第八話ここにいても良い理由
「よし。今日は、この大陸について勉強するか」
朝食を終えたアルトは、そう言ってテーブルの上に大きな地図を広げた。
何度も開かれた地図には、山脈や森林、川の流れ、そして数え切れないほどの国や街の名前が細かな文字で記されている。端には後から書き足されたらしい印があり、折り目の部分は少し擦り切れていた。
きっと、何度もこの地図を眺めてきたのだろう。
俺は椅子に前足をかけ、身を乗り出して地図を覗き込んだ。
この世界に来てから、随分と時間が経った。
目を覚ましたばかりの頃は、自分の身体を動かすことさえままならなかった。四本足で歩くことに戸惑い、木の根につまずいては転び、獲物を見つけても捕まえられず、空腹に耐えるばかりの日々。
それどころか、自分がどうして狼になっているのかさえ分からなかった。
俺は確かに死んだはずだった。
夜の道路。眩しいヘッドライト。誰かの叫び声。
そして、目の前にいた少女へと伸ばした手。
あのときのことを思い出そうとすると、今でも胸の奥が落ち着かなくなる。
けれど、どれだけ考えても、答えは出なかった。
死んだはずの俺が、なぜか異世界で狼として生きている。
その理由を知る手がかりは、まだ何一つ見つかっていなかった。
それでも、今は生きている。
そして、こうして誰かと同じ食卓を囲み、知らない世界について学んでいる。
目覚めたばかりの頃には、想像すらできなかった生活だった。
「ここが、俺たちの暮らしてるエルディア大陸だ。で、こっちが魔族大陸」
アルトの指が、地図の上をゆっくりと移動する。
二つの大陸は、広大な海を隔てて向かい合っていた。
「エルディア大陸には、人族やエルフ族、ドワーフ族、獣人族なんかが暮らしてる。もちろん、それ以外の種族もいるけどな」
人族。エルフ族。ドワーフ族。獣人族。
前世で遊んでいたファンタジーゲームでも、お馴染みの顔ぶれだ。
だが、ここはゲームの中ではない。
画面の向こうにいたはずの種族たちが、本当に暮らしている世界なのだ。
彼らには彼らの生活があり、文化があり、歴史がある。
それぞれが自分の人生を生きている。
そう考えると、見慣れたはずの種族名さえ、以前とは違って感じられた。
「人族は国の数が多い。エルフ族は森と深い関わりを持ってる奴が多いし、ドワーフ族は山岳地帯で暮らしてる奴が多くて、鍛冶の技術に優れてるんだ」
アルトは説明しながら、地図の上にいくつか印をつけていく。
「獣人族は身体能力に優れてる奴が多いな。ただ、種族だけで何もかも決まるわけじゃないぞ。人族でも力の強い奴はいるし、獣人族でも魔法が得意な奴はいる。あくまで、そういう傾向があるってだけだ」
俺は小さく首を傾げた。
それを見たアルトは、少し笑った。
「種族の特徴だけで、そいつがどんな奴なのか全部分かるわけじゃないってことさ」
なるほど。
種族ごとの特徴はあっても、全員が同じというわけではないらしい。
人間だった頃の俺は、物語に登場する種族を大雑把にしか考えていなかった。
エルフは森。ドワーフは鍛冶。獣人は身体能力。
そんな決まりきった特徴だけで、理解したつもりになっていた。
けれど、実際に生きている者たちを、そんな簡単な言葉だけで説明できるはずもない。
同じ種族でも、育った環境によって考え方は変わる。暮らしてきた土地が違えば、文化だって違うだろう。
見た目や生まれだけで、その相手のすべてが分かるわけではない。
当たり前のことだ。
それなのに、俺は以前、その当たり前のことを見失っていたのかもしれない。
「それで、魔族大陸には魔族が暮らしてる。今は表向き友好的な関係を築いてるけど、エルディア大陸の人たちが完全に警戒を解いてるわけじゃない」
アルトは地図の反対側へ目を向けた。
「五百年くらい前に、大きな戦争があったからな」
