第十二話・4
――しかし、次のマシンというのがラットプルダウン以上の破壊力を持っているというのは、全く因果なものだ。
「この左右のバーを掴み、前に出す。海原も見たことはあるだろう」
「はい、見たことだけなら……使ってみたことはないです」
「これはチェストプレスマシンという。主に大胸筋を鍛えるために使うのだが……実は、この大胸筋は水泳にとってとても重要だ。水泳選手は上半身にしっかり筋肉がついていることが多いだろう?」
「な、なるほど……厚い胸板が大事と。先生の胸甲……もとい胸筋も、かなり鍛えられているんですね」
「うむ……と言っても、筋肉がついているか分かりにくいと思うがな。この胸が筋肉なのか、と言われたらそれは否定するが」
先生がとても珍しく、胸に手を添えて冗談を言う――だが、俺はとても直視できない。
「な、なんだ、今さら恥ずかしがって。さんざん抱きしめたりしているから、もう慣れてきているのではないか?」
「な、慣れるようなものじゃ……コホン。先生、指導をお願いします」
「う、うむ……では、始めるぞ。胸筋を意識しながら、ゆっくり反動をつけずに腕を前に伸ばしていく……んっ……」
俺は何も考えず、先生の正面に立っていた――そしてチェストプレスマシンをどう動かすかを見ていたのだが。
まるで4D映画を見ているような迫力。いや、実際先生は立体なので当たり前なのだが、とにかくとんでもない、迫ってくる感覚が物凄い。
「ふっ……そして、ゆっくりとバーを引いていく。ひじとこぶしが垂直になるように……」
このトレーニングで、先輩は現役時代から胸筋を鍛えてきたのか――見ているだけで頭がだんだんクラクラしてくる。
「これで10回……これを3セットやるのが基準で、部員それぞれにウェイトや回数を調整……う、海原? 鼻のところに何か……」
「す、すびばせん……鼻血が……」
「っ……だ、大丈夫か海原っ……!? すぐにお姉ちゃんが助けてやるからな……っ!」
インテリヤクザとか、凍りつく眼光とか――そんな異名はやはり俺の本質を捉えてはいない。
先生のトレーニングの迫力で鼻血を出してしまうくらいには、熱い血の流れた人間だと自認していいと思う。
◆◇◆
女子水泳部で男子がトレーナーをするというのは、色々とハードルが高かった。
先生は俺が鼻血を出したことで心配してしまい、ひとまずトレーナーとしての実地指導は保留となった――まだ諦めたわけではないとのことで、そのうち再開しそうではある。
そして俺が、練習を直接手伝う以外に、トレーナーとしての仕事の一環として行うことを提案したのは――データの観点からのサポートだった。
スイムの記録と、トレーニングの内容を突き合わせて、選手ごとに何が有効かを考える。データを表にして管理することなどは得意なので、プールの教官室にあったデータを見せてもらい、皆がスイムをしているうちにまとめてみた――すると。
「これは……ここ二週間分の練習データを、こんなに短時間でまとめたのか?」
先生が驚いた顔で、俺の作ったレポートをめくる。俺は机に向かっていて、先生は後ろから覗き込んでいるので、普通に肩に柔らかいものが乗ってしまう。
鼻血が止まってからしばらく経っているのでもう大丈夫だと思うが、結構頭を回転させたので、先生の身体が触れるのは身体に障る――女騎士先生は、インテリヤクザを弱体化させるオーラを持っている。というと、先生に攻撃されているみたいになってしまうか。
「さすがだな……海原。これは、練習メニューを考える時に使えそうだ。どの練習が生徒に合っているのか、探り探りになる場面を減らせるだろう」
「ありがとうございます。他の部員の分も、空いた時間でまとめておきます」
「……本当に、おまえというやつは」
先生の目が潤み、そして微笑む。先生が喜んでくれればそれでいい――どんな形であっても、俺が受けた恩を返せるのなら。
最も、こんなくらいのことで、俺は先生がしてくれたことに少しも報いられた気がしないけれど。
「では……時間のあるときにお願いしたい。私も海原の意見を元に、練習メニューを考えるときの参考にできればと思う」
「は、はい。でも俺の作ったデータが練習メニューに反映されるっていうのは、ちょっと恐れ多いですが……」
「いや、得意なメニューをこなしたあとは調子がいいとか、苦手でもやっておくべきメニューがあると分かるから、このデータはいいものだ。まとめてくれてありがとう」
先生は何をするかと思ったら――俺の頭を撫でてくれる。
素直に喜んでいいのか分からないが、すごく落ち着く。このまま眠ってしまいそうなほどの安心感だ――女神先生ともその包容力は拮抗していると思う。
「……お姉ちゃんは、りょ……海原が頑張ってくれて嬉しい。いつでも、見ているからな」
「せ、先生。今、俺のこと……」
名前で呼ぼうとしませんでしたか――と聞こうとした瞬間。
教官室のドアがノックされて、空野先輩が入ってくる。ノックされた段階で、岸川先生はぴしっと背筋を伸ばして立っていた――電光石火の切り替えの速さだ。
「……スイムの前半が終わりました。背泳ぎと平泳ぎは、最後の一本だけペースを上げて、その時点の全力で測ってみました」
「うむ、順調に仕上がってきているな。このペースを維持できれば、県大会でも……」
岸川先生は賞賛するが、空野先輩は静かに首を振る。まだ満足がいっていないということだ。
「……去年県大会で負けた人が、地区大会で負けてる。高坂っていう選手が、今の私より速いタイムを出してる」
「あの選手か……空野はレースのビデオを見たんだったな」
空野先輩はこくりと頷く。その表情は真剣そのものだった――それだけ、彼女の言う高坂という選手が強いということだ。
「留学生ということだから、一度、直接見てみたかったが……去年までは大会への出場資格がないため、出てきていなかった。その間も、いい練習を積んでいたようだな。さすがは彼女の教え子というべきか……」
「先生、知っている選手なんですか?」
俺が尋ねると、先生は否定はしないが、積極的に肯定もしなかった。その表情を見る限り、何か事情があるようだ。
「……もっと練習して、必ず勝てるタイムを出す。先生、大会まで追い込み練習をさせてもらってもいいですか」
「分かった。私もできる限りのことをしよう」
俺は空野先輩に練習後のドリンクを渡す。彼女は「ありがとう」と微笑んで受け取ったが、その目には、アスリートの勝負に賭ける情熱が宿っていた。




