第十四話 最後の選択
月明かりの下、金色の人狼が俺たちを見下ろしていた。
その姿は、恐ろしいほど美しかった。
夜風に揺れる金色の毛並み。首から肩にかけて広がる、たてがみのような長い毛。そして、しなやかさと強靭さを兼ね備えた巨体。
二本の足で大地を踏みしめ、長い腕をゆったりと垂らしている。その指先には、月光を受けて鋭く輝く爪があった。
そして、何より目を引くのは、その瞳だった。
黄金。
夜の闇に浮かぶ二つの月のような双眸が、俺たちを捉えている。
そこには、獣の本能だけでは説明できない知性があった。
俺たちを見ている。
いや、違う。
観察しているのだ。
どこへ逃げるのか。どう抵抗するのか。どちらから先に倒れるのか。
まるで、俺たちがどうあがくのかを確かめているようだった。
その視線を受けた瞬間、俺は理解した。
こいつにとって、俺たちは対等な相手ではない。
敵ですらないのかもしれない。
ただの獲物だ。
「……来るぞ!」
アルトの声が夜の森に響いた。
次の瞬間、金色の巨体が地面を蹴った。
速い。
そう認識したときには、もう目の前に迫っていた。
俺は反射的に横へ跳ぶ。
直後、鋭い爪が地面をえぐった。
土が舞い、木の根が裂ける。
まともに受けていたら、俺の身体など簡単に引き裂かれていただろう。
だが、人狼は俺に追撃しなかった。
着地と同時に身体をひねり、視線をアルトへ向ける。
最初から、二人とも逃がすつもりはない。
「くそっ!」
アルトが弓を引き絞った。
放たれた矢が、夜気を切り裂いて人狼の顔へ飛ぶ。
しかし、金色の魔物は頭をわずかに傾けただけだった。
矢は頬の毛をかすめ、背後の闇へ消えていく。
「……今のを避けるのかよ」
アルトの声に、かすかな驚きが混じった。
それでも、彼は次の矢を手に取る。
狩人であるアルトは、ただ闇雲に攻撃するような人間ではない。
相手がどこへ足を置くのか。攻撃の直前にどこが動くのか。何を狙い、どうすれば隙が生まれるのか。
森で生き残るため、父親から教わった技術だ。
以前、エレメズと戦ったときもそうだった。
アルトは敵の動きを観察し、俺の動きに合わせて勝機を探していた。
今回も同じだ。
彼は人狼の一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
その視線に気づいたのか、人狼が感心したように声を漏らした。
「なるほど。お前は、よく相手を見るのだな」
「……だったら何だ?」
「いや。狩人というものに興味が湧いただけだ」
人狼は、ゆっくりと首を傾けた。
「獲物の動きを読み、弱点を探し、自分より強い相手にも知恵で立ち向かう。なるほど、確かに面白い」
金色の瞳が細められる。
「だが、相手もお前を観察しているとしたら?」
嫌な予感がした。
「アルト、離れろ!」
俺が吠えた瞬間、アルトは地面を蹴った。
直後、人狼の腕が伸びる。
先ほどまでアルトが立っていた場所を、鋭い爪が通り過ぎた。
避けた。
確かに、アルトは攻撃を避けたはずだった。
しかし、人狼の腕は途中で軌道を変えた。
「そこだ」
低い声が落ちる。
長い腕が、逃げたアルトを追った。
「なっ……!」
アルトは弓を身体の前へ差し込んだ。
鈍い衝撃音が響く。
弓が大きくしなり、アルトの身体が後方へ吹き飛ばされた。
「アルト!」
俺は考えるより先に地面を蹴っていた。
人狼の腕へ飛びかかり、牙を突き立てる。
硬い。
毛皮の下にある筋肉は、まるで岩のようだった。
それでも、俺は必死に食らいついた。
離れろ。
アルトから離れろ!