五百年前。
人間の一生から考えれば、途方もなく昔の話だ。
「詳しい記録が残ってない部分も多いらしい。何が原因だったのか、どうして戦争が終わったのか。いろんな説はあるみたいだけど、はっきりしてないことも多いんだ」
アルトは地図に視線を落としたまま、指先で海のあたりを軽く叩いた。
「俺も詳しい歴史を知ってるわけじゃないけどな。昔の話って、伝える奴によって内容が違ったりするだろ? だから、何でもそのまま信じるのはどうかと思うんだ」
俺はアルトを見上げた。
アルトは、知っていることを隠さずに教えてくれる。
それでも、分からないことは分からないと口にする。
知識があることと、何でも知っていることは違う。
知らないと認めることも、何かを知るためには必要なのだろう。
「ま、今はそこまで難しく考えなくていいさ。まずは、この世界にどんな場所があるのか知っていこうぜ。一度に全部覚えるなんて無理だからな」
アルトは地図を畳み始めた。
俺はほっとして、椅子から前足を下ろした。
正直、頭がいっぱいだった。
もともと勉強が得意だったわけではない。ましてや、知らない世界の歴史や地理となれば、覚えることが多すぎる。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
知りたいと思ったのだ。
自分がこれから生きていく世界のことを。
そして、俺を助けてくれたアルトが、いつか見てみたいと願っている世界のことを。
「さて、次は外に出るか。そろそろ狩りの練習をする時間だ」
アルトは地図を片づけると、椅子から立ち上がった。
俺もその後ろについていく。
勉強はひとまず終わりだ。
今度は、身体を使って学ぶ時間だった。
◇◇◇
森の中は、今日も穏やかだった。
木々の隙間から降り注ぐ日差しが、地面にまだらな模様を描いている。風が吹くたびに枝葉が擦れ合い、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてきた。
ここで暮らし始めた頃は、そんな何気ない音さえ恐ろしかった。
葉が揺れる音がすれば、何かが潜んでいるのではないかと疑った。獣の気配を感じれば、見つかる前に逃げなければと身構えた。
この森で生きていくためには、何もかもが足りなかった。
経験も、知識も、そして力も。
けれど、今は違う。
耳を澄ませば、風に揺れる枝の音と、地面を踏む小さな足音を聞き分けられる。鼻を動かせば、土や草木の匂いに混じった動物の気配を探れる。
すべてを理解できるわけではない。
それでも、以前より多くのことに気づけるようになっていた。
「おい、こっちに足跡があるぞ」
少し先を歩いていたアルトが、地面を指さした。
そこには、小さな動物の足跡がいくつも残されていた。
俺は近づき、鼻先を地面へ寄せる。
湿った土の匂い。草の匂い。そして、その奥にかすかに残る獲物の匂い。
俺は顔を上げ、周囲を見回した。
風は右から左へ流れている。
ならば、獲物のいる方向へ進むときは、なるべく風下に回ったほうがいい。こちらの匂いを悟られにくくなるからだ。
アルトに教わったことを思い返しながら、俺はゆっくりと歩き始めた。
足音を立てないように。
枝を踏まないように。
焦らず、慎重に。
以前の俺なら、獲物の匂いを感じた時点で飛び出していただろう。
だが、獲物を見つけることと、獲物を捕まえることは別の話だ。
近づき、観察し、相手がこちらに気づいていないことを確かめる。
そのうえで、仕留められる距離まで詰める。
そう教わってきた。
やがて、茂みの向こうに小さな影が見えた。
一匹のウサギだ。
草を食べながら、周囲を警戒している。
俺は身体を低くし、慎重に距離を詰めた。
もう少し。
あと少しだけ近づけば――。
今だ!
