第九話 変わらない日々と、小さな違和感
森で暮らすようになって、一年が過ぎた。
たった一年。けれど、人間だった頃の俺にとっては想像もできなかったほど、長く、そして大きな一年だった。
最初は歩くことさえ満足にできなかった。
四本の脚は思うように動かず、少し走れば転び、獲物を追いかけても、気づけば相手の姿を見失っていた。
それが今ではどうだ。
地面を蹴り、木々の間を駆け抜ける。飛び出した枝を避け、地面に張り出した木の根を飛び越え、急な斜面でも足を取られることなく走る。
耳を澄ませば、遠くの物音まで聞き取れる。
鼻を動かせば、風に混じった匂いから、近くにいる動物の気配を探れる。
人間だった頃には考えられなかったことばかりだ。
もちろん、不便なこともある。
雨に濡れれば毛が重くなるし、身体が汚れれば自分で手入れをしなければならない。細かな作業は相変わらず苦手だ。何より、人間の言葉を理解できても、自分の口から話すことはできない。
それでも、今の身体に対する戸惑いは、以前よりずっと小さくなっていた。
俺は、この世界で生きることを覚え始めていた。
「おーい! そろそろ戻ってこーい!」
森の奥から、聞き慣れた声が響いた。
アルトだ。
俺はぴんと耳を立て、声のした方向へ顔を向けた。
どうやら、今日の練習は終わりらしい。
まだ走り足りない気もしたが、呼ばれた以上は戻らなければならない。
俺は地面を蹴った。
木々の間をすり抜け、見慣れた小道を駆け抜ける。
やがて、木々の隙間から小さな木造の家が見えてきた。
煙突からは細い煙が上がっている。
あの家が、俺の帰る場所だった。
*
「お、戻ってきたな。どうだった?」
家の前で待っていたアルトが、俺の姿を見るなり尋ねた。
俺は胸を張り、尻尾を揺らした。
今日の成果を報告するように、口元を見せる。
「おっ、ちゃんと捕まえられたのか! やるじゃないか」
アルトは嬉しそうに笑い、俺の頭を撫でた。
悪くない気分だ。
一年前なら、獲物を見つけることすら難しかった。匂いを追っても途中で見失い、ようやく姿を捉えても、近づく前に逃げられてしまう。
それが今では、自分の力で狩りを成功させられるようになった。
もちろん、毎回うまくいくわけではない。
獲物に気づかれる日もある。相手の逃げ道を読み違え、悔しい思いをすることだってある。
それでも、失敗から学べることはあった。
風向きはどうだったのか。
どこで気配を察知されたのか。
獲物はなぜ、あの方向へ逃げたのか。
一つずつ考え、次の狩りに活かしてきた。
アルトに教わったことを、ようやく自分のものにでき始めたのだ。
「最初の頃は、ウサギ一匹捕まえるのにも苦労してたのになあ」
アルトが懐かしそうに言った。
俺は顔を背けた。
……その話はもういい。
「ははっ、悪い悪い。でも、本当に成長したよな」
そう言って、アルトはもう一度俺の頭を撫でた。
今度は抵抗しなかった。
褒められるのは、やっぱり悪くない。
「さて、獲物の処理をしたら昼飯にするか。今日は俺も腹が減ってるんだ」
アルトはそう言うと、家の中へ入っていった。
俺もその後を追う。
いつもと変わらない、穏やかな一日。
少なくとも、そのときの俺はそう思っていた。
◇◇◇
昼食を終えた俺たちは、家の前で休憩していた。
アルトは椅子に腰かけ、膝の上に本を広げている。俺はその足元に寝そべり、木々の間から差し込む日差しを浴びていた。
風が頬を撫で、葉がさらさらと音を立てる。
遠くでは鳥が鳴いていた。
穏やかな時間だった。
……少し、暇だな。
俺は頭を持ち上げ、アルトの手元を覗き込んだ。
そこには、この世界の文字が並んでいる。
一年前は、文字を見ても何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。人族の文字も、ただの線や記号の集まりにしか見えなかったのだ。
それが今では、簡単な文章なら少しずつ読めるようになっていた。
知らない単語はまだ多い。難しい本になると、途中で意味が分からなくなることもある。
それでも、以前と比べれば大きな進歩だった。
俺は本の端に書かれた文字を眺めた。
これは、確か――。
「ん? 気になるのか?」
アルトが本から顔を上げた。
俺は短く鳴き、前足で本を指した。
「読んでみたいってことか?」
