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異世界来たのに狼ってそれはないでしょう!  作者: ナメク
第一章君の名前は

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第十一話 森の異変

町から帰って、数日が過ぎた。

 俺たちの暮らしは、何も変わらなかった。

 朝になればアルトと食事をし、森へ出て狩りや鍛錬に励む。昼には家へ戻り、文字を学んだり、他愛のない話をしたりする。夕方には薪を集め、夜になれば温かな食事を囲む。

 昨日と同じ今日。

 今日と同じ明日。

 そんな日々が、当たり前のように続いていく。

 少し前までの俺なら、こんな生活を想像することさえできなかっただろう。

 誰かと食事をすること。隣にいる相手を信頼すること。そして、明日もまた同じ時間を過ごせるのだと、疑いなく思えること。

 それらは、俺にとって何よりも得難いものだった。

 だからこそ、あの日の違和感が気になっていた。

 夕暮れの森で感じた、説明のつかない心配。

 姿を見たわけではない。何かが動く音を聞いたわけでもない。ただ、森の奥に何かが潜んでいるような、そんな感覚があった。

 結局、それ以来、同じ気配を感じることはなかった。

 気のせいだったのかもしれない。

 けれど、どうしても忘れられなかった。

 まるで、目の前にあるものだけを見ていては気づけない何かが、すぐそばに隠れているような――。

 そして、数日後。

 俺たちは、その違和感が決して気のせいではなかったことを知る。

 ◇◇◇

 森の朝は、いつも騒がしい。

 枝から枝へ飛び移る鳥の羽音。草むらを駆け抜ける小動物の足音。風が木々を揺らし、葉と葉が擦れ合う音。

 この森で暮らすようになってから、俺はそうした音を毎日のように聞いてきた。

 だからこそ、いつもと違うものがあれば、すぐに気づける――はずだった。

「……妙だな」

 先を歩いていたアルトが、不意に足を止めた。

 俺も立ち止まり、彼の背中を見上げる。

 どうした?