俺は地面を蹴った。
「おい、待て! まだ早いって!」
背後からアルトの声が飛んでくる。
だが、もう遅かった。
俺の気配を察したウサギは、弾かれたように走り出した。
俺は慌てて追いかける。
速い。
いや、俺も十分に速くなったはずなのだが、逃げるウサギは小回りが利く。木々の間をすり抜け、草むらへ飛び込み、こちらの追跡をあっさり振り切っていく。
それでも、ここで諦めるわけにはいかない。
俺は最後の力を振り絞り、地面を蹴った。
その瞬間、前足が木の根に引っかかった。
視界がひっくり返る。
次の瞬間、俺は草むらの中へ盛大に転がっていた。
「…………」
逃げていくウサギの後ろ姿が、遠ざかっていく。
俺は顔を地面につけたまま、しばらく動かなかった。
「……おい。大丈夫か?」
アルトが近づいてくる。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「いやぁ、惜しかったな。あとちょっとだったんだけど」
そう言いながら、アルトの口元は明らかに緩んでいた。
……絶対に笑っている。
俺は無言で睨みつけた。
「悪い悪い。そんな顔するなって」
そう言いながらも、アルトは肩を震わせている。
こいつ……!
俺は深いため息をつき、地面から立ち上がった。
せっかく成長したと思ったのに、これでは格好がつかない。
「でも、最初の頃よりずっと上手くなってるぞ」
アルトは俺の頭を軽く撫でた。
「足跡も見つけられたし、匂いも追えてた。あとは飛び出すタイミングだな。獲物を見つけたからって、すぐに飛びかかればいいわけじゃないんだ」
俺は耳を立てた。
「相手がどこに逃げるか、周りに何があるか。そこまで考えてから動くんだよ。失敗したっていいさ。次に活かせばいいんだからな」
失敗したっていい。
次に活かせばいい。
簡単なことのようでいて、以前の俺には難しい考え方だった。
失敗することが怖かった。
何かをしようとして、また駄目だったらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
結局、何も変えられなかったらどうしよう。
そんなことばかり考えて、動けなくなっていた。
いや――正確には、動けなくなったのではない。
一度は、動こうとしたのだ。
前世の俺にも、助けたいと思った相手がいた。
学校で孤立していた、友人と呼んでいた少年。
周りから心ない言葉を浴びせられ、何をされても笑ってごまかすような奴だった。
ある日、そいつは俺に助けを求めた。
俺は迷った。
自分だって、誰かと上手く関われる人間じゃなかった。人の輪に入るのは苦手だったし、他人の視線を気にしてばかりいた。
それでも、助けてほしいと言われたら、無視することはできなかった。
だから、手を伸ばした。
先生に相談した。自分にできることを探した。相手が一人で抱え込まなくて済むように、何度も声をかけた。
けれど、何も変わらなかった。
大人たちは真剣に取り合ってくれず、問題は曖昧なまま片づけられた。
そして、状況が悪くなると、そいつは俺から離れていった。
自分が巻き込まれたくなかったのかもしれない。
俺をかばえば、今度は自分が標的になると思ったのかもしれない。
事情があったのかもしれない。
今となっては、確かめようもない。
ただ、最後に残ったのは、助けようとした俺だけが取り残されたという事実だった。
あのとき、俺は思った。
どうして手を伸ばしたのだろう。
最初から関わらなければ、傷つかずに済んだのに。
誰かを助けようとしたところで、必ず報われるわけじゃない。
正しいことをしたつもりでも、誰かが味方になってくれるとは限らない。
だったら、最初から誰にも期待しなければいい。
そうすれば、裏切られたと感じることもない。
誰かに必要とされようとしなければ、必要とされなかったときに苦しまずに済む。
俺は、そうやって人と距離を置くようになった。
学校からも足が遠のき、誰かと話すことさえ億劫になった。
それでも、心のどこかでは、誰かを助けられる人間に憧れていた。
困っている人を見捨てず、どんなときでも手を差し伸べられる。
そんな英雄のような存在に。
