第十話 初めての町
森で暮らすようになってから、一年が過ぎた。
狩りを覚え、この身体の扱いにも慣れた。最初は歩くことすらままならなかった四本の脚も、今では自分の手足のように動かせる。
朝になれば獲物を探し、腹が減れば狩りをする。家に戻ればアルトからこの世界について教わり、ときには一緒に文字の勉強もする。
そんな日々を繰り返すうちに、俺はすっかり森の暮らしに馴染んでいた。
もちろん、不満がないわけではない。
森の中は静かで、食料にも困らない。アルトと過ごす毎日だって悪くなかった。
それでも、一つだけ気になっていることがあった。
――森の外には、どんな世界が広がっているのだろう。
アルトからは、いろいろな話を聞いていた。
人族が暮らす町や国。エルフ族の森。ドワーフ族が築いた山岳地帯。獣人族の国。そして、海の向こうにあるという魔族大陸。
この世界には、俺の知らない場所がいくらでもある。
話を聞くだけでも十分に面白かった。
だが、知識として知っていることと、自分の目で見ることは違う。
いつか森の外へ出てみたい。
そう思っていたものの、これまでは狩りや勉強に追われ、なかなか機会がなかった。
――その機会が訪れたのは、ある日の朝だった。
「そうだ。今日は町まで行こうと思ってるんだけど、お前も来るか?」
朝食を終えたアルトが、思い出したように言った。
俺は思わず顔を上げた。
……町?
今、町と言ったのか?
「おっ?」
俺の反応を見て、アルトが口元を緩める。
「もしかして、行きたいのか?」
俺は勢いよく尻尾を振った。
「ははっ、分かりやすいな。いいぞ。ちょうど換金したい素材も溜まってきたところだしな」
換金。
森で手に入れた素材を、お金に換えることだ。
アルトは普段、狩りで手に入れた魔物の牙や爪、毛皮などを町へ持ち込み、買い取ってもらっている。
それらは武具や道具の材料になる。素材によっては、魔法に関する研究や加工に使われることもあるらしい。
森では食料も薪も手に入る。
しかし、塩や調味料、紙、道具の修理に必要な品まで、すべてを自給自足できるわけではない。
だからこそ、アルトは定期的に町へ足を運んでいるのだ。
「まあ、毎回大儲けできるわけじゃないけどな。素材の種類や状態によって値段も変わるし、安いものだと大した金額にならないこともある」
アルトは肩をすくめた。
「それでも、生活していくには必要だからな」
なるほど。
俺にとって森は、狩りをする場所であり、暮らす場所でもある。
だが、アルトにとって生活のすべてが森の中で完結するわけではない。森の外にも人々の暮らしがあり、町には町の営みがある。
そう考えると、ますます期待が膨らんできた。
「ただし、一つ約束な」
アルトが人差し指を立てた。
「町では勝手に走り回らないこと。人に飛びついたり、店の商品をくわえたりするのも駄目だぞ」
……俺を何だと思っているんだ。
いや、狼なのだが。
「それと、知らない人に吠えないこと。怖がらせるかもしれないからな」
俺は不満げに鼻を鳴らした。
分かっている。
俺だって、無意味に騒ぎを起こすつもりはない。
「よし。それじゃあ準備するか」
アルトは立ち上がると、棚から布袋を取り出した。
乾燥させた毛皮に、ゴブリンの牙や爪、小さな角。それから、いくつかの魔石。
彼は素材を一つずつ確かめながら、丁寧に袋へ詰めていく。
慣れた手つきだった。
俺はその様子をじっと眺めた。
どれくらいの値段がつくのだろう。
どんな人が買い取ってくれるのだろう。
町には、どんな店があるのだろう。
疑問が次々と浮かんでくる。
「そんなに気になるか?」
アルトが苦笑した。
俺はすぐに頷いた。
「なら、向こうでいろいろ見て回るといいさ。ただし、俺から離れすぎるなよ。迷子になったら大変だからな」
……迷子。
俺は狼だぞ。
森ならともかく、人の多い町では話が違うのかもしれない。
ここは大人しく頷いておくことにした。
こうして俺は、初めて町へ行くことになった。
◇◇◇
森を抜ける道は、いつもと少し違って見えた。
アルトは背負い袋を背負い、弓を携えている。俺はその隣を歩きながら、周囲の匂いを確かめていた。
森の中は、いつもどおりだった。
木々の間を風が抜け、鳥の声が響く。地面には獣の足跡が残り、草むらの向こうでは小さな動物が動いている。
けれど、歩き続けるうちに景色は少しずつ変わっていった。
木々の間隔が広がり、地面には踏み固められた道が現れる。ところどころに車輪の跡が残り、人間が行き来した形跡も増えてきた。
やがて、森の木々が途切れた。
目の前に広がったのは、遠くまで続く道だった。
「この道をまっすぐ進めば町だ。歩いても、そんなに時間はかからないぞ」
アルトが前方を指さす。
その先には、建物らしき影が見えた。
あれが町なのか。
森の端まで出たことなら何度もある。だが、人々が暮らす場所へ向かうのは初めてだった。
自然と足取りが速くなる。
「おいおい、そんなに急がなくても町は逃げないぞ」
アルトの声が飛んできた。
俺は慌てて歩調を緩め、何事もなかったような顔をする。
別に急いでいるわけではない。
ただ、少し気になっているだけだ。
「はいはい。そういうことにしておくか」