 問いかけるように耳を動かすと、アルトは答える代わりに、周囲へ視線を巡らせた。


「鳥の声が聞こえない」


 言われて、俺も耳を澄ませた。

 風は吹いている。

 頭上の枝は揺れ、足元の草もかすかに音を立てている。

 それなのに、鳥の声だけがなかった。

 いつもなら、俺たちの存在など気にも留めずに鳴いているはずだ。少し離れた場所では小鳥のさえずりが響き、ときには頭上を横切る影が見えることだってある。

 だが、今日は違った。

 鳥の姿がない。

 声も聞こえない。

 それどころか、普段なら感じられる小動物の気配まで、妙に遠かった。

 俺は鼻先を持ち上げ、風の匂いを探った。

 湿った土。草木。樹皮。遠くにいる獣の匂い。

 嗅ぎ慣れた森の匂いに、これといった変化はない。

 なのに、背中の毛がわずかに逆立った。

 何かがおかしい。

 そう感じているのは、俺だけではないらしい。

「鳥が移動すること自体は珍しくない。季節や天候のせいかもしれないしな」


 アルトは、いつもの落ち着いた声で言った。

「これだけで異変だと決めつけるのは早い」

 そう言いながらも、彼の手は弓に届く位置から離れなかった。

 視線もまた、森の奥から戻ってこない。

 口では平静を装っていても、警戒を解いているわけではないのだ。

 俺はアルトの隣に並び、低く唸った。

「分かる。お前も変だと思うんだな」

 アルトが俺の頭を一度だけ撫でる。

「けど、何が起きているのか分からない以上、まずは確かめないとな」

 俺は頷いた。

 何も分からないからこそ、慎重になる。

 それは、この森で生きていくうえで、何度も学んできたことだった。

 俺たちは再び歩き始めた。

 だが、さっきまでと同じようには歩けなかった。

 葉擦れの音がするたびに耳が動く。風向きが変わるたびに鼻先を上げる。

 何かがいるのではないか。

 どこかから、こちらを見ているのではないか。

 そんな考えが頭から離れなかった。

◇◇◇

 しばらく進んだところで、アルトが再び足を止めた。


「……おい。こっちに来てくれ」


 先ほどよりも低い声だった。

 俺はすぐに駆け寄った。

 アルトが見つめていたのは、道から少し外れた場所に立つ一本の木だった。

 最初は、何の変哲もない木に見えた。

 しかし、幹に目を向けた瞬間、俺は息を呑んだ。

 傷がある。

 一本や二本ではない。

 幹の表面に、鋭い傷が何本も刻み込まれていた。

 木の皮は大きく剥がれ、内側の木肌がむき出しになっている。根元には細かな木片が散らばり、地面にも削り取られた樹皮が落ちていた。

 傷は、かなり高い位置まで続いていた。

 まるで、巨大な爪で幹を引き裂いたかのようだった。


「これは……」


 アルトはすぐには近づかず、まず周囲を見回した。

 それから足元を確かめながら、ゆっくりと木に近づいていく。


「爪痕、か」


 俺は耳を立てた。

 森で暮らしていれば、獣が木に爪を立てた跡を見かけることはある。

 縄張りを示すためかもしれないし、爪を研ぐためかもしれない。魔物が通り過ぎた痕跡であることもある。

 だが、これは明らかに普通ではなかった。

 深すぎる。

 そして、高すぎる。

 傷の間隔も広い。一本一本が、俺の前脚より長いくらいだった。

 俺は幹を見上げた。

 四足歩行の獣が、これほど高い場所に傷を残すのは簡単ではない。身体を木に預けて立ち上がるにしても、これだけ自然な並び方で傷を刻むには、相応の体格と力が必要だろう。

 しかし、目の前の爪痕は、そうした無理を感じさせなかった。

 まるで、何者かが二本の足で立ち、腕を振るうようにして木を引っかいたかのように見える。

「……随分と大きな爪だな」


 アルトの声から、いつもの軽さが消えていた。

 彼は幹の傷を見比べたあと、視線を地面へ落とした。

 根元の土が踏み固められている。

 その周囲には、いくつもの跡が残っていた。

 俺も鼻先を地面へ近づけた。

 土の匂いに混じって、知らない獣の匂いがある。

 強い匂いではない。風にさらされ、すでに薄れかけている。それでも、ここに俺たちの知らない何かがいたことだけは分かった。

 アルトは跡を踏まないように注意しながら、地面の様子を調べ始めた。

 足跡らしき窪みを一つずつ見ていく。

 やがて、彼の眉間に皺が寄った。


「……そういうことか?」


 小さな呟き。

 何かに気づいたらしい。

 だが、すぐには答えを口にしなかった。

 アルトはもう一度、木の傷を見上げた。

 それから足跡へ目を戻し、しばらく黙り込む。

 俺は彼の顔を見た。

 普段のアルトは、知らないものを見つけても、まずは面白がるところがある。

 分からないことを調べるのが好きなのだ。

 それなのに、今の彼は違った。

 目の前の痕跡を理解しようとするほど、表情が険しくなっていく。

「アルト?」


 俺が小さく鳴くと、彼はようやく口を開いた。

「……二本足で立つ獣かもしれない」


 俺は思わず彼を見上げた。

 二本足で立つ獣。

 つまり、俺たちと同じ四足歩行の獣とは違い、身体を起こして移動することのできる存在。

 この世界には獣人族がいる。

 だが、アルトの言い方からすると、彼が考えているのは獣人族ではなさそうだった。

 人間とは違う。

 けれど、ただの獣とも違う。

 そんな存在が、この森を歩いているというのか。

「もちろん、これだけで断定はできない。別の魔物がつけた跡かもしれないし、足跡だって見間違いの可能性がある」

 アルトは慎重に言葉を選んだ。

「ただ、普通の獣じゃないのは確かだろうな。これだけ深い傷を残せる力があって、しかも二本足で立つような相手だとしたら……」

 彼は言葉を切った。

 その視線が、森の奥へ向けられる。

 木々の間には、いつもと変わらない景色が広がっていた。

 差し込む木漏れ日。

 風に揺れる枝葉。

 地面を覆う草と、遠くへ続く獣道。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 それなのに、俺は確信に近い感覚を覚えていた。

