第十二話・B面
海原と他の部員たちが帰っていったあとも、私は空野に頼まれてプールに残っていた。
すでに日は沈んで、アリーナの窓の外は暗くなっている。空野は母親が迎えに来てくれるとのことで、私も家が近いので、練習を続けたいという空野の希望に応えることは問題なかった。
「空野、何の練習をする?」
「……バックをお願いします。ブレストも見てもらいたいですが、私が全国で勝負できるのはバックなので」
ブレスト――平泳ぎのタイムも県で上位に入れる空野だが、二刀流というほど自分のことを器用ではないと思っている。
本当は自由形、バタフライも部内ではトップクラスの速さで、苦手というものがない。しかし他の部員が全く追随できない記録を持っているのが背泳ぎで、その次が平泳ぎというオールラウンダーだ。
私は高校生の時は自由形とバタフライで全国大会に出場している。大学で背泳ぎに転向したのは、監督に向いていると言われたからだった。
指導者になった今は、選手が好む種目を一番として、二番は良い記録の出る種目を勧めることにしている。空野も他の部員たちも、私の方針を受け入れてくれていた――空野は背泳ぎを得意としているし、こだわりを持って取り組んでいる。
「では、バックの百メートル。次に時計がてっぺんに来たらスタートとしよう」
「はい。ありがとうございます」
空野と前に勝負したときのことを思い出す。空野は4コース、私は5コースに入り、背泳ぎのスタート補助装置――バックストロークレッジのバーを掴んで準備に入る。
3、2、1――スタート。
私と空野のスタート時の速度はほぼ同じ――いや、スイムをしていない私の方が体力が残っていて、1ストローク分ほどの差がつく。
「……っ!」
空野は最初の50メートルで圧倒的な強さを持つ。25メートルを過ぎた辺りでグンと伸びてきて、並ばれそうになる――だが、私も簡単に抜かせてはやれない。
50メートルのターンで、私が再び前に出る――一日の練習で疲れが出ている空野は、そのまま少し遅れて、並んでくる気配がない。
私は決して手を抜いてはいない。空野は疲れていても部内では屈指の速さだ――それでも、大学時代からそれほどタイムの落ちていない私は、彼女の強さを「高校では最上位」と見てしまう。
試合に勝つには、自信をつけることが大事だ。空野に勝たせてやりたい、だが疲労した状態の彼女に合わせれば、きっと聡明な彼女は私がペースを落としたことを悟るだろう。
(……ここで私の想像を超えるようでなければ……この疲労では、酷な要求か……)
75メートルに差し掛かる。空野のスタミナでは、ここから追い上げてくることはまずない。
――無いはずが、空野のペースは落ちず。25メートル時点でも見せた粘りが再現されるかのように、彼女の気配が迫ってくる。
教え子が、私の想像を越えようとしている。私はペースを落とさず、空野は食らいついてくる――そして。
「「――っ……!」」
二人同時に、壁にタッチする。ほぼ同時ではどちらが勝ったか分からないと前に言ったが――疲労している空野が同着ということは、実質上は私の負けになる。
隣のコースを見ると、空野がゴーグルを外すところだった。私はゴーグルを帽子の上に上げて、彼女に微笑みかける。
「空野……前よりも、確実に速くなっているな」
「はぁっ、はぁっ……でも、まだ……これじゃ、勝てない……」
「必ず勝てる。このまま着実に練習を重ねていこう」
空野が頷く。プールから上がるように促すと、空野は飛び込み台の横から上がれるほどは体力が残っていなかったので、側面からプールサイドに上がった。
あとは少し休息して、必要ならクールダウンをする。プールサイドで休む時も髪が濡れたままでは風邪を引くので、私は空野の頭にバスタオルをかぶせた。
「……ありがとうございます」
「五月といっても、まだ夜は冷える。少し休んで体力が戻ったら、しっかりと流しておくんだぞ」
「はい」
空野は短いが、はっきりと返事をする。顧問の私でも彼女が何を考えているのか察しにくいところがあるのだが、素直なときの空野は可愛らしいと思う。
私には姉しかいないが、妹がいたら――空野のような妹だったら、きっと可愛がっただろう。水泳の得意種目も私と同じで、高校のときはあまり人と明るく話せなかったところも私と似て――それは空野に失礼だろうか。
「岸川さん、どうやらお変わりないようね」
――アリーナに、誰かが入ってきている。それも、この学校の関係者ではない。
手続きをして許可が出れば、部外者でも学校内の施設を見学することができる。
しかしそこまでして、彼女が私に会いに来ると思ってはいなかった。
「……岸川先生、あの人……」
空野も気がついている。城ヶ崎学園の水泳部顧問、日向御影――『女帝』と呼ばれた、元日本代表の選手。
彼女は一人の女子生徒を連れている。その制服は、県内の女子生徒の中からも人気が高い、いわゆるお嬢様学校らしい優美なデザインのものだった。
(銀髪の、留学生……あれがそうなのか。高坂六花……なぜ、今ここに……?)