……絶対に分かっているな、こいつ。
俺はそっぽを向いた。
それからしばらく歩くと、遠くに見えていた建物が少しずつ大きくなってきた。
木造の家々。石を積み上げた建物。その向こうには、町を囲む柵と門が見える。
門のそばには、武装した人間が立っていた。
俺は思わず足を止めた。
……本当に、町がある。
当たり前のことなのに、胸の奥が妙に騒いだ。
前世では、町も建物も珍しいものではなかった。
だが、今の俺にとっては違う。
ここは、前世とは異なる世界なのだ。
目の前にあるのは、本やアルトの話を通してしか知らなかった、この世界の人々の暮らしだった。
「ここが町だ。思ってたより大きいか?」
アルトが俺の顔を覗き込む。
俺は何度も頷いた。
「ははっ。そんなに驚くことかよ」
驚くに決まっているだろう。
町へ続く道を行き交う人々。荷車を引く馬。大きな袋を背負った商人。
そのすべてが、俺の知らない日常だった。
俺は、目の前の光景を一つでも多く記憶に刻もうとした。
◇◇◇
門番の男は、いつものように町へ出入りする人々を見ていた。
商人が荷車を引いてくる。買い物帰りの住人が通り過ぎる。旅装の冒険者が仲間と話しながら門をくぐっていく。
いつもと変わらない光景。
だからこそ、森の道から現れた一人と一匹の姿は、自然と目を引いた。
「おう、アルト。今日も素材の換金か?」
男は見知った青年に声をかけた。
「ああ。ちょっと溜まってきたからな」
アルトは気さくに手を上げる。
その隣にいるのは、一頭の狼だった。
灰色がかった毛並みに、引き締まった身体。野生の獣らしい鋭さを備えた狼が、青年のすぐそばを歩いている。
門番は、その姿を見て表情を引き締めた。
「……おい、アルト。その狼はどうした?」
「ん? こいつか?」
アルトが隣を見下ろす。
「ああ。魔物じゃないのか?」
その言葉に、俺の耳がぴくりと動いた。
魔物。
確かに、俺は魔物だ。
この世界に生きる人々からすれば、魔物とは危険な存在なのだろう。人を襲い、家畜を食い荒らし、ときには命を奪う。
だからこそ、人々は魔物を恐れ、警戒する。
それは当然のことだ。
俺だって、森で暮らすうちに何度も危険な魔物を見てきた。
だが、自分がその魔物として見られる側になると、話は違ってくる。
門番の視線は、俺の身体を慎重に観察していた。
いつでも剣を抜けるように、手が腰の武器へと伸びている。
俺は反射的に足を止めた。
……やっぱり、怖がられるのか。
胸の奥に、覚えのある感覚が広がった。
人の視線が気になる。
何か言われるのではないかと身構えてしまう。
自分がどう思われているのか、相手の顔色ばかりを窺ってしまう。
前世でも、そうだった。
人と関わることが怖くなった俺は、いつからか他人の目を避けるようになっていた。
誰かに近づけば傷つく。
誰かを信じれば裏切られる。
そんな考えが、いつの間にか当たり前になっていた。
だから、門番の警戒する目を見たとき、俺は無意識に一歩引きそうになった。
そのときだった。
「まあ、魔物と言うか……ただの狼だよ」
アルトが、あっさりと言った。
「は?」
門番が間の抜けた声を上げる。
「いや、だから、こいつは人を襲ったりしないってこと。森で一緒に暮らしてるんだ。大人しいし、妙に賢いしな」
アルトは俺の頭に手を置いた。
いつもと変わらない、何気ない仕草だった。
「俺が責任を持つから、通してくれないか?」
門番はしばらく俺とアルトを見比べていた。
「……お前がそう言うなら、まあいいが。何かあったら責任を取れよ」
「ああ、分かってる」
アルトは迷いなく頷いた。
それだけだった。
特別な説明も、立派な理由もない。
ただ、俺は大人しい狼で、アルトが責任を持つ。
それだけの話だった。
なのに。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
俺が何者なのか。
魔物なのか、人間なのか。
そんなことよりも、アルトは俺自身を見てくれている。
俺が何をしてきたのか。どんなふうに暮らしているのか。
そうしたものを知ったうえで、隣にいてくれる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「まあ、町の中では気をつけろよ。ほかの人間が、みんなお前みたいに慣れてるわけじゃないからな」
門番はそう言って、俺から少し距離を取った。
完全に警戒を解いたわけではないらしい。
それでも、俺たちを追い返そうとはしなかった。
「分かってるよ。ありがとう」
アルトは礼を言い、門をくぐった。
俺もその後に続く。
門を通り抜ける直前、俺は一度だけ振り返った。
門番は、まだ少し不思議そうな顔で俺を見ていた。
……まあ、仕方ないか。
すべての人間が、俺を受け入れてくれるわけではない。
そんなことは、前世で嫌というほど知っている。
それでも。
隣を歩くアルトの姿を見て、俺は少しだけ思った。
人間だからといって、全員が同じわけじゃない。
怖い人もいれば、優しい人もいる。
そして、俺を魔物だと警戒する人がいる一方で、ただの狼として隣に置いてくれる人もいる。
そのことを、俺は忘れないでいたいと思った。




