第十三話 月下の魔物
森の異変は、まだ終わっていなかった。
昼間、森で出会った男を入口近くまで案内してから、俺たちは家へ戻った。
結局、あの男が何者だったのかは分からない。
道に迷ったと言っていたが、本当にそうだったのかも怪しい。森を歩き慣れているような足取り。こちらを観察するような目。そして、夜の森について尋ねてきたこと。
どれも決定的な証拠にはならない。
それでも、俺の中に残った違和感は消えなかった。
「……気にしすぎか?」
寝床に横たわり、俺は窓の外へ目を向けた。
木々の隙間から、白い月が覗いている。
明日は、いつもどおり狩りに出る。
アルトと一緒に森を歩き、獲物を探し、家に帰る。
そんな日常が、明日も続く。
そう思っていた。
この夜が、俺たちの運命を変えることになるとも知らずに。
◇◇◇
――ガサッ。
かすかな物音が、夜の静寂を破った。
俺は目を開けた。
聞き間違いではない。
窓の外から、何かが地面を踏む音が聞こえる。
ザッ。
ザッ。
一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。
俺は音を立てないように立ち上がり、耳を澄ませた。
獣の足音にしては重い。
だが、人間にしては妙に静かだった。
足場の悪い森を歩いているはずなのに、枝を踏み折る音も、草をかき分ける音もほとんどしない。
まるで、こちらに気づかれないよう歩いているかのようだった。
そのとき、隣の部屋から物音がした。
「……起きてるか?」
アルトの声だ。
俺は短く鳴き、返事をする。
「ああ。俺も聞こえた」
アルトはすでに弓を手にしていた。
いつもの気楽な表情はない。窓のそばに身を寄せ、外の様子を慎重にうかがっている。
俺も床に爪を立て、いつでも動けるように身構えた。
やがて、足音が止まった。
家のすぐ外。
扉を一枚隔てた向こう側だ。
沈黙が続いた。
俺たちは動かなかった。
相手が何者なのか分からない以上、こちらから不用意に接触する理由はない。
すると。
「……ここにいたのか」
聞き覚えのある声がした。
俺の耳が、ぴくりと動いた。
昼間の男だ。
間違いない。
落ち着いた声も、言葉の間の取り方も、あのときと同じだった。
だが、なぜだ?
森の入口まで案内したはずだ。あのまま町へ向かったのなら、こんな時間に戻ってくる理由がない。
それに、どうして俺たちの家を知っている?
「誰だ?」
アルトが扉越しに問いかけた。
「昼間、森で会った者だよ。少し話がしたくてね」
「話なら明日にしてくれ。もう遅い」
アルトは扉を開けなかった。
当然だ。
こんな夜更けに、素性も分からない相手を簡単に家へ入れるわけにはいかない。
外の男は、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で答えた。
「……そうか」
そこで一度、言葉が途切れた。
「なら、仕方ないな」
声色そのものは、昼間と変わらない。
怒っているようにも、焦っているようにも聞こえなかった。
ただ――。
俺には、その言葉が妙に冷たく感じられた。
次の瞬間。
ミシッ。
扉の向こうから、木材が軋む音が響いた。
何かが、扉に手をかけたのか。
そう思った直後、今度は低い唸り声が聞こえた。
グルルルル……。
腹の底に響くような、重い音。
俺の全身の毛が逆立った。
これは、普通の獣の唸り声ではない。
アルトも同じことを感じたのだろう。弓を握る手に力がこもった。
「……おい。あんた、何をしている?」
返事はなかった。
代わりに、扉の向こうから再び軋む音が聞こえた。
ギシッ。
ギギギッ。
まるで、扉そのものが内側から押し潰されそうになっている。
俺は一歩、後ろへ下がった。
そして――。
バキンッ!
