第十二話 森に現れた人影
森が静かになってから、数日が過ぎた。
俺たちは、あの日以来、森の奥へ足を踏み入れるのを避けていた。
以前なら、アルトが獲物の足跡を見つければ迷わず追いかけ、俺もその後をついていった。狩り場を変えることもあれば、普段より遠くまで足を延ばすこともあった。
今は違う。
見慣れない足跡があれば立ち止まり、木々の間に不自然な傷がないか確かめる。鳥の声が途切れれば耳を澄まし、風向きが変われば鼻先を持ち上げる。
慎重になった。
そう言えば聞こえはいい。
だが、正直に言えば、落ち着かないだけだった。
この森で暮らし始めて一年。
最初の頃は、思うように動かない身体に何度も苛立った。獲物を追いかけては逃げられ、木の根につまずき、ようやく捕まえたと思えば反撃される。
そんな失敗を繰り返しながら、俺は少しずつ、この身体で生きる方法を覚えてきた。
風に混じる匂いから獲物の位置を探り、かすかな物音から周囲の様子を読み取る。危険を感じれば無理に戦わず、退くべきときには退く。
いつしか、この森は単に生き延びるための場所ではなくなっていた。
アルトと暮らす家がある。
帰りを待つ相手がいる。
明日も同じように過ごせると信じられる日々がある。
だからこそ、そこへ入り込んだ小さな異変が、どうしても気になった。
――何かがいる。
あの爪痕を見つけてから、その考えが頭から離れなかった。
「おい。そっちじゃないぞ」
不意に声をかけられ、俺は顔を上げた。
考え事をしているうちに、アルトから少し離れてしまったらしい。
彼は呆れたように笑い、手招きした。
「ぼーっとしてると、また置いていくぞ」
誰のせいで、こんなに警戒していると思っているんだ。
そう言い返したいところだが、俺の口から出るのは唸り声だけだ。
「はいはい。言いたいことは分かったよ」
絶対に分かっていない。
俺は鼻を鳴らし、アルトの隣へ戻った。
こうしたやり取りも、すっかり日常になっていた。
そのはずなのに。
今日の森は、やはり何かがおかしかった。
木々の隙間から差し込む日差しは穏やかで、風も強くない。空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。
天気だけなら、狩りには絶好の日だ。
それなのに、森の中は妙に静かだった。
鳥の声が少ない。
小動物の気配も薄い。
まるで森に暮らす生き物たちが、何かを恐れて息を潜めているかのようだった。
「……やっぱり、おかしいな」
アルトが足を止めた。
俺も耳を立てる。
風が葉を揺らす音。
遠くで枝が軋む音。
それだけだった。
アルトは、しばらく黙って周囲を見回した。
狩人として森を歩いてきた彼には、俺とは違う見方がある。
俺が匂いや音の違和感を拾うのに対し、アルトは木々の様子や地面の状態、獣たちの動きから森の変化を読み取る。
そのアルトが、ここ数日、何度も同じように足を止めていた。
つまり、彼も気づいているのだ。
森から何かが失われていることに。
そのとき――。
ガサッ。
前方の茂みが揺れた。
俺の身体が、考えるより先に反応した。
前脚で地面を踏みしめ、重心を低くする。耳を前へ向け、茂みの奥を睨みつけた。
アルトも瞬時に動いた。
弓を手に取り、矢筒から一本を抜く。
「……誰だ?」
返事はない。
茂みの向こうに、何かがいる。
風で揺れただけかもしれない。
小動物が通り過ぎただけかもしれない。
だが、あの爪痕を見た今、そんな都合のいい想像を信じる気にはなれなかった。
アルトは矢をつがえず、すぐに構えられる位置で手を止めていた。
刺激せず、油断もしない。
何度も森で生き延びてきた人間の動きだった。
俺は唸り声を喉の奥に押し込める。
姿を確認するまでは動くな。
相手が何者なのか分からないうちに飛びかかれば、こちらが不利になる。
それは、アルトから何度も教わったことだ。
やがて、茂みの奥から足音が聞こえてきた。
ザッ。
ザッ。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
そして――。
茂みが大きく揺れた。
「……あれ?」
姿を現したのは、一人の人間だった。
俺は、ほんの少しだけ拍子抜けした。
そこに立っていたのは、二十代後半くらいに見える男だった。
くすんだ色の上着に、動きやすそうなズボン。服には土や草がついているものの、破れた様子はない。髪は少し乱れていたが、目立った怪我も見当たらなかった。
どこにでもいそうな、旅人風の男。
少なくとも、見た目だけならそうだった。
男は俺たちを見て、意外そうに目を見開いた。
「おや。こんなところに人がいるとは思わなかった」
穏やかな声だった。
男はアルトを見て、それから俺へ視線を移した。
「それに、狼までいるとはね」
まるで道端で珍しい動物を見つけたかのような口調だった。
俺は警戒を解かなかった。
なぜ、こんな場所に人間がいる?