私が立ち上がると、空野もタオルをベンチに置いて立ち、横に並ぶ。
御影――いや、今は日向先生と呼ぶべきだろう。
彼女と私は、大学時代に公式試合で競い合ったことがある。ライバルと呼べる関係だったと思う――だが、大学最後の試合を最後にして、私は彼女と会うことも、話すこともなかった。
「……日向先生。今日、いらっしゃるという話は聞いていませんが」
友人としてではない、ライバル校の顧問同士として話す。気安い言葉を使わないのは、その意思表示だった。
そんな私を見て、御影は――日向先生は、腕を組んで微笑んでみせる。彼女が『女帝』と呼ばれるゆえんでもある、巻かれた赤い髪に指先で触れながら、彼女は言った。
「敵情視察に来ている余裕は、お互いにないでしょう。けれど、映像で見させてもらうだけではどうしても物足りなかったのよ」
「実は、さっきナナミとメルが勝負するところを見させてもらいましたのデス。メルはワタシの学校の、『女帝先生』のライバルだったと聞いていマシタから、とても楽しみでシタ」
少し日本語の発音に不慣れな部分もあるが、高坂という選手は、出場資格が取得できるようになるには一年以上日本の高校にいる必要があるため、言葉の問題は全くないようだった。
何より、高坂六花の出身地――ロシアの言葉については、日向先生は大学時代に選択でロシア文学を取っている。ロシアで有望な選手が日本で留学先を探し、日向先生が受け入れたという経緯も、風の噂で聞いていた。
「六花……一つ訂正しておくわ。ライバルというものは、互いを削り合う意志がある関係のこと。私と岸川さんは同時期に水泳選手をしていたけれど、結果的な話をすれば、決してライバルと言えるものではなかった」
「……日向先生。あなたが私に勝ったときの試合は、見事だった。しかし、私に競う意思がなかったと思っているのなら、それは……」
「いいのよ、それは。もう、終わってしまった話なのだから……現在とこれからの話をしましょう、岸川さん」
日向先生は私の言葉を遮るように言う。微笑んではいるが、彼女の瞳に宿る感情は、どこまでも冷たいものだった。
その怜悧な瞳も、自信に溢れた立ち姿も変わっていない。まるで、大学時代に戻ったような錯覚さえ覚える――そして。
私は何も変わっていないのだと自覚する。大学で彼女と戦ったとき、負けたとき――最後に何を考えていたのかも、ありありと胸に去来する。
「……ナナミ、ワタシのことを覚えていませンカ? ワタシです、リッカです。今の部内では、ミドルネームの『ヴァレリヤ』で呼ばれていますが」
「六花……リッカ。まさか……」
「空野、彼女と知り合いなのか?」
尋ねると、空野は静かに頷く――こんなことがあるのか、と私は思う。
私と日向先生には少なからず、因縁と言えるものがある。そのお互いの教え子もまた、過去につながりがあるとは――つまり、高坂六花という少女は、昔にも日本にいた時期があるということだ。
「ナナミとは小学校のスイミングで一緒でシタ。ワタシとは違うクラスでシタが、スクール内ではお互いに速かったデスから、一度記録会で一緒になったことがありマシタね。結果は……これは、思い出して欲しいデス」
空野は記憶を辿っているようだった。小学校のことを今思い出せと言われて、すぐには難しいだろう――しかし、空野は思い当たったようだった。
「……私が、あのときは一位だった」
「そうデス。まさかあんなに大人しそうなナナミが、ワタシより速いなんて思ってイマセンでシタ……ワタシはあのとき知ったのデス。負けるということの悔しさと、ナナミ……アナタにどうしても勝ちたいという気持ちを」
高坂はずっと、空野に会いたかったのだろう――宣戦布告をするために。
「六花は空野さんともう一度競うために、タイムリミットの前に試合に出られるように日本に戻ってきた。けれど……様子を見に来るまでもなかったようね」
「……それは、どういう意味ですか? 私の教え子と勝負するまでもないというなら、訂正を求めなくてはなりません」
「まだ無理をしているの? それとも、私には本音で話すつもりなんてないということかしら。そうよね……だってあなたは、あの時だって私に本気でぶつからなかった」
