第八話ここにいても良い理由②
勉強を終えた頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
アルトは本を片づけ、使った紙を重ねて机の端へ置いた。
俺は疲れた身体を伸ばし、床に敷かれた布の上へ移動する。
窓の向こうには星が瞬いていた。
この家で暮らすようになってから、夜を怖いと思うことが少なくなった。
以前の俺は、誰かと一緒に過ごすことが苦手だった。
人を信じることにも、誰かに頼ることにも、どこか抵抗があった。
前世で経験したことが、ずっと心に引っかかっていたからだ。
誰かを助けたいと思った。
けれど、その気持ちは報われなかった。
それどころか、手を伸ばした自分が間違っていたのではないかとさえ思うようになった。
だから、誰かと深く関わることが怖かった。
期待しなければ、裏切られることもない。
最初から頼らなければ、失望することもない。
そうやって心を閉ざしていれば、もう傷つかずに済むと思っていた。
けれど、アルトは違った。
俺が言葉を話せなくても、狼の姿をしていても、何かを無理に求めることはなかった。
ただ、当たり前のように食事を分けてくれた。
森で生きるための知識を教えてくれた。
狩りに失敗すれば、次があると言ってくれた。
文字が読めなくても、何度でも教えてくれた。
そこに見返りを求める様子はなかった。
俺が何かを返せるようになるまで待っているわけでもない。
役に立つから、そばに置いているわけでもない。
ただ、俺がここにいることを、ごく自然なこととして受け入れてくれている。
その何気ない優しさが、俺にはとても温かかった。
けれど、同時に怖くもあった。
こんなふうに誰かの優しさに慣れてしまったら。
その人がいなくなったとき、俺はどうすればいいのだろう。
また失うことになったら。
もう一度、あのときと同じように、一人きりになったら。
そんな考えが、ふと胸をよぎることがある。
だから俺は、心のどこかで距離を保とうとしていた。
これ以上、アルトに頼りすぎないように。
これ以上、この暮らしを当たり前だと思わないように。
大切になればなるほど、失うことが怖くなるから。
「おい、もう寝るのか?」
不意に声をかけられ、俺は顔を上げた。
アルトが食器を片づけながら、こちらを見ている。
俺は小さく鳴いた。
「そっか。今日は頑張ったもんな。ゆっくり休めよ」
アルトはそう言って笑った。
俺は目を細めた。
――ああ。お前もな。
胸の中で、声にならない言葉を呟く。
人間だった頃の俺は、誰かと一緒にいたいと思いながら、誰かと一緒にいることを恐れていた。
自分から近づけば、また傷つくかもしれない。
相手を信じれば、また裏切られるかもしれない。
そう考えるたびに、一歩を踏み出すことができなくなった。
けれど、今は。
この家で過ごす時間が、少しずつ好きになっていた。
朝になれば、アルトが起きてくる。
一緒に食事をして、森へ出かける。
失敗して、笑われて、時には上手くいって、褒められる。
夜になれば、今日あったことを思い返しながら眠りにつく。
特別なことなんて、何もない。
それでも、そんな毎日が嬉しかった。
誰かと過ごす時間を、失うことばかり考えずに楽しめる。
それは、前世の俺がずっと欲しかったものなのかもしれない。
もちろん、過去のことを忘れたわけではない。
人を信じるのが怖いという気持ちも、完全になくなったわけではない。
それでも、アルトの隣にいるときだけは、その恐怖を少しだけ脇へ置くことができた。
この世界で、俺は何者になれるのだろう。
まだ分からない。
強くなったからといって、立派な何者かになれたわけではない。
この世界のことを少し知ったからといって、すべてを理解できたわけでもない。
けれど、今は無理に答えを出さなくてもいい気がした。
少なくとも、ここには俺を受け入れてくれる人がいる。
失敗しても、できないことがあっても、明日になればまた一緒に過ごせる。
そんな場所がある。
その事実だけで、明日を迎える理由には十分だった。
俺はゆっくりと目を閉じた。
少し離れた場所から、アルトが動き回る音が聞こえる。
食器を片づける音。
椅子を引く音。
それから、部屋の明かりが消える気配。
やがて家の中が静かになると、俺は安心して眠りについた。