頭の中には、それしかなかった。
「……しつこい獣だ」
人狼が腕を振るう。
俺の身体は、あっけなく宙へ放り出された。
地面を転がり、木の根元にぶつかる。
肺から空気が抜けた。
視界が揺れる。
身体のあちこちが痛み、立ち上がろうとしても脚に力が入らなかった。
それでも、俺は顔を上げた。
人狼は追撃してこなかった。
ただ、倒れたアルトを見ている。
まるで、次にどちらを仕留めるべきか考えているようだった。
俺は歯を食いしばり、前脚に力を込めた。
立て。
立てよ。
ここで倒れてどうする。
この一年、何度も失敗した。
獲物を追いかけては逃げられ、足を滑らせ、木の根につまずき、情けない思いを繰り返してきた。
それでも、アルトは俺を見捨てなかった。
失敗すれば笑い、うまくいけば褒めてくれた。
どうすれば獲物を捕らえられるのか。どうすれば森で生き残れるのか。俺が知らないことを、一つずつ教えてくれた。
あいつがいたから、俺はここまで生きてこられた。
なら、今度は俺が守る番だ。
「……っ」
アルトが苦しそうに息を漏らした。
彼は地面に手をつき、なんとか起き上がろうとしていた。
手には、ひびの入った弓が握られている。
それでも、彼は弦が切れていないことを確かめると、矢をつがえた。
俺は短く吠えた。
もういい。
逃げよう。
勝てない相手だと、もう分かっているはずだ。
だが、アルトは俺を見なかった。
「……まだだ」
短い言葉だった。
いつもの気楽な口調ではない。
それでも、声に迷いはなかった。
「まだ、何かできる」
アルトは人狼から目を離さず、周囲を確認していた。
木々の位置。地面の傾斜。足元に張り出した根。逃げ道になりそうな場所。
森で暮らしてきた経験を総動員して、勝つための方法を探している。
俺も周囲を見回した。
木々を利用できれば、少しは動きを制限できるかもしれない。
足場の悪い場所へ誘い込めば、速度を落とせるかもしれない。
だが、そんな考えはすぐに打ち砕かれた。
人狼は、俺たちが何を考えているのか知っているかのように、木々の位置も、地面の状態も、すでに把握しているように見えた。
あいつにとって、この森は障害物ではない。
狩場なのだ。
そして俺たちは、その狩場に迷い込んだ獲物にすぎなかった。
「……なあ、人狼」
アルトが口を開いた。
「お前、俺たちを食うつもりなんだろ?」
「そうだが?」
人狼は、あっさりと答えた。
「なら、俺を追ってこい」
「アルト!」
思わず吠えた。
何を言っているんだ。
まさか、自分を囮にするつもりなのか。
アルトは矢をつがえたまま、森の奥へ一歩下がった。
「そっちの狼より、俺のほうが狩りやすいんじゃないか?」
人狼は、しばらくアルトを見つめていた。
やがて、その口元がわずかに持ち上がる。
「自分を餌にして、仲間を逃がすつもりか」
「……さあな。どう思う?」
「悪くない考えだ」
人狼はあっさりとうなずいた。
「だが、一つ間違えている」
その金色の瞳が、俺へ向く。
「俺は、どちらか一方しか狩れないほど不器用ではない」
次の瞬間、金色の巨体が地面を蹴った。
アルトが矢を放つ。
狙いは頭ではない。
足元だった。
矢が地面へ突き刺さる寸前、人狼は身体をひねって軌道を変えた。
矢は足をかすめることさえなく、後方へ抜けていく。
そのわずかな隙に、アルトが横へ走った。
俺も反対側へ飛び出す。
二方向からの攻撃。
狩りの中で、何度も試してきた連携だった。
俺が注意を引きつけ、アルトが隙を突く。
エレメズとの戦いでも、俺たちは互いの動きを合わせることで、ようやく勝機をつかんだ。
今回も、それしかない。
俺は低く唸りながら、人狼の脚へ飛びかかった。
人狼の視線が俺を捉える。
その瞬間、アルトの矢が放たれた。
今度こそ、隙を突いた。
そう思った。
しかし、人狼は俺の攻撃を受け流しながら、身体を半回転させた。
俺の牙が金色の毛をかすめる。
アルトの矢は、人狼の肩を狙って飛んでいた。
だが、その身体はすでに矢の軌道から外れていた。
矢が通り過ぎる。
人狼は着地すると同時に、アルトへ向かって走り出した。
まるで、最初から矢の軌道まで読んでいたかのように。
「くそっ!」
アルトは次の矢をつがえようとした。
間に合わない。
俺は全力で走った。
だが、遠い。
人狼のほうが、圧倒的に速い。
「アルト!」
俺の吠え声が夜の森に響く。
アルトは身をひねった。
致命的な一撃は避けた。