こくりと頷く。
正確に意図が伝わったかは分からないが、アルトは本を少しこちらへ傾けてくれた。
「いいぞ。じゃあ、ここを読んでみな」
彼が一節を指で示す。
俺は文字を追い、頭の中で読み方を組み立てた。
一文字ずつ確かめ、知っている単語と照らし合わせる。
少し考えてから、正解だと思う答えを1文字ずつ指して短く鳴いて示した。
「お、正解! よく覚えてたな」
アルトが笑顔を見せた。
よし。
心の中で小さく拳を握る。
いや、今の俺には拳がない。あるのは前足だ。
……まあ、気持ちの問題だ。
「最近は読むのもずいぶん速くなったな。最初は一文字ずつ確認してたのに」
アルトは感心したように頷いた。
俺は得意げに胸を張る。
すると、アルトが妙な顔をした。
「……なんか、褒められるのを待ってたみたいだな」
俺はすぐに顔をそらした。
違う。
決して、そんなことはない。
「はいはい、分かった分かった」
絶対に分かっていない。
俺はアルトの足元から少し離れ、わざとらしく大きなあくびをした。
すると、アルトは声を上げて笑った。
「はははっ! 分かりやすいな、お前!」
……こいつ。
俺は尻尾で地面を一度叩いた。
いつか絶対、見返してやる。
そんなことを考えながらも、俺はどこか楽しかった。
誰かにからかわれ、言い返せずに悔しがる。
そんな何気ないやり取りを、心から楽しめるようになるとは思わなかった。
前世の俺は、誰かに笑われることを恐れていた。
笑い声が聞こえるたび、自分のことを笑っているのではないかと考えてしまう。相手の表情を窺い、言葉の裏を探り、傷つかないように距離を取る。
いつから、そんなふうになってしまったのだろう。
今となっては、はっきりと思い出せない。
けれど、アルトの笑い声には、あの頃の俺が恐れていたものがなかった。
そこに悪意がないことを、今の俺は知っている。
だから、悔しいと思いながらも、一緒に笑っていられるのだろう。
俺はもう一度、アルトのそばに戻った。
彼は何も言わず、本を少しだけこちらへ寄せてくれた。
それだけで十分だった。
◇◇◇
午後になると、俺たちは森へ出かけた。
今日の目的は狩りではない。
家の近くで使う薪を集めるのと、周辺の様子を確認するためだ。
「最近、乾いた枝が減ってきたからな。少し奥まで探しに行こうぜ」
アルトは背負い袋を肩にかけ、弓を手に取った。
俺もその隣に並ぶ。
森を歩くことは、もう珍しくない。
それでも、毎日同じ場所を歩いていると、少しずつ変化が見えてくる。
新しい芽を出した草木。地面に残された獣の足跡。昨日までなかった場所に落ちている枝。
森は、いつも同じ姿をしているわけではない。
生き物が動き、季節が巡り、草木が育つ。
変わっていないように見える場所にも、小さな変化が積み重なっている。
そんなことを、俺はこの一年で学んだ。
「そういえば、お前、最近は一人でも結構奥まで行けるようになったよな」
アルトが歩きながら言った。
俺は頷いた。
「でも、調子に乗るなよ。慣れてきた頃が一番危ないんだからな」
……分かっている。
森には、油断できない相手がいる。
この一年で、俺はいくつもの魔物と遭遇してきた。
最初に襲ってきたゴブリンたち。森で縄張りを持つロットウルフ。ゴブリンよりも大きく、力の強いホブゴブリン。
どれも、最初の頃の俺なら逃げることしかできなかった相手だ。
今では、相手の動きを見極め、隙を探し、自分の力で戦えるようになってきた。
以前、エレメズという魔物と戦ったときは、アルトと協力して、ようやく倒すことができた。
あの戦いでは、自分一人の力だけではどうにもならないことを思い知らされた。
速さだけでは足りない。
力だけでも足りない。
相手の特徴を知り、周囲の地形を利用し、時には誰かと協力する必要がある。
生き残るためには、それが大切なのだ。
「お、ちょうどいい枝があるな」
アルトの声で、俺は考え事をやめた。
道の脇に、乾いた枝がいくつも落ちていた。
アルトがそれらを拾い始めたので、俺も手伝うことにした。
……とはいえ、俺にできることは限られている。
前足で枝を押さえ、口でくわえて運ぶくらいだ。
俺は少し太めの枝をくわえ、アルトのもとへ運ぼうとした。
しかし、枝の先が木の根に引っかかった。
ぐい、と引っ張る。
抜けない。
もう一度、力を込める。