明日も、きっといつもと同じ一日が始まる。
そう思えることが、今の俺には何よりも幸せだった。
◇◇◇
それからも、穏やかな日々は続いた。
俺はアルトからこの世界の知識を学び、森での暮らし方を覚えていった。
狩りの練習では何度も失敗した。
獲物を見つけては逃げられ、追いかけては転び、最後には草むらに突っ込んでしまうこともあった。
それでも、少しずつ獲物の動きを読めるようになった。
やがて、自分の力で獲物を捕まえられる日も増えていった。
初めて一匹の獲物を自分の力で仕留めた日のことは、今でもよく覚えている。
俺が獲物をくわえて戻ると、アルトは驚いた顔をした。
そして、次の瞬間には満面の笑みを浮かべた。
「やったな! これなら、もう立派な狩りの相棒だ」
そう言って頭を撫でてくれたときは、少し誇らしかった。
もちろん、失敗がなくなったわけではない。
薪割りを手伝おうとして薪の山を崩したこともあれば、勢いよく走り出してアルトにぶつかったこともある。
水を飲むときにむせてしまい、笑われたことだってあった。
そのたびにアルトは呆れたような顔をするが、最後にはいつも笑って許してくれた。
文字の勉強も続けた。
最初は形を覚えるだけで精一杯だった人族文字も、少しずつ読めるものが増えていった。
簡単な単語を理解できたときには、まるで新しい扉が開いたような気がした。
まだ読めない本のほうが圧倒的に多い。
エレメンタル文字やルーン文字に至っては、見分けることさえ難しかった。
それでも、焦る必要はない。
分からないことがあれば、アルトに聞けばいい。
食事をしながら話を聞き、森へ出て一緒に歩き、家に帰れば勉強をする。
時には失敗して笑われ、時には上手くいったことを褒められる。
そんな何気ない時間が、いつしか俺の日常になっていた。
森で暮らす生き物たちにも、以前とは違った目を向けるようになった。
木々の間を素早く走るもの。
頑丈な角で身を守るもの。
暗闇の中でも獲物を見つけられるもの。
森に棲む動物たちは、それぞれに違う身体を持ち、それぞれの環境で生きていた。
長い年月の中で環境に適した特徴が受け継がれ、少しずつ姿や性質が変わってきたのだろう。
もちろん、すべての生き物が同じ仕組みで変化するとは限らない。
この世界には魔力が存在する。
俺のように、普通の生き物とは異なる経緯で生まれた存在だっているのだから。
「生き物ってのは不思議だよな。生まれた場所や暮らす環境によって、同じような種でも違いが出てくるんだ」
ある日、アルトは森の奥を眺めながら、そんなことを言った。
俺も、その視線を追った。
木々の間を、小さな動物が走り抜けていく。
一見すると、以前見かけたものと何も変わらないように思えた。けれど、よく観察すれば、耳の形や脚の長さ、毛並み、周囲を警戒する仕草に違いがある。
生き物は同じように見えても、一匹一匹が違う。
俺はしばらくその姿を目で追ってから、アルトを見上げた。
「ワゥ?」
魔物も、同じなのだろうか。
もちろん、声にしたところで人間の言葉にはならない。俺にできるのは、鳴き声と仕草で疑問を伝えようとすることだけだった。
だが、アルトは俺の様子を見て、何かを察したらしい。
「ん? 魔物のことが気になるのか?」
俺は耳を立てた。
アルトは納得したように頷いた。
「魔物の場合は、普通の生き物と同じようには考えられないんだ。動物みたいに食べて、成長して、子を残す魔物もいる。一方で、濃い魔力が集まった場所なんかに、突然現れる魔物もいるらしい」
アルトは近くの木の幹に手を置いた。
「魔力は、生き物の身体にも影響を与えることがあるそうだ。けど、どう変化するのかは個体によって違うし、何が起こるのか全部分かってるわけじゃない」
俺は耳を傾けた。
「それに、強い魔物が必ずしも長生きするわけでもない。身体が大きくても環境に合わなきゃ生きていけないし、弱そうに見える生き物が、思いもよらない方法で生き残ることもある」
アルトはそう言って、俺の頭を軽く撫でた。
「だから、見た目だけで判断するな。生き物には、それぞれの生き方があるんだよ」
父親から教わった言葉なのだろう。
アルトの口から聞くその言葉には、いつも不思議な重みがあった。
俺は自分の前足を見下ろした。
人間だった俺が、今では狼の身体で生きている。