扉が、内側へ大きく歪んだ。
木材が裂ける音が響く。
アルトが息を呑んだ。
「下がれ!」
その声と同時に、俺たちは左右へ飛び退いた。
直後、扉が吹き飛んだ。
砕けた木片が床を跳ね、夜の冷気が家の中へ流れ込む。
月明かりを背に、一人の男が立っていた。
いや。
正確には、そこにいたのは、もう昼間の男とは呼べない何かだった。
男の身体が、ゆっくりと変わり始めた。
肩が膨らみ、腕が長く伸びる。背骨がしなるように動き、全身の輪郭が大きく変わっていく。
指先からは鋭い爪が伸び、顔は獣のそれへと変わっていった。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出してもおかしくない光景だ。
だが、目の前の存在は違った。
変身の最中でさえ、俺たちから視線を外さなかったのだ。
まるで、俺たちがどんな反応をするのか、観察しているかのように。
やがて変化が止まった。
そこに立っていたのは、人間のように二本の足で立つ、巨大な狼の魔物だった。
暗い毛並みに覆われた身体は、アルトよりも頭ひとつ、いや、それ以上に大きい。
長い腕の先には、月光を受けて鈍く光る爪。
鋭い牙が並ぶ口元からは、白い息が漏れていた。
そして、その双眸には、人間の姿だった頃と同じ知性が残っていた。
人狼。
俺の頭に、その言葉が浮かんだ。
人の姿を取りながら、獣へと変わる存在。
それが目の前にいる。
だが、何より恐ろしかったのは、変身したことそのものではなかった。
この巨体から、無駄な動きが一切感じられないことだ。
大きな身体を持つ獣なら、重心がぶれたり、動きに隙ができたりする。
しかし、人狼は違った。
足を置く位置。
肩の傾き。
爪を伸ばした腕の角度。
そのすべてが自然で、無駄がなかった。
ただ立っているだけなのに、どこへ逃げても追いつかれるような圧迫感がある。
俺は、本能的に理解した。
こいつは、今まで出会ってきた魔物とは違う。
まともに戦って勝てる相手ではない。
「……やはり、夜のほうが動きやすい」
人狼が口を開いた。
低く、ざらついた声。
だが、そこには確かな言葉の響きがあった。
俺は耳を疑った。
変身しても、理性を失っていない。
それどころか、昼間と同じように落ち着いて話している。
「お前……いったい何者だ?」
アルトが問いかけた。
人狼は、ゆっくりと首を傾けた。
「何者、か」
まるで、その質問の意味を考えるように、しばらく黙り込む。
「お前たちに説明する必要があるのか?」
その返答に、アルトの眉が動いた。
「俺たちの家を壊しておいて、説明する必要がないと?」
「家?」
人狼は、壊れた扉をちらりと見た。
「……ああ。そういえば、壊してしまったな」
まるで、道端の小枝でも折ったかのような口調だった。
悪びれる様子も、申し訳なさそうな素振りもない。
それどころか、次の瞬間には、もう扉のことなど忘れたように俺たちを見ていた。
「まあ、今はそれどころではない」
人狼の鼻先が、わずかに動いた。
空気を嗅いでいる。
そして、その視線が俺へ向いた。
「……いい匂いだ」
背筋が凍った。
昼間、男が俺を見たときのことが脳裏をよぎる。
あのときも、こいつは俺をじっと見つめていた。
ただの狼を珍しがっているのだと思っていた。
違ったのかもしれない。
人狼は一歩、こちらへ近づいた。
床板が、低く軋む。
「久しぶりに、腹が満たせそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
こいつは、俺たちを襲いに来たのだ。
恨みがあるわけでも、何かを奪いに来たわけでもない。
ただ、俺たちを獲物として見ている。
それだけだ。
「……おい。ふざけるなよ」
アルトが弓を構えた。
「人を襲うつもりなら、黙って見ているわけにはいかない」
人狼は、アルトの弓を見た。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「そうか」
たった、それだけだった。
威嚇もしない。
怒りもしない。
ただ、アルトが抵抗することを受け入れた。
「なら、まずはお前からだ」
人狼の姿が、消えた。
「――ッ!」
俺が反応したときには、もう遅かった。
人狼は、アルトの目の前にいた。
巨大な腕が振り下ろされる。
アルトは横へ跳んだ。
直後、爪が床をえぐった。
木片が弾け飛び、床板に深い傷が刻まれる。
もし直撃していたら。
考えるだけで、身体が強張った。
アルトは距離を取りながら、弓を引き絞った。
狙いは頭部。
放たれた矢が、一直線に人狼へ飛ぶ。
しかし、人狼は避けなかった。
ほんの少し、顔を傾けただけだった。
矢は頬をかすめ、背後の壁へ突き刺さった。
「……なっ」
アルトの声が漏れる。
俺も信じられなかった。