 この森には、俺たちの知らない何かがいる。

 しかも、そいつは俺たちが普段相手にしている魔物とは、何かが違うのかもしれない。


「こりゃあ……化け物がいるかもしれんな」


 アルトが、ぽつりと呟いた。

 その言葉が、静まり返った森に落ちた。

 化け物。

 アルトがそう呼ぶほどの存在。

 俺の喉が、ひゅっと鳴った。

 これまでにも、俺たちはいくつもの魔物と戦ってきた。

 ゴブリン。ロットウルフ。ホブゴブリン。

 エレメズとの戦いでは、アルトと力を合わせて、ようやく勝利をつかんだ。

 あの戦いで、俺は思い知ったはずだった。

 自分の力を過信してはいけない。

 相手の強さが分からないときほど、慎重にならなければならない。

 それでも、目の前の爪痕は、これまでの魔物とは違う恐怖を俺に抱かせた。

 相手の姿が分からない。

 大きさも、強さも、能力も分からない。

 なぜ森にいるのか。

 何を求めて歩いているのか。

 そもそも、俺たちにとって敵なのかどうかさえ分からない。

 ただ一つ、確かなことがあった。

 この爪痕を残した存在は、少なくとも俺たちが知っている森の住人ではない。

 そして、俺の背丈よりもずっと高い場所に、何の苦もなく傷を刻みつけている。

「今日はここまでだ」


 アルトが静かに告げた。

「これ以上は進まない。家に戻って、今後どうするか考えよう」

 俺はすぐに頷いた。

 正体の分からない相手を探すために、わざわざ森の奥へ進む理由はない。

 好奇心よりも、生き延びることが優先だ。

 俺たちは来た道を引き返し始めた。

 アルトは何度も足を止め、周囲を確認した。

 俺も耳を澄ませ、風に乗ってくる匂いを探った。

 けれど、何も見つからなかった。

 新たな足跡も、鳴き声も、近づいてくる気配もない。

 まるで、最初から何もいなかったかのようだった。

 そのことが、かえって不気味だった。

 森は静かだった。

 あまりにも、静かすぎた。

 ◇◇◇

 森の奥。

 人の足がほとんど踏み入らない、木々の密集した一角。

 そこには、風に揺れる葉の音しかなかった。

 鳥は鳴かず、小動物も姿を見せない。

 ただ、何かが通り過ぎた痕跡だけが、森の中に残されていた。

 幹に刻まれた深い傷。

 踏み固められた土。

 草の上に残る、見慣れない足跡。

 その痕跡は、確かに何者かがここにいたことを示していた。

 しかし、その姿を見た者はいない。

 何者なのか。

 どこから来たのか。

 なぜ、この森に現れたのか。

 森は何も語らなかった。

 ただ、木々の隙間を抜けた風が、誰もいないはずの場所で、かすかに音を立てた。 

◇◇◇

 家に戻ってからも、アルトの表情は晴れなかった。

 彼は弓を壁に立てかけ、椅子に腰を下ろした。

 それから腕を組み、じっと考え込んでいる。

 俺はその足元に座り、彼の様子を窺った。


「二本足で立つ獣、か……」


 アルトは独り言のように呟いた。

「今までにも、見たことのない魔物が森に現れたことはあった。けど、あんな爪痕は初めてだ」

 彼は窓の外へ目を向けた。

 いつもと変わらない森が、そこには広がっている。

「それに、あの傷が本当に新しいものなら、まだ近くにいる可能性もある」

 俺の耳がぴくりと動いた。

 まだ近くにいる。

 その言葉が、胸の奥に重く沈んだ。

 この家は森の中にある。

 それは、ここで暮らし始めてから一度も変わらない事実だった。

 森には危険がある。

 だから周囲に気を配り、無理をせず、危険な相手とは距離を取る。

 そうやって、俺たちは暮らしてきた。

 だが、もし今まで知らなかったほどの存在が、この森をうろついているのだとしたら。

 今までのやり方だけでは、足りないかもしれない。

「とりあえず、しばらくは森の奥へ行かないようにしよう。狩りも家の近くで済ませる。少しでも変だと思ったら、すぐに引き返すぞ」

 アルトは俺に視線を向けた。

「いいな?」

 俺は力強く頷いた。

「よし。頼りにしてるぞ」

 そう言って、アルトは俺の頭を撫でた。

 いつもと変わらない、温かな手つきだった。

 その感触に、張り詰めていた気持ちがほんの少し緩む。

 俺たちは一緒に暮らしてきた。

 森で狩りをし、食事を分け合い、失敗すれば笑い合い、少しずつできることを増やしてきた。

 この家は、俺にとって帰る場所になった。

 そして、アルトは――俺が失いたくない存在になっていた。

 だからこそ、守りたい。

 アルトとの暮らしを。

 この家を。

 何気なく過ぎていく、穏やかな時間を。

 かつての俺は、誰かと関わることを恐れていた。

 信じれば傷つく。

 手を差し伸べれば、いつか自分が苦しむ。

 そう思って、人との間に壁を作っていた。

 けれど今は、違う。

 アルトと過ごす日々が、少しずつ俺を変えてくれた。

 守りたいものができたからこそ、失うことが怖い。

 それでも――守りたいと思えるものがあることを、俺は嬉しく感じていた。

 俺は窓の外へ目を向けた。

 夕暮れの光が、木々の隙間から差し込んでいる。

 いつもなら、安心できる景色だった。

 今は、その奥に何かが潜んでいるように思えてならない。

 あの爪痕を残した存在は、今も森のどこかを歩いているのだろうか。

 それとも、俺たちが知らないだけで、ずっと前からこの森にいたのだろうか。

 答えはない。

 俺は耳を澄ませた。

 風が葉を揺らす音。

 遠くで枝が軋む音。

 それ以外には、何も聞こえない。

 けれど、あの爪痕を見たときの感覚は、まだ消えていなかった。

 森の何かが、変わり始めている。

 そして俺たちはまだ、その異変の正体を知らない。

 ――この穏やかな日々が、いつまで続くのかも。

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