それでも抜けない。
俺は意地になって、思い切り後ろへ下がった。
すると――。
枝が勢いよく外れ、俺はそのまま尻もちをついた。
「うおっ!?」
口から枝が落ち、地面に転がる。
アルトが振り返った。
「……何やってんだ、お前」
俺は何事もなかったかのように立ち上がった。
失敗ではない。
これは、そう。
枝の強度を確認していただけだ。
「いや、どう見ても転んだだろ」
……うるさい。
俺は枝をくわえ直し、今度は慎重に運んだ。
アルトは笑いをこらえながら、拾った枝を背負い袋に詰めていく。
「助かるよ。ありがとうな」
その一言に、俺の耳がぴくりと動いた。
ありがとう。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が少し温かくなった。
前世では、誰かに感謝されることを素直に喜べなかった時期があった。
何かをしても、結局は無駄になる。
そう思い込んでいたからだ。
誰かのために動いても、相手が望んだ結果になるとは限らない。善意が伝わるとも限らない。
助けようとしたことが、かえって自分を傷つけることだってある。
俺は、それを知っていた。
けれど、今は違う。
俺が枝を運べば、アルトの仕事が少し楽になる。
俺が狩りを覚えれば、食料を確保する助けになる。
小さなことでも、役に立てることがある。
そして、アルトはそれを当たり前だと思わず、きちんと言葉にしてくれる。
それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
俺は尻尾を揺らし、もう一本の枝をくわえた。
今度は、ちゃんと運んでみせる。
◇◇◇
薪を集め終えた俺たちは、帰り道についた。
空は青く、木々の間から差し込む日差しも穏やかだった。
特別なことは何もない。
魔物に襲われることもなく、獲物を追いかける必要もない。
ただ、アルトと並んで森を歩いている。
それだけの時間だった。
「なあ」
アルトが、ふと思い出したように口を開いた。
「いつか、もっと遠くまで行ってみたいよな」
俺は顔を向けた。
「この森の外にも、いろんな場所があるんだ。大きな街もあるし、見たことのない景色もある。人族の国だけじゃなくて、エルフ族やドワーフ族、獣人族の国だってあるんだぜ」
アルトは、少し遠くを見るような目をした。
「いつか自分の目で見てみたいんだよな。地図に書かれてる場所が、本当はどんなところなのか」
その言葉を聞きながら、俺は以前の話を思い出していた。
アルトの父親は、世界を旅した冒険者だった。
壁に飾られた大きな斧。使い込まれた地図。古びた鞄。
どれも、父親が歩んできた旅の証だった。
アルトは父親から、世界の話を聞かされて育ったという。
そして今も、その夢を持ち続けている。
けれど、身体が弱く、魔法への耐性も低いアルトにとって、長い旅は簡単なことではなかった。
それでも、彼は諦めていない。
「まあ、すぐに行けるわけじゃないけどな。まずは体力をつけないといけないし、準備だって必要だ。旅に出るなら、もっと勉強もしておきたいしな」
アルトは苦笑した。
「焦っても仕方ないさ。できることから少しずつ、だな」
俺は頷いた。
できることから少しずつ。
それは、俺も同じだった。
この身体に慣れること。
森で生き残ること。
文字を覚え、この世界について知ること。
一年前には、どれも難しいことばかりだった。
けれど、時間をかければ少しずつできるようになった。
だから、これからもそうしていけばいい。
今すぐ何かを成し遂げる必要はない。
アルトがいつか旅に出るのなら、そのときに少しでも力になれるように。
俺も、できることを増やしていこう。
そんなことを考えながら、俺はアルトの隣を歩き続けた。
そのときの俺は、まだ知らなかった。
この森で過ごす何気ない時間が、どれほどかけがえのないものなのかを。
◇◇◇
夕暮れが近づく頃、二人は家へ戻った。
アルトは集めた薪を片づけ、夕食の準備を始める。
俺はいつもの場所に寝そべり、その様子を眺めていた。
薪が燃える音。
鍋の中で食材が煮える音。
アルトが鼻歌交じりに食事を作る声。
すっかり聞き慣れた音だった。
この家で暮らし始めたばかりの頃は、何もかもが新鮮だった。