しかし、鋭い爪が腕をかすめ、服が裂ける。
アルトの身体がよろめいた。
その隙を、人狼は見逃さなかった。
振り下ろされた腕が、アルトの胸元を打つ。
鈍い衝撃音。
アルトの身体が地面へ叩きつけられた。
時間が止まったように感じた。
俺は走った。
ただ、走った。
目の前にいる敵がどれほど強いのかも、自分の身体がどれほど傷ついているのかも、もう考えられなかった。
アルトのそばへ駆け寄り、鼻先で肩を押す。
起きろ。
頼むから、起きてくれ。
アルトは苦しそうに息をしていた。
「……っ、は……」
呼吸のたびに顔が歪む。
それでも、彼は俺を見て、無理に笑おうとした。
「……悪い。ちょっと、しくじった」
そんなことを言うな。
俺は首を横に振った。
謝るな。
お前は何も悪くない。
俺が弱いからだ。
俺が、こいつに勝てないからだ。
俺はアルトの前へ立ち、人狼に向かって牙を剥いた。
脚が震えている。
息も乱れている。
もう一度攻撃を受ければ、今度こそ立ち上がれないかもしれない。
それでも、退くつもりはなかった。
俺が倒れたら、アルトがやられる。
だから、立つ。
何度でも。
「……まだ、やるのか」
人狼が足を止めた。
金色の瞳が、俺を見下ろしている。
「お前も、ずいぶんと執念深い」
俺は低く唸った。
言葉なんて分からなくてもいい。
こいつに伝えたいことは、一つだけだ。
アルトには、指一本触れさせない。
人狼はしばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……なら、先にお前を仕留めるとしよう」
人狼が一歩、踏み出した。
俺は身構えた。
その瞬間だった。
「……もういい」
背後から、アルトの声が聞こえた。
俺は振り返った。
アルトは片腕で身体を支え、なんとか上半身を起こしていた。
顔色は悪い。
呼吸も乱れている。
それでも、その目は俺をまっすぐ見ていた。
「……お前、もう十分だ」
俺は首を横に振った。
違う。
まだ終わっていない。
俺は戦える。
まだ、立っていられる。
だから、そんなことを言うな。
「……頑固な奴だな」
アルトが小さく笑った。
いつもの、少し呆れたような笑みだった。
「お前に助けられるなんて、思ってもみなかったよ」
俺は彼のそばへ戻った。
アルトは震える手を伸ばし、俺の頭をなでた。
「ありがとな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
やめてくれ。
まるで、別れの挨拶みたいじゃないか。
◇◇◇
アルトは、怖かった。
死ぬことが。
当たり前だ。
まだ十八年ほどしか生きていない。
父親を失ってからは、一人で暮らしてきた。狩りをして、町で素材を売り、どうにか日々をつないできた。
いつか森の外へ出て、父親が見た景色を自分の目で見たい。
知らない土地を歩き、知らない人々と出会い、地図に記された場所を一つずつ訪ねてみたい。
その夢は、決して大きなものではなかった。
ただ、今の自分には遠すぎた。
魔法への抵抗力が低く、身体も丈夫とは言えない。長い旅に出るには、まだ足りないものが多すぎる。
だから、いつか。
いつか準備が整ったら。
そう思っていた。
その「いつか」が、本当に来るのかどうかさえ分からないまま。
それでも、彼には帰る家があった。
森の中の、小さな木造の家。
そして、そこへ帰ると、いつも灰色の狼がいた。
最初は、ただの魔物だと思っていた。
傷つき、弱り、まともに狩りもできない狼。
放っておけば死ぬかもしれない。だから助けた。
それだけだった。
けれど、狼は少しずつ変わっていった。
失敗しても諦めない。
何度転んでも立ち上がる。
こちらの言葉を理解し、話しかけると耳を動かし、嬉しいときには尻尾を振った。
時には、こちらの気持ちを見透かしたような顔をする。
人間ではない。
それでも、アルトにとっては、いつの間にか大切な相棒になっていた。
だからこそ、目の前で傷ついている姿を見るのはつらかった。
自分を守ろうとして、何度も立ち上がる姿を見るのは。
――もう、いいんだ。
アルトはそう言いたかった。
お前は、もう十分に頑張った。
これ以上、傷つかなくていい。
俺は、お前に生きていてほしい。
だが、言葉にすればするほど、胸の奥にある恐怖が形になってしまいそうだった。
自分が助からないことを、認めてしまいそうだった。
それでも、伝えなければならない。
この狼に、未来を残すために。