矢の軌道を見切ったのか。
それとも、最初から当たらないと分かっていたのか。
人狼は、頬に触れようともしなかった。
「いい腕だ」
淡々とした声だった。
「だが、俺を狩るには足りない」
次の瞬間、人狼の身体が沈んだ。
俺は叫ぶ間もなかった。
巨体が地面を蹴り、アルトへ迫る。
アルトはとっさに弓を盾のように構えた。
鈍い衝撃音。
弓が大きくしなり、アルトの身体が後方へ弾き飛ばされた。
「アルト!」
俺は地面を蹴った。
考えるより先に、身体が動いていた。
人狼の腕へ飛びかかり、牙を突き立てる。
硬い。
毛皮の下にある筋肉は、まるで岩のようだった。
それでも、俺は牙を食い込ませようと力を込めた。
「……邪魔だ」
人狼が、こちらを見た。
その目に、苛立ちはなかった。
俺の攻撃を、ただの邪魔な動きとして認識しただけ。
次の瞬間、腕が振られた。
「ガッ……!」
俺の身体が宙を舞い、壁にぶつかった。
息が詰まる。
視界が揺れ、足に力が入らなくなった。
それでも、俺は歯を食いしばって立ち上がった。
倒れている場合じゃない。
アルトを守らなければ。
この一年、俺はずっとアルトと一緒に暮らしてきた。
狩りを教えてくれた。
言葉を教えてくれた。
人間の世界について、いろいろなことを話してくれた。
俺がこの世界で生きていくための場所を与えてくれた。
そんな相手を、目の前で失うわけにはいかない。
俺は低く唸り、再び人狼へ向き直った。
人狼は、こちらを見下ろしていた。
「まだ立つのか」
感心したような声だった。
しかし、そこに称賛はない。
「小さい身体で、よく動く」
人狼はゆっくりと腕を持ち上げた。
「だが――」
その姿が、再びぶれた。
今度は、俺が狙われた。
爪が迫る。
俺は横へ跳んだ。
間一髪、直撃を避ける。
だが、人狼の腕は、俺が着地する場所をすでに塞いでいた。
「なっ……!」
逃げ道がない。
俺はとっさに身体を丸めた。
衝撃。
地面を転がり、木の根元でようやく止まる。
痛みで息が乱れた。
それでも、致命傷は避けられた。
だが、それは俺が強かったからではない。
人狼が、俺を一撃で仕留めようとしていなかったからだ。
その事実に気づいた瞬間、背筋が冷たくなった。
こいつは、俺たちを倒すために全力を出していない。
遊んでいるわけでもない。
ただ、狩りをしているのだ。
獲物が逃げるなら追う。
抵抗するなら押さえ込む。
仕留められると判断したときに、牙を立てる。
それだけのことなのだ。
「アルト! 逃げろ!」
俺は叫ぶように吠えた。
アルトはすでに立ち上がっていた。
額に汗が浮かび、呼吸も乱れている。それでも、弓を握る手は離していなかった。
「お前を置いていけるかよ!」
アルトが矢をつがえる。
今度は、人狼ではなく、その足元を狙った。
矢が地面へ突き刺さる。
人狼は一瞬だけ視線を落とした。
その隙に、アルトが距離を取る。
俺もすぐに立ち上がり、彼の隣へ走った。
わずかな時間を稼いだだけだ。
それでも、今はそれで十分だった。
「外へ出るぞ!」
アルトが叫んだ。
俺は頷き、壊れた扉へ向かって走る。
背後から、重い足音が迫ってきた。
速い。
振り返る余裕もない。
俺たちは家を飛び出し、月明かりの差す森へ駆け込んだ。
冷たい夜風が毛並みを揺らす。
頭上には、白い月が浮かんでいた。
その光の下で、人狼がゆっくりと姿を現した。
逃げる俺たちを追いかけてきたというのに、息ひとつ乱れていない。
まるで、最初から俺たちが逃げ切れるとは思っていなかったかのようだった。
「……いい月だ」
人狼が空を見上げた。
その言葉に、俺は違和感を覚えた。
昼間は人間の姿だった。
夜になり、月が昇ったあと、あいつは変身した。
偶然なのか。
それとも、月が何か関係しているのか。
考えたいことは山ほどあった。
だが、今はそんな余裕などない。
人狼が、こちらを向いた。
「さて」
低い声が、夜の森に響く。
「続きといこうか」
アルトが弓を構える。
俺は彼の前へ出て、牙を剥いた。
恐怖で足が震えそうになる。
それでも、退くわけにはいかなかった。
目の前の存在は、俺たちとは違う。
力も、速さも、経験も。
何もかもが、こちらの想像を超えている。
それでも。
俺の後ろには、アルトがいる。
俺を助けてくれた人間がいる。
この世界で、初めて俺に居場所をくれた人間がいる。
だから、守る。
たとえ、相手がどれほど強くても。
人狼は俺たちを見つめていた。
その瞳に、憎しみはない。
怒りもない。
あるのは、飢えた獣の本能と、それを理解したうえで動く冷静な知性だけだった。
人間の姿をしていた頃から、こいつは何も変わっていなかったのかもしれない。
ただ、夜が来るのを待っていただけで。
森を覆う月明かりの下、俺たちと人狼の戦いが始まった。




