第七話 アルトという男
夕暮れが近づいていた。
窓から差し込む陽光は赤みを帯び、森の木々を柔らかく染め上げている。鳥たちのさえずりも次第に遠ざかり、代わりに風が葉を揺らす音が静かな家の中まで届いていた。
アルトは椅子に腰掛け、机の上に広げた地図を眺めていた。
そこに描かれているのは、エルディア大陸。
数多くの国が存在し、人族やエルフ族、ドワーフ族、獣人族といった種族が暮らす、広大な大地だ。
そして、海を隔てた向こう側には、もう一つの大陸がある。
魔族大陸。
アルトは地図の端を指先でなぞった。
「……広いなぁ」
ぽつりと呟く。
何度眺めても、地図に描かれた世界の広さには圧倒される。
このすべてを自分の足で巡る。そう考えると、途方もない話に思えた。
それでも、想像するだけで胸が弾んだ。
見たことのない街。
知らない土地に暮らす人々。
自分の生まれ育った場所では目にすることのない景色。
この世界には、まだ知らないものが無数にある。
だからこそ、自分の目で確かめてみたかった。
いつか、この家を出て、地図の向こう側へ。
そんな夢を抱くようになったのは、幼い頃のことだった。
そして、その夢は今も変わらず、アルトの胸に残っている。
◇
アルトの父は、冒険者だった。
世界各地を旅し、さまざまな土地を巡っては、数え切れないほどの経験を積んだ男だった。
旅から帰ってくるたび、父はアルトに土産話を聞かせてくれた。
巨大な山脈の向こうに広がる、一面の銀世界。
夜になると青白い光を放つ、不思議な湖。
異国の市場に並ぶ、見たこともない道具や食べ物。
そして、自分よりもはるかに巨大な魔物と遭遇したときの話。
幼いアルトは、父の話を聞くのが大好きだった。
窓の外に広がる森しか知らなかった彼にとって、父の語る世界は、どこまでも広く、果てしないものに思えたからだ。
『父さんは、どうしてそんなにいろんな場所へ行くの?』
ある日、アルトは父に尋ねた。
父は少し考えるように顎へ手を当て、それから、いつものように笑った。
『見たことのないものを見たいからだ』
『それだけ?』
『それだけで十分だろう?』
父はそう言って、アルトの頭をくしゃりと撫でた。
『知らないものを知る。それだけで、世界は昨日よりも広くなるんだ』
そのときのアルトには、父の言葉をすべて理解することはできなかった。
けれど、その言葉だけは不思議と心に残った。
自分もいつか、父のように旅をしてみたい。
父が見てきた景色を、自分の目で見てみたい。
そう願うようになったのは、それからだった。
しかし、夢を抱くことと、実際にそれを叶えることは違う。
アルトの身体は生まれつき弱かった。
長い距離を移動するだけでも人一倍体力を消耗し、魔法に対する抵抗力も低い。魔力の強い土地では、体調を崩すことさえあった。
危険な土地を渡り歩く冒険者として生きていくには、あまりにも不安が多かったのだ。
それでも、父はアルトの夢を否定しなかった。
『身体が弱いからといって、何もできないわけじゃない』
父はそう言って、弓の使い方を教えてくれた。
獲物の足跡を見分けること。
風向きから、その先に何があるのかを考えること。
不用意に音を立てず、周囲の気配を感じ取りながら歩くこと。
どれも、森で生きていくために欠かせない技術だった。
そして、父は決まって最後にこう言った。
『森で生き残りたいなら、目の前のものをよく見ろ。見た目だけで判断するな。分からないものを、分からないまま放っておくな』
アルトは、その教えを大切にしてきた。
身体が弱いのなら、ほかの部分で補えばいい。
力が足りないのなら、知識と工夫で生き残ればいい。
そう考えて、少しずつ技術を磨いてきた。
いつか旅に出る、その日のために。
父が見た世界を、自分も知るために。
けれど――三年前、その未来は突然、閉ざされた。
父が旅先で命を落としたのだ。
知らせを受けたとき、アルトは何も考えられなかった。
父はいつか帰ってくる。
帰ってきたら、また新しい旅の話を聞かせてくれる。
それが、当たり前の未来だと思っていた。
だが、その当たり前は、二度と戻ってこなかった。
それからアルトは、父が残した家で暮らし続けている。
使い込まれた鞄。
旅先の記録が残る地図。
壁に掛けられた大きな斧。
どれも父が愛用していたものであり、父が確かにこの世界を歩いていた証だった。
アルトは地図へ視線を戻した。
「……いつか、行けるのかな」
その問いに答える者はいない。
自分の身体が弱いことは、誰よりもよく分かっている。
無理をすれば、旅の途中で倒れてしまうかもしれない。一人で旅を続けるには、まだ知識も経験も足りていなかった。
それでも、諦めることはできなかった。
父が見た世界を、自分も見てみたい。
いつか自分の言葉で、その景色を誰かに伝えたい。
それが、今も変わらないアルトの願いだった。
「……まあ、焦っても仕方ないか」
アルトは地図を丁寧に畳み、椅子から立ち上がった。
今できることを、一つずつ積み重ねていけばいい。
明日も弓の練習をしよう。
身体を鍛え、知識を身につけよう。
そうして少しずつ前へ進んでいけば、いつか夢に手が届く日が来るかもしれない。