それだけでも、十分に常識から外れた出来事だ。
この世界には、俺がまだ知らない仕組みがいくつもあるのだろう。
生き物の身体に魔力が影響を与えることがあるのなら、魔物の中にも、普通の個体とは違う姿や能力を持つものがいるのかもしれない。
そう考えていると、アルトがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、魔物には種族進化って呼ばれる現象もあるらしいぞ」
俺は顔を上げた。
種族進化。
初めて聞く言葉だった。
「長い間生き延びた魔物が変化したとか、特殊な環境で別の性質を持つようになったとか、そういう話はある。ただ、どこまで本当なのかは分からないし、普通の生物が成長するのとは少し違うみたいだ」
アルトは腕を組み、少し考え込んだ。
「そもそも、進化したっていう魔物の記録自体が少ないんだ。何が条件なのか、どうすれば起きるのか、確かなことはほとんど分かってない。強くなれば必ず進化する、なんて単純な話でもないらしい」
強くなれば、必ず進化するわけではない。
ならば、進化とは何なのだろう。
長い年月を生き延びた結果なのか。
特殊な環境がもたらす変化なのか。
それとも、まだ知られていない何かが関係しているのか。
考えてみても、答えは出なかった。
「まあ、そういう話は冒険者の間でも噂になるからな。珍しい魔物を見ただけで、進化した個体だって騒ぐ奴もいる。実際には、最初からそういう種だったのかもしれないのにな」
アルトは苦笑した。
「だから、分からないことはちゃんと調べるのが大切なんだろうな。見た目だけで決めつけず、何が起きているのかを自分の目で確かめる。父さんも、よくそう言ってたよ」
分からないことを、分からないまま放っておくな。
それは、父親のライントから受け継いだ教えだった。
アルト自身も、その教えを胸に刻んで生きているのだろう。
俺はもう一度、自分の身体を見下ろした。
種族進化。
いつか自分にも、そんな変化が訪れるのだろうか。
今は、まだ分からない。
ただ、目の前のことを一つずつ覚えていくしかない。
狩りを学び、森を知り、この世界について知る。
その積み重ねが、いつか自分の未来につながるのかもしれない。
俺はそう考え、アルトの隣を歩き始めた。
◇◇◇
気がつけば、この世界に来てから一年が過ぎていた。
森の中を歩くことも、獲物の匂いを追うことも、以前ほど難しくはなくなっていた。
身体の動かし方にも慣れ、四本足で走ることに戸惑うこともほとんどない。
狩りだって、少しずつ成功するようになった。
もちろん、まだアルトに教わることは多い。
それでも、何もできなかった頃と比べれば、大きな進歩だ。
この世界の文字も、少しずつ読めるようになってきた。
まだ簡単な文章を追うのが精一杯だが、以前はただの記号にしか見えなかったものが、少しずつ意味を持ち始めている。
知らないことを知るたびに、この世界が広がっていく。
地図の向こうには、まだ見ぬ国がある。
森の外には、知らない人々が暮らしている。
そして、この世界には、俺が想像もできないような生き物や現象が存在している。
いつか、それらを自分の目で確かめてみたい。
そう思えるようになったのは、アルトのおかげだった。
ある朝、俺が目を覚ますと、アルトはすでに起きていた。
窓を開け、外の空気を入れながら、今日使う道具を確かめている。
朝日が部屋に差し込み、木の床を明るく照らしていた。
いつもと変わらない朝。
けれど、俺はその光景を眺めながら、ふと思った。
この暮らしが始まったばかりの頃、俺は毎日を生き延びることだけで精一杯だった。
自分の身体が何なのかも分からず、何を食べればいいのかも知らず、誰を信じればいいのかさえ分からなかった。
それなのに今は、明日何を学べるのかを楽しみにしている。
獲物を捕まえられたら、アルトに報告したいと思う。
知らない文字を見つけたら、読めるようになりたいと思う。
この世界の話を聞けば、もっと知りたいと思う。
俺はいつの間にか、明日を待つようになっていた。
「お、起きたか」
アルトがこちらを振り返る。
俺は尻尾を振り、彼のそばへ歩み寄った。
「今日は何から始めるかな。昨日の文字の続きでもいいし、天気がよければ森に出るのもいいな」
アルトは考えるように顎に手を当てた。
