聞いたら、やってほしいなって……」
「上手い人を前に出すなんて当たり前のことだから。むしろ先輩だからってだけであたしがソロを吹くって方が、閉塞的? な感じじゃない?」
杜山先生に勧誘してもらって、それでも断り続けて――俺なんて、こんなに褒めてもらえるようなことは何もしていないのに。二人も、一緒に練習しているコントラバスとチューバの部員たちも、期待するように俺を見ている。
しかし、先生の期待に応えたいというだけじゃ、それは私情で。俺はもっと、この吹奏楽部にどんな人たちがいて、どんな音楽をやろうとしてるかを理解しなければいけない。
「先生も、考えてみてと言ってたから……これから、定期演奏会まで全体練があるときは練習に出るようにします。パート練も良かったら呼んでください」
「ふぉっ……変な声出ちゃった。ほんとにいいの? 海くん、バイトしてるって言ってたよね?」
「……お時間のある時に……来てもらえたら……」
「あ、そうだ。それだったらアドレス交換しておいた方がいいよね」
「……私は……風上先輩が、パートリーダーなので、連絡を……」
いつもなら風上先輩と連絡できればそれで十分と、深く考えもしなかったが――俺にもほんの少しだけ、人付き合いの何たるかが分かってきたように思う。
無理に愛想を振りまくわけでもない。パートの結束を固めるため、必要なことをする。
「音無さんも教えてもらえるか。風上先輩と連絡がつかないときもあるかもしれないし」
「うん、そうしとこっか。じゃあユーフォ組のグループ作っとくね」
そして俺は、そのとき初めてメッセージアプリで会話グループを作成することになるのだった――それで感激していたことは、とても二人には言えないけれど。




