第十話 初めての町②
◇◇◇
町の中へ一歩踏み入れた瞬間、俺の耳にさまざまな音が飛び込んできた。
人々の話し声。
荷車の車輪が地面を進む音。
店先から聞こえる呼び込みの声。
遠くから響く、金属を打ち合わせる音。
森とはまったく違う、賑やかな世界だった。
俺は思わず立ち止まった。
道の両側には店が並び、人々が行き交っている。
野菜や果物を売る店。布や衣服を並べた店。道具を扱う店。看板を掲げた食堂。
目に入るものすべてが新鮮だった。
この町は、四つある人族国家の一つ、エルバフ国の辺境に位置しているらしい。
王都のような大きな都市と比べれば、規模は小さいのだろう。それでも、俺にとっては十分すぎるほど広く、賑やかな場所だった。
そして何より、そこにいる人々の姿が興味深かった。
人族が大半を占めているようだが、よく見ると獣の耳や尻尾を持つ者もいる。
獣人族だろう。
耳の形も尻尾の長さも、人によって違う。服装もさまざまで、同じ町に暮らしているのに、それぞれ異なる雰囲気をまとっていた。
人々は互いに言葉を交わし、商品を選び、忙しそうに通りを歩いていく。
そこにあるのは、特別な光景ではない。
彼らにとっては、ごく普通の日常なのだ。
けれど、俺にとっては違う。
森の中で生きてきた俺には、何もかもが初めてだった。
「おーい。いつまで立ち止まってるんだ?」
先を歩いていたアルトが振り返った。
俺は慌てて追いつく。
「そんなに珍しいか?」
珍しいに決まっている。
俺は周囲を見回しながら、アルトの隣を歩いた。
「まあ、初めてなら仕方ないか。ゆっくり見て回ればいいさ。まずは素材を換金しに行こうぜ」
アルトは町の奥へと歩き始めた。
俺もその背中を追いかける。
途中、店先に掲げられた看板が目に入った。
食堂。道具屋。衣料品店。
見覚えのある文字を見つけるたび、少し嬉しくなる。
人族の文字は、アルトに教わって少しずつ覚えてきた。
まだすらすら読めるわけではないが、こうして町の中で実際に使われている文字を見ると、勉強したことが無駄ではなかったのだと実感できる。
文字を覚えることも、世界を知るための一歩なのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、アルトが通りから少し外れた建物の前で足を止めた。
「着いたぞ。ここが素材を買い取ってくれる店だ」
大きな看板には、牙や爪を思わせる絵が描かれていた。
入口のそばには、魔物の毛皮や角が並べられている。
俺は建物を見上げた。
森で暮らしていると、魔物の素材は狩りの成果の一部でしかない。
牙は鋭く、爪は硬い。毛皮は寒さをしのぐのに役立つ。
だが、それらが町では商品になる。
誰かが素材を必要とし、誰かがそれを買い取り、別の誰かが加工して道具や武具を作る。
森で得たものが、町で別の価値を持つ。
そう考えると、少し不思議な気分になった。
「よし、入るぞ」
アルトが扉を開けた。
俺もその後に続いた。
◇◇◇
店の中には、乾燥した毛皮の匂いや、薬品を思わせる独特の匂いが漂っていた。
壁際にはさまざまな素材が種類ごとに分けて置かれ、棚には牙や爪、角などが並べられている。
カウンターの向こうには、がっしりとした体格の男が座っていた。
「いらっしゃい。お、アルトじゃないか」
「こんにちは。今日も買い取りを頼むよ」
「おう。何を持ってきた?」
アルトは背負い袋をカウンターに置き、中から素材を取り出した。
「ゴブリンの牙と爪。それから、ロットウルフの毛皮が少し。こっちはホブゴブリンの素材だ」
男は一つずつ素材を確かめていった。
牙の形や傷の有無を調べ、毛皮を広げて状態を見る。爪についても、欠けている部分がないか丁寧に確認していた。
素材を扱う男の目は真剣だった。
見た目が同じような牙でも、傷の有無や状態によって価値は変わる。毛皮も、処理が悪ければ使い道が限られてしまう。
買い取りの値段を決めるには、素材を見る目が必要なのだ。
「うん。悪くないな。毛皮も状態がいい。ちゃんと処理してあるじゃないか」
「できるだけ傷めないようにしてるからな」
「なるほど。じゃあ、これならこのくらいでどうだ?」
男が金額を告げる。