アルトは畳んだ地図を見つめ、静かに息を吐いた。
いつか、必ず。
その思いを胸に、彼は部屋を後にした。
◇
「――というわけで、俺は旅に出てみたいんだ」
アルトはそう言って、話を締めくくった。
俺は彼の向かい側に座り、その顔を見つめていた。
正直、驚いていた。
アルトが旅に憧れていることは、なんとなく察していた。家にある地図も、壁に掛けられた大きな斧も、彼がときおり遠くを見つめる姿も、ずっと気になっていたからだ。
けれど、そこまで強い思いを抱いていたとは知らなかった。
俺は森で目を覚ましてから、まだそれほど時間が経っていない。
人間だった頃の記憶は残っている。
だが、この世界の常識も、地理も、歴史も、ほとんど何も知らない。
そんな俺にとって、アルトは唯一と言っていいほど頼れる存在だった。
『……ワフ』
俺は地図へ鼻先を向けた。
もっと知りたい。
この世界のことを。
アルトが憧れている場所のことを。
彼がいつか、自分の足で歩いてみたいと願っている世界のことを。
俺の意図が伝わったのか、アルトは地図と俺を交互に見て、ぽんと手を打った。
「ああ、そっか。お前にも、この世界のことを教えてやらないとな」
そう言って、彼は地図を広げ直した。
「まずは、俺たちが住んでいるエルディア大陸から説明しようか」
アルトの指が、地図の中央付近を指し示す。
「この大陸には、いくつもの国があるんだ。人族の国だけじゃない。エルフ族やドワーフ族、獣人族の国もあるし、いろんな種族が一緒に暮らしている国もある」
指先が森を越え、山脈をなぞり、広大な平原を横切っていく。
「国によって文化も違えば、得意な技術も違う。同じ大陸に住んでいても、知らないことはたくさんあるんだよ」
俺は真剣に耳を傾けた。
人間だった頃、ゲームの中で世界地図を見ることは何度もあった。
だが、目の前にある地図は、ゲームの画面に表示されるものとは違う。
ここに描かれている土地では、実際に誰かが暮らしている。
人々が働き、食事をし、笑い合い、それぞれの人生を送っている。
俺が知らないだけで、この世界にも無数の日常があるのだ。
そう考えると、地図の向こう側に広がる景色を見てみたいという気持ちが、ほんの少しだけ湧いてきた。
「それから、この海の向こうには魔族大陸がある」
アルトの指が、海を隔てた大陸で止まった。
「魔族が暮らしている大陸だよ」
魔族。
その言葉に、俺の耳がぴくりと動いた。
「今は表向き友好的な関係だけど、エルディア大陸の人たちが完全に警戒を解いているわけじゃない。五百年前に、大きな戦争があったからね」
五百年前。
人間の一生から考えれば、途方もなく昔の話だ。
それでも、その戦争は今を生きる人々の考え方に、いまだ影響を与えているらしい。
「ただ、昔のことは分からない部分も多いんだ。何がきっかけで戦争が始まったのか、どうして終わったのか。詳しい記録が残っていないこともあるらしい」
アルトは困ったように笑った。
「俺も詳しいことは知らないけどね。そういう話は、歴史を研究している人たちのほうが詳しいと思う」
そう言って、彼は地図の上に指を置いた。
「でも、だからこそ知りたいんだ。俺たちが知らない場所も、知らない歴史も、この世界にはまだまだあるんだから」
その言葉を聞いて、俺はしばらく地図を見つめていた。
知らないものを知る。
父親から教わった言葉を、アルトは今も大切にしているのだろう。
そして、その思いは少しずつ俺の中にも芽生え始めていた。
元の世界に帰れるのかどうかは分からない。
そもそも、帰る方法があるのかすら分からない。
考えたところで、今の俺に答えを出すことはできなかった。
ならば、せめて。
これから生きていくこの世界について、知っておきたい。
どんな場所があるのか。
どんな種族が暮らしているのか。
そして、どんな景色が広がっているのか。
森の中で生き延びることだけで精いっぱいだった俺にも、いつの間にか、知りたいと思えるものができていた。
俺は改めて、目の前の地図を見つめた。
広い。
あまりにも広い。
この一枚の紙に収まりきらないほどの景色が、きっと世界のどこかにあるのだろう。
「よし。これから少しずつ教えてやるよ。この世界のこと。俺が知っていることなら、何でもな」
アルトは、気さくな笑みを浮かべた。
俺は返事の代わりに、尻尾を一度だけ振った。
今の俺には、森の外へ出ることさえ難しい。
けれど、いつか。
この地図に描かれた世界を、自分の足で歩いてみたい。
そんな思いが、胸の奥に小さく灯った。
それは、かつて人間だった頃の俺が抱いていた願いとは、少し違うものだった。
誰かに認められるためでも、英雄になるためでもない。
ただ、自分の知らない世界を見てみたい。
今は、それだけでよかった。
アルトが父から受け継いだ夢。
そのすべてを、俺が知るのはまだ先の話だ。
それでも、こうして彼の話を聞いている時間が、俺は嫌いではなかった。
窓の外では、夕日がゆっくりと森の向こうへ沈んでいく。
明日もまた、いつもと同じ朝が来るだろう。
俺はそう思いながら、もう一度、地図に目を向けた。