人間ではなくなったことへの戸惑いもあったし、前世のことを思い出して、気持ちが沈む日もあった。
そんな日は、何をしていても心のどこかが空っぽだった。
今いる場所に馴染めない。
かといって、戻る場所があるわけでもない。
自分が何者なのかさえ分からないまま、ただ毎日を過ごしていた。
それでも、アルトと暮らす時間が増えるにつれ、そんな日ばかりではなくなっていった。
朝起きれば、アルトがいる。
一緒に食事をする。
森へ出かけ、帰ってきたら、また食事をする。
ときには勉強をして、くだらないことで笑う。
そんな当たり前の生活が、俺にとって大切なものになっていた。
「よし、できたぞ」
アルトが鍋を火から下ろした。
食欲をそそる匂いが広がり、俺の耳が自然と立つ。
「ははっ、分かりやすいな。ちょっと待ってろって」
アルトは笑いながら、俺の食事を用意した。
俺は大人しく待つ。
以前なら、目の前に食べ物があれば、すぐに飛びついていただろう。
だが、今では待つことも覚えた。
……成長したものだ。
「ほら、どうぞ」
食事が置かれた瞬間、俺は夢中で食べ始めた。
「おいおい、慌てるなって。誰も取らないから」
アルトが呆れた声を出す。
分かっている。
分かっているが、腹が減っていたのだから仕方がない。
俺は食べる手を止めず、最後の一口まできれいに平らげた。
食べ終えると、俺はアルトを見上げて小さく鳴いた。
「はいはい。お粗末さま」
アルトは俺の意図を察したらしく、笑いながら食器を片づけた。
俺は満足して、床の布の上へ戻る。
腹は満たされ、身体もほどよく疲れている。
このまま眠ってしまいたいところだった。
けれど、ふと窓の外に目が向いた。
夕暮れの森は、いつもと変わらないように見えた。
木々の影が長く伸び、鳥たちがねぐらへ戻っていく。
風が吹き、葉が揺れる。
見慣れた景色。
聞き慣れた音。
そのはずだった。
俺は、ゆっくりと耳を立てた。
……何だ?
今、何かが聞こえた気がした。
風の音とは違う。
鳥の鳴き声でもない。
ほんの一瞬、森の奥から妙な気配が伝わってきたのだ。
俺は立ち上がり、窓のそばへ歩み寄った。
鼻先を上げ、外の空気を探る。
草木の匂い。湿った土の匂い。遠くにいる動物の匂い。
いつもと同じはずの森の匂い。
けれど、その奥に、かすかな違和感があった。
うまく説明できない。
危険な魔物が近くにいるのかもしれないし、ただの気のせいなのかもしれない。
この一年で、俺は森のことを随分と学んだ。
獣の足跡を見分け、風の向きを読み、普段とは異なる物音に気づけるようになった。
だからこそ、分からないことを簡単に見過ごすべきではないと知っていた。
けれど、今の俺には、何が違うのかさえ分からなかった。
「ん? どうした?」
俺の様子に気づいたアルトが声をかけてきた。
俺は振り返り、彼を見つめた。
どう伝えればいいのか分からない。
気のせいだと決めつけるには、何かが引っかかっている。
けれど、確かな証拠があるわけでもない。
俺はもう一度、森の奥へ目を向けた。
木々の向こうは暗く、何も見えない。
ただ、いつもと変わらない森が広がっているだけだった。
アルトは俺の視線を追い、窓の外を見た。
「……何かいるのか?」
俺は耳を澄ませた。
返事をするような音はない。
風が枝を揺らし、葉が擦れ合う音だけが聞こえてくる。
しばらくして、アルトは小さく肩をすくめた。
「まあ、気になるなら明日、周りを見てみるか。何もなければ、それでいいんだしな」
俺は彼の顔を見上げた。
いつもと変わらない、穏やかな表情。
その声を聞いていると、胸に残っていた緊張がほんの少しだけ和らいだ。
そうだ。
何もなければ、それでいい。
明日になれば、また森を歩き、狩りをして、アルトと一緒に過ごす。
今日と同じような一日が待っている。
そう思いたかった。
俺は窓辺を離れ、いつもの場所へ戻った。
アルトもそれ以上は何も言わず、明日の準備を始めた。
家の中には、薪の爆ぜる音と、道具を片づける小さな物音が戻ってくる。
いつもの夜。
いつもの家。
いつもの暮らし。
すべてが、変わらないように思えた。
ただ一つ。
窓の向こうに広がる森だけが、いつもより少し遠く、深く感じられた。
俺は目を閉じた。
明日も、今日と同じ日が訪れますように。
そんな願いを胸に抱きながら、静かに眠りへ落ちていった。