アルトは少し考えたあと、頷いた。
「ああ、それで頼む」
男は素材をまとめ、代金を数えてカウンターに置いた。
アルトはそれを受け取り、袋へしまう。
取引はあっという間に終わった。
俺は思わず目を丸くした。
森で魔物を倒し、素材を集め、傷まないように処理して持ってくる。
そして、こうして換金する。
アルトにとっては当たり前の作業なのだろう。
けれど、俺にとっては何もかもが初めてだった。
「おや、その狼は?」
買い取りを終えた男が、俺に目を向けた。
「ああ、森で一緒に暮らしてるんだ。今日は町を見せようと思って連れてきた」
「へえ。随分と人に慣れてるな」
男は興味深そうに俺を見つめた。
俺は大人しく座っていた。
ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
「毛並みもいいし、身体つきもしっかりしてる。ちゃんと世話をしてるんだな」
「まあ、一緒に暮らしてるからな」
アルトは俺の頭を軽く撫でた。
……世話をされているだけではない。
俺だって狩りを手伝うこともあるし、薪を運ぶこともある。
少しは役に立っているのだ。
俺は胸を張った。
「ははっ、何だその顔。褒められて嬉しいのか?」
アルトが笑う。
違う。
これは、自分の働きを主張しているだけだ。
「まあまあ。そう怒るなって」
アルトは楽しそうに俺の背中を撫でた。
……やっぱり、こいつには敵わない。
◇◇◇
店を出たあと、アルトは通りの向こうにある商店へ向かった。
「せっかくだし、必要なものも買っていくか。塩が少なくなってたし、紙も補充したいんだよな」
俺は頷き、後についていった。
換金したお金は、ただ蓄えておくためのものではない。
こうして生活に必要な品を買うために使うのだ。
店の中には、袋に入った塩や香辛料、保存の利く食料などが並んでいた。
アルトは店主と挨拶を交わし、必要な品を選んでいく。
その様子を見ていると、森で暮らすだけでは分からなかったことが見えてきた。
アルトは狩りをして、素材を集める。
それを町で換金し、食料や道具を買う。
そして森へ戻り、また日々の暮らしを続ける。
当たり前のように見えるが、そこには確かな工夫と積み重ねがあった。
森の中だけで完結する生活ではない。
人々の暮らしは、さまざまな場所や人とのつながりによって成り立っているのだ。
「よし、こんなもんかな」
買い物を終えたアルトが、荷物をまとめた。
「ほかに見たいところはあるか?」
俺はすぐに頷いた。
まだまだ見足りない。
食堂も気になるし、武器を扱う店も見てみたい。通りを歩いている人々が、どんな生活を送っているのかも知りたい。
何より、この町には俺の知らないものが多すぎる。
「ははっ、元気だな。じゃあ、少しだけ回ってから帰るか。ただし、俺から離れるなよ」
アルトはそう言って歩き出した。
俺は嬉しくなり、その隣をついていった。
食堂からは香ばしい匂いが漂い、鍛冶屋らしき建物からは金属を打つ音が聞こえてくる。
店先では商人が客に声をかけ、荷車を引く人々が忙しそうに行き交っていた。
ふと、通りの向こうで獣人族の親子が足を止めた。
幼い子どもが俺を見つけ、母親の服の裾を引っ張っている。
「あの狼さん、大きいね」
「こら、指をささないの」
母親は子どもをたしなめながら、俺たちに軽く頭を下げた。
アルトも笑顔で応じ、そのまま歩き続ける。
俺はその親子の姿を振り返った。
森では、誰かとすれ違うことすら滅多にない。
けれど町では、見知らぬ人々が当たり前のように行き交い、時には目を合わせ、言葉を交わす。
その一つ一つが、俺には新鮮だった。
もちろん、好奇心だけで見られているわけではない。
すれ違う人の中には、俺の姿を見て足を止める者もいた。
警戒するように距離を取る者もいれば、連れの人間に小声で何かを話す者もいる。
聞こえてくる言葉のすべてが、俺に向けられたものとは限らない。
それでも、どうしても気になってしまう。
俺は人間だった。
人の言葉を理解できるし、人の考えだって、ある程度は分かるつもりだ。
だが、今の俺は狼の姿をしている。
人々が俺を見て、最初に考えるのは何だろう。
賢そうな狼?