矛盾していることは、自分でも分かっていた。
人と関わるのが怖いくせに、人を救うことには憧れていたのだから。
そして、最後に命を落としたあの夜。
道路の向こうにいた少女を見たとき、俺は考えるより先に身体を動かしていた。
また誰かを助けようとして、失敗するかもしれない。
手を伸ばしても、何も変えられないかもしれない。
それでも、目の前で誰かが傷つくのを、ただ見ていることはできなかった。
その結果、俺は死んだ。
……あれでよかったのだろうか。
俺は、本当に誰かを助けられたのだろうか。
それとも、また何もできなかったのだろうか。
答えは、まだ分からない。
「おーい。どうした?」
アルトの声で、俺は我に返った。
気づけば、彼が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
俺は慌てて首を振る。
「どこか痛めたか? 無理して走るなよ。怪我したら、しばらく狩りもできなくなるからな」
アルトは俺の前足を確かめるように見てから、そっと頭を撫でた。
その手つきは、いつもと変わらなかった。
責めるでもなく、失敗を蒸し返すでもなく。
ただ、俺が無事であることを確かめてくれている。
それだけのことなのに、胸の奥が妙に熱くなった。
前世では、失敗することが怖かった。
失敗したら、見放されるかもしれない。
役に立たなければ、そばにいる理由がなくなるかもしれない。
そんな不安が、いつも心のどこかにあった。
けれど、アルトは俺が狩りに失敗しても、何も変わらなかった。
昨日と同じように声をかけ、昨日と同じように頭を撫で、明日もまた練習しようと言ってくれる。
失敗したからといって、俺の居場所がなくなるわけではない。
そのことが、少しずつ分かり始めていた。
「よし。もう少し練習したら帰ろうぜ。腹も減ってきたしな」
アルトはそう言って、俺の背中を軽く叩いた。
俺は返事をする代わりに、尻尾を一度だけ振った。
今度こそ、次は捕まえてみせる。
そう思いながら、俺は再び森へと向き直った。
失敗したっていい。
次に活かせばいい。
アルトが教えてくれたその言葉を、俺はもう一度、胸の中で繰り返した。
◇◇◇
家に戻る頃には、日が傾き始めていた。
狩りの練習では、結局、獲物を捕まえることができなかった。
今日も収穫なし。
……いや、足跡を見つけることはできたし、獲物の匂いも追えた。
そう考えれば、まったくの無駄というわけではない。
それでも、いつかは自分の力で食料を確保できるようになりたい。
毎回アルトに頼ってばかりでは、申し訳ないからだ。
「そんなに落ち込むなよ。最初の頃なんて、足跡を見つけても何の動物か分からなかっただろ?」
夕食の準備をしながら、アルトが声をかけてきた。
俺はそっぽを向いた。
分かっている。
分かっているのだが、悔しいものは悔しい。
「ま、焦らずやっていこうぜ。俺だって最初から何でもできたわけじゃないんだからさ」
アルトはそう言って笑った。
その言葉を聞いて、俺は少しだけ気持ちが軽くなった。
そうだ。
最初から何でもできる奴なんて、そうそういない。
俺はこの世界に来てから、何度も失敗してきた。
歩くことも、走ることも、狩りも。
そのたびに、アルトが教えてくれた。
できないことを笑うのではなく、できるようになるまで付き合ってくれた。
そのことが、どれほどありがたいか。
俺は、まだ上手く言葉にできなかった。
夕食を食べ終えると、アルトは本を何冊かテーブルに並べた。
「さて、今度は文字の勉強だな」
俺は思わず耳を立てた。
以前、アルトからこの世界の文字を教えてもらう約束をしていた。
この世界について知りたいと思うなら、文字を覚えることは避けて通れない。
何しろ、俺はまだ、この世界の本を一冊も自力で読めないのだから。
「いきなり全部覚えようとするなよ? 俺だって、知らない文字は山ほどあるんだからな」
アルトはそう言って、一冊の本を開いた。
「まずは人族文字からだ。エルディア大陸じゃ広く使われてる文字で、商人同士の取引や、違う種族とのやり取りにもよく使われるんだ。獣人族も、この文字を使うことが多いな」
獣人族も人族文字を使うのか。