俺は期待を込めて、彼の顔を見上げる。
その様子がおかしかったのか、アルトは小さく笑った。
「ははっ、そんなに急かすなって。どっちもやればいいだろ?」
俺は尻尾を大きく振った。
言葉は話せない。
だから、伝えられることには限りがある。
それでも、アルトは俺の仕草を少しずつ理解してくれるようになっていた。
尻尾の振り方や耳の向き、鳴き声の違い。
すべてを正確に読み取れるわけではないが、以前よりもずっと、俺の気持ちが伝わるようになっていた。
それが嬉しかった。
俺はアルトの隣に腰を下ろした。
机の上には、昨日の続きの本が置かれている。
窓から差し込む朝の光が、文字の並ぶ紙面を明るく照らしていた。
今日もまた、新しい一日が始まる。
俺は本へと目を向け、アルトが準備を終えるのを待った。
この世界に来たばかりの頃の俺は、誰かと一緒にいることを怖がっていた。
誰かを信じれば、いつか失うかもしれない。
誰かに心を許せば、また傷つくかもしれない。
だから、誰にも期待しないようにしていた。
けれど、アルトと過ごした一年は、そんな俺の考えを少しずつ変えてくれた。
失うことが怖いからといって、最初から何も大切にしないのは、きっと違う。
傷つく可能性があるからといって、誰とも関わらずに生きていくことだけが正解ではない。
少なくとも、俺はこの一年で、誰かと過ごす時間の温かさを知った。
失敗しても、明日がある。
分からないことがあっても、教えてくれる人がいる。
何かを成し遂げられなくても、ここにいていい。
そのことを、アルトは一度も大げさに語らなかった。
ただ、毎日の暮らしの中で、当たり前のように示してくれた。
俺はアルトを見上げた。
彼は相変わらず、机の上の本を並べ替えている。
その横顔を眺めながら、俺は心の中でそっと呟いた。
――ありがとう。
声にはならない。
この気持ちが、今すぐ彼に伝わることもない。
それでも、いつか。
いつか、この気持ちをきちんと伝えられる日が来るのなら。
そのときは、ちゃんと言葉にしたい。
お前に出会えてよかった、と。
俺はまだ、この世界の何者でもない。
自分がどこまで強くなれるのかも、どんな未来が待っているのかも分からない。
それでも、今は無理に答えを出さなくていい。
アルトの隣で、この世界を学んでいけばいい。
できないことがあれば、また教えてもらえばいい。
失敗したら、もう一度挑戦すればいい。
そして、いつか俺にも、誰かのために手を伸ばせる日が来るのなら。
今度は、恐怖だけを理由に、その手を引っ込めたくない。
そう思えるようになったことが、俺にとっての大きな変化だった。
前世の自分を、完全に許せたわけではない。
あのときの後悔も、人を信じることへの恐怖も、まだ心のどこかに残っている。
それでも、過去の自分を否定し続ける必要はないのかもしれない。
助けたいと思ったことも。
裏切られて傷ついたことも。
もう一度誰かを信じるのが怖くなったことも。
そのすべてが、俺が生きてきた証なのだから。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、アルトの隣で、もう一度尻尾を揺らした。
ここにいてもいい。
そう思える場所がある。
明日を楽しみにしてもいいと思える日々がある。
今の俺には、それだけで十分だった。
「よし、準備できたぞ。今日は文字の続きからやろうぜ」
アルトが本を開き、俺の隣に腰を下ろした。
俺は紙面へと目を向ける。
知らない文字が並んでいる。
まだ読めない言葉もたくさんある。
けれど、焦る必要はなかった。
ひとつずつ覚えていけばいい。
分からなければ、教えてもらえばいい。
そうして少しずつ、俺はこの世界を知っていく。
窓の外では、風に揺れた木々の葉が、さらさらと心地よい音を立てていた。
アルトが文字を読み上げる声を聞きながら、俺は静かに耳を傾けた。
特別なことは何もない。
ただ、穏やかな朝だった。
けれど、かつて誰かと関わることさえ恐れていた俺にとって、この何気ない時間は、何よりも大切なものになっていた。
今日もまた、アルトと一緒に過ごせる。
明日もきっと、同じように笑っていられる。
そんな日々を、これからも大切にしていこう。
俺はそう思いながら、アルトの隣で、次の文字を覚え始めた。