珍しい生き物?
それとも、人を襲うかもしれない魔物?
おそらく、そのどれもが正しいのだろう。
彼らは俺の過去を知らない。
俺がどこから来たのかも、何を考えているのかも知らない。
ただ、目の前にいる狼を見て判断するしかないのだ。
それは、仕方のないことだと思う。
それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。
前世でも、俺は他人から正しく見てもらえないと感じていた。
人付き合いが苦手で、教室の隅にいることが多かった俺には、親しい友人と呼べる相手が一人だけいた。
そいつは、周囲から嫌がらせを受けていた。
俺は、見て見ぬふりをすることができなかった。
だから、助けようとした。
自分にできることを探して、声をかけて、何とかしようとした。
けれど、状況は良くならなかった。
教師に相談しても、まともに取り合ってもらえなかった。
そして最後には、助けようとした友人にさえ見放された。
何がいけなかったのか。
どうすれば良かったのか。
いくら考えても答えは出なかった。
ただ、傷ついた。
誰かのために動いたはずなのに、自分だけが取り残されたような気がした。
それから俺は、人と深く関わることを避けるようになった。
誰かに近づけば、また傷つくかもしれない。
誰かを信じれば、また裏切られるかもしれない。
そんな思いが、心の中に根を張っていった。
それでも、心のどこかでは信じたかったのだと思う。
人を助けることに意味があると。
誰かと関わることが、必ずしも悪いことばかりではないと。
だからこそ、あの夜。
車道に飛び出しそうになった少女を見たとき、俺は考えるより先に身体を動かしていた。
金色の髪をした、見知らぬ少女。
伸ばした手。
迫ってくる光。
あの瞬間、俺は何を考えていたのだろう。
――今度こそ、誰かを助けられただろうか。
答えを知ることはできない。
目を覚ましたとき、俺は人間ではなくなっていたのだから。
「おーい。どうした?」
アルトの声に、俺は我に返った。
気づけば、少し離れた場所に立ち止まっていたらしい。
アルトが心配そうにこちらを見ている。
俺は慌てて駆け寄り、彼の隣に並んだ。
「大丈夫か?」
俺は頷き、尻尾を軽く振った。
アルトはしばらく俺を見つめていたが、やがていつものように笑った。
「ならいいけど。疲れたら遠慮なく言えよ」
俺はもう一度頷いた。
人間の言葉を話せない俺には、自分の気持ちを伝える方法が限られている。
それでも、アルトはこうして気にかけてくれる。
俺が何かを言えなくても、すぐに分からなくても、無理に答えを求めたりはしない。
ただ、隣にいてくれる。
それがどれほどありがたいことなのか、俺は知っていた。
誰もが俺を理解してくれるわけではない。
誰もが俺を受け入れてくれるわけでもない。
けれど、だからといって、誰も信じられないと決めつける必要はないのかもしれない。
少なくとも、目の前のこの青年は違う。
俺が魔物だと知っていても、隣にいてくれる。
俺が言葉を話せなくても、俺なりの伝え方を受け取ろうとしてくれる。
その優しさに、俺は少しずつ救われていた。
「そろそろ帰るか。あんまり遅くなると、森に戻るころには暗くなっちまう」
アルトが空を見上げた。
俺は名残惜しさを感じながらも、頷いた。
まだ見たいものはたくさんある。
けれど、また来ればいい。
アルトはそう言ってくれたのだから。
「また機会があったら来ようぜ。町には、まだまだ面白い場所があるからな」
その言葉に、俺の尻尾が勢いよく揺れた。
また来られる。
そう思うだけで、胸が弾んだ。
◇◇◇
町の門をくぐる二人の姿を、門番は仕事の合間に見送った。