種族が違えば、文字もまったく違うものだと思っていた。
「もちろん、獣人族にも独自の言葉や文化はあるぞ。ただ、文字については人族文字が広く使われてるんだ。共通して使えるものがあったほうが便利だろ?」
アルトの説明に、俺は小さく頷いた。
異なる種族同士で商売をするにも、情報を伝えるにも、共通の文字があれば便利だろう。
アルトは俺の反応を確かめるように、次の本を開いた。
「で、こっちがエルフ族のエレメンタル文字だ」
紙の上に並ぶ文字は、まるで細い枝や蔓が絡み合っているようだった。
線の一つ一つが滑らかで、どこか植物を思わせる形をしている。
「自然や魔力に関する記録なんかで見かけることがあるらしい。俺も少しだけなら分かるけど、難しい文章はさっぱりだな」
アルトは頭を掻きながら苦笑した。
「それから、こっちはドワーフ族のルーン文字」
今度の文字は、エレメンタル文字とは正反対だった。
直線的で角ばっており、石に刻みつけるのに向いていそうな形をしている。
「石碑や道具に刻まれてることもあるんだ。俺も少しかじった程度だから、読めるものは限られてるけどな」
どうやら、アルトも何でも知っているわけではないらしい。
それでも、これだけの文字について知っているのは十分すごいと思う。
俺は紙の上に並ぶ文字を、じっと見つめた。
人族文字は、少しずつ見覚えが出てきた。
だが、エレメンタル文字もルーン文字も、まだ見分けるのがやっとだ。
これを読めるようになるまで、どれほどかかるのだろう。
俺は魔族大陸が描かれた地図へ視線を移した。
アルトはその視線に気づき、少し考え込んだ。
「ああ、魔族文字か。存在するのは知ってるけど、俺もよく分からないんだよな。実物を見たこともないし」
やはり、そう簡単にはいかないか。
「ほかにも、古代文字とか、異種族が独自に使ってる文字とか、いろいろあるらしいぞ。遺跡から見つかることもあるらしいけど、詳しいことは俺にも分からん」
……文字だけで、どれだけ種類があるんだ。
人族文字に、エレメンタル文字、ルーン文字。
さらに魔族文字、古代文字、その他の文字まであるらしい。
この世界の文字をすべて覚えようと思ったら、一体どれほどの時間がかかるのだろう。
いや、そもそも、すべて覚える必要はないのかもしれない。
まずは人族文字だ。
「とりあえず、今は人族文字を覚えようぜ。これが読めるようになれば、読める本も増えるからな。ほかの文字は、必要になったときに少しずつ覚えればいいさ」
アルトは紙を取り出し、そこに文字を書き始めた。
俺は一文字ずつ目で追い、必死に頭へ刻み込んでいく。
最初は、ただの線の集まりにしか見えなかった。
けれど、アルトが読み方を教えてくれると、少しずつ意味が生まれてくる。
この文字には、この音がある。
この並びなら、こう読む。
ほんのわずかな進歩でも、自分の中に新しい知識が増えていくのが分かった。
「お、今のは合ってるぞ」
アルトが笑った。
俺は思わず顔を上げた。
本当に合っていたのだろうか。
そんな疑いを込めて見つめると、アルトは苦笑した。
「本当だって。ちゃんと覚えてるじゃないか」
そう言って、俺の頭を軽く撫でた。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
褒められるというのは、案外悪くないものだ。
いや。
きっと俺は、褒められたことそのものが嬉しいのではない。
自分が何かを覚えたことを、誰かが一緒に喜んでくれる。
そのことが、嬉しいのだ。
前世の俺は、何かに失敗すると、自分には価値がないのだと思い込んでいた。
できない自分を知られるのが怖くて、最初から挑戦しないことさえあった。
誰かに認めてもらいたい。
けれど、認められなかったら傷つく。
そんな矛盾に縛られていた。
今だって、その気持ちがすべて消えたわけではない。
それでも、アルトの前では少しずつ、失敗する自分を隠さなくてもいいと思えるようになっていた。
いつか、この世界の本を自分の力で読めるようになったら。
この世界の歴史も、知らない土地のことも、今よりずっと詳しく知ることができるだろう。
そう思うと、勉強も不思議と苦ではなかった。