この辺りは、アルトですら普段は避けている森の奥だ。道らしい道もなく、森に慣れていない人間が気軽に入り込めるような場所ではない。
そして、この森には、正体の分からない何かがいるかもしれないのだ。
「この辺りで何をしている?」
アルトが尋ねた。
声は落ち着いていたが、弓を持つ手は下がっていない。
男は一瞬だけ、その手元に視線を落とした。
それから、困ったように笑った。
「少し道に迷ってしまってね。森を抜けようとしていたんだが、どうにも方向が分からなくなってしまった」
「道に迷った?」
「ああ。気がついたら、ずいぶん奥まで来ていたらしい」
男は頭を掻いた。
仕草に不自然なところはない。
声も、表情も、身振りも。
どこからどう見ても、森で道に迷った人間だった。
それなのに、俺の中では警戒心が消えなかった。
男が嘘をついている証拠はない。
しかし、本当のことを言っていると信じる理由もなかった。
「……一人で来たのか?」
「そうだよ」
「この辺りに来るのは初めてか?」
「うん。だから、少し困っていたんだ」
男はあっさりと答えた。
あまりにも自然な受け答えだった。
アルトはすぐに返事をせず、男の姿を静かに観察していた。
俺も、男の足元へ視線を落とす。
靴には泥がつき、草の種がいくつか付着している。確かに、森の中を歩いてきたようだ。
だが、妙だった。
男の息は、ほとんど乱れていない。
森の奥から歩いてきたにしては、妙に落ち着いている。
それに、俺たちを見つけたときも、驚きこそしたものの、慌てた様子はなかった。
こんな場所で武装した人間と狼に出くわせば、普通ならもう少し警戒するのではないだろうか。
……いや。
考えすぎかもしれない。
男が森に慣れている可能性もあるし、単に肝が据わっているだけかもしれない。
俺は頭を振った。
今は、疑うことよりも観察することだ。
何かおかしいと思うなら、何がおかしいのかを見極めなければならない。
「町へ戻るつもりなら、こっちだ。途中までは案内できる」
アルトが言った。
男は、ほっとしたように息を吐いた。
「それは助かる。ありがとう」
「ただ、この辺りは危ない。あまり奥へ入らないほうがいい」
「危ない?」
男が首を傾げる。
「ああ。少し前に妙な痕跡を見つけてな。何がいるのかは分からないが、念のため警戒しているんだ」
男は黙った。
ほんの一瞬だった。
その目から、笑みが消えたように見えた。
けれど、次の瞬間には、また穏やかな表情に戻っていた。
「なるほど。それは気をつけないと」
男は森の奥へ目を向けた。
そして、世間話でもするような口調で言った。
「でも、こんなに静かな森なら、危険なものが近くにいても不思議じゃないね」
俺の耳が、ぴくりと動いた。
静かな森。
その言葉が、妙に引っかかった。
俺たちが感じていた違和感。
鳥の声が消え、小動物の気配が薄れた森。
男も、それに気づいている。
森を歩いていれば誰でも気づくことなのかもしれない。
だが、なぜだろう。
男の言葉には、何かを確かめるような響きがあった。
「……この森には、よく来るのか?」
アルトが尋ねた。
男は首を横に振った。
「いや、初めてだよ。だからこそ、道に迷ってしまったんだろうね」
そう言って、男は笑った。
何の変哲もない、穏やかな笑顔だった。
アルトはしばらく男を見つめていた。
やがて、弓を少しだけ下ろす。
「そうか。なら、ついてきてくれ。俺も森の奥へ行くつもりはない。途中までなら案内できる」
「助かるよ」
男は軽く頭を下げた。
こうして俺たちは、三人で森を歩き始めた。