青年の背には買い物袋。隣には、相変わらず賢そうな狼。
来たときと同じ組み合わせだ。
「気をつけて帰れよ、アルト!」
「ああ、またな!」
アルトは振り返って手を振った。
狼も一度だけ門番を見てから、青年の後を追っていった。
門番は小さく笑い、再び通りへと視線を戻した。
「……本当に、不思議な狼だな」
そのつぶやきは、賑やかな町の音に紛れて消えていった。
◇◇◇
森へ続く道を歩きながら、俺は町の景色を思い返していた。
賑やかな通り。
所狭しと並んだ店。
見たことのない品物。
そして、そこで暮らす人々。
どれも、森の中では知ることのできなかったものばかりだった。
「今日は楽しかったか?」
隣を歩くアルトが尋ねた。
俺は大きく頷いた。
「ははっ。それなら、連れてきた甲斐があったな」
アルトは満足そうに笑った。
「また来ようぜ。次は、もう少しゆっくり見て回ってもいいしな」
俺は嬉しくなって、彼の顔を見上げた。
アルトは俺の頭を軽く撫でる。
その手の温かさを感じながら、俺は前方へ視線を戻した。
やがて森の木々が見えてきた。
その向こうには、いつもの小さな家がある。
帰る場所は変わらない。
待っているのは、いつもの日常だ。
けれど今日、俺は新しい世界を知った。
森の外にも、たくさんの人々が暮らしている。
それぞれの生活があり、それぞれの営みがある。
そして、その中には俺を警戒する人もいれば、興味を持ってくれる人もいる。
誰もが同じではない。
それは、前世で傷ついた俺が、ずっと忘れようとしていたことだった。
人と関われば、傷つくことがある。
信じた相手に、裏切られることだってある。
けれど、誰かと出会うことでしか得られないものもあるのだろう。
少なくとも、アルトと出会わなければ、俺は今も森の中で一人、ただ生き延びることだけを考えていたかもしれない。
彼と暮らすようになってから、俺は少しずつ変わってきた。
狩りを覚えた。
文字を覚えた。
この世界のことを知った。
そして何より、誰かと一緒に過ごす時間を、心から楽しいと思えるようになった。
過去の傷が消えたわけではない。
人間を完全に信じられるようになったわけでもない。
それでも、以前の俺なら考えもしなかったことを、今は自然に思える。
明日は何を教えてもらえるだろう。
次に町へ行ったら、どんなものが見られるだろう。
いつか、もっと遠くの世界も見てみたい。
そんな未来を、楽しみにしている自分がいる。
「どうした? また何か考えてるのか?」
アルトが俺の顔を覗き込んだ。
俺は首を横に振り、それから彼の手に頭をすり寄せた。
「おっ、何だよ。甘えん坊だな」
アルトは笑いながら、俺の頭を撫でてくれた。
……別に、甘えているわけじゃない。
ただ、少しだけ。
今の気持ちを伝えたかったのだ。
ありがとう、と。
言葉にはできない。
けれど、いつか。
いつか、この気持ちをきちんと伝えられる日が来るのなら。
そのときは、ちゃんと伝えよう。
俺を拾ってくれたこと。
一緒に暮らしてくれたこと。
俺が何者なのか分からなくても、隣にいてくれたこと。
そのすべてに、感謝していると。
俺はアルトの隣を歩きながら、遠くに広がる空を見上げた。
この世界は、思っていたよりもずっと広い。
まだ知らない町がある。
まだ知らない土地がある。
そして、まだ知らない人々がいる。
いつか、森の外へ。
その願いは、今はまだ小さなものだった。
けれど、確かに俺の中に芽生えていた。
俺はもう、ただ一人生き延びるためだけに、この世界を歩いているわけではない。
隣には、帰りを共にする相手がいる。
帰る場所がある。
そして、明日を楽しみにする理由がある。
――それだけで、今は十分だった。