「っ……そんなことは……私は、あの時……」
決して揺れてはならないのに、言葉が出なくなる。日向先生はそんな私を、表情のなくなった顔でただ見ているだけだった。
「……岸川先生、うちの六花も放課後の練習をしてここに来ているわ。空野さんも、体力的には条件はそう変わらないでしょう」
「それでも今のナナミには負ける気がしマセン。ですから、泳ぎたくないというなら次は試合会場で会うということでもかまわないデス」
明確な挑発。それは、高坂が空野に勝つという確固たる自信があるから――公式戦を前にここでぶつかれば、結果次第で空野は大きく動揺してしまう。
だが、空野が望むなら、止めることはできない。
「百メートルを泳いだばかりで、続けてというのは酷でしょう。十分なインターバルを設けて、五十メートル片道のみ。岸川先生、空野さん、それでどうかしら?」
赤いスーツの襟元を正しながら、日向先生が言う。
空野は私より前に出て、日向先生、そして六花の二人を前にして言った。
「……一緒に泳いでも、私はかまわない」
「ありがとうございマス、ナナミ。水着を持ってきていマシタから、本当は受けていただいてホッとしていマス」
高坂はスポーツバッグを出して言う。飄々として見えるが、私は地区大会のレースを見て分かっていた。
空野よりも早いタイムで勝っていながら、彼女はまだ余力を残していたことに。
◆◇◆
予想は、できていた――それでも現実は、想像したよりも重い結果になった。
高坂六花は、身体一つ分も空野に差をつけて先に五十メートルを泳ぎ切った。勝利を確認した彼女は水面を叩いて喜ぶ。
空野は苦しそうに呼吸をしながら、隣のコースの高坂を見る。ゴーグルを外さなくても、彼女がどんな表情をしているのかは分かった。
――悔しさよりも、畏怖の方が勝っている。
「ナナミ……今回は私の勝ちデス。そして、実際の試合でも私が勝つでショウ。それがナゼなのか、アナタにわかりマス?」
「……そんなこと……まだ、決まってない……っ」
「アナタ、昔の方がもっと必死に泳いでマシタ。メルと泳いだときの方が食らいついてイマセンでしたか? ワタシ、遠くから見たのですが、そういう感想を持ちマシタ」
「……違う……私は、勝つつもりで……」
空野の言葉を最後まで聞かず、高坂はプールから上がる。そして日向先生から身体を拭くための大判のセームを受け取り、ゴーグルを外して満足そうに笑った。
そのまま高坂は更衣室に向かう。私は日向先生と向き合う――自分の生徒が勝ったことはやはり嬉しいのか、彼女は微笑んでいる。
「この教師あれば、この生徒ありということかしらね」
「……まだ、本番での勝負が決まったわけではありません」
「いいえ……このままでは、結果は変わらないでしょう。今のあなたは、私がライバルと認めた岸川芽瑠ではない」
「やはり……あの時のことを、まだ……」
「あなたも、空野奈々海も……絶対に勝たなければという目をしていない。二人とも、見ているのは敵である私たちではない。それで勝とうなんて、おこがましい考えね」
「女帝先生、聞くの忘れてたデスけど、シャワー室は借りていいのデスかー?」
日向先生が肩を竦め、私の許可を求める――何も言わずに頷きを返すと、日向先生は巻き髪を揺らし、恭しく一礼した。
敵情視察を終え、彼女たちは帰っていく。私も空野も、しばらく何も言葉が出てこなかった――疲労がある状態とはいえ、同じように練習を終えてきた高坂に、はっきりとした形で実力を見せつけられた。
「……空野。大会までは、まだ時間がある」
「……はい。可能な限り、練習に集中します。でも……」
空野が言いかけたことは分かっていた。彼女は部のエースで、部内で唯一アルバイトをしている――練習に集中すれば、またアルバイトには出られなくなる。
私は空野を束縛しすぎるつもりはなかった。吉田と指導方針で意見がぶつかってしまったときに、そう決めていた。試合の結果を全てと考えすぎてはならないと。
しかし日向先生と高坂の姿と、高坂の見せた強さは、一つのことを示していた。
彼女たちが、この夏に全国に行くために、多くのものを捧げているということを。




