第十四話最期の選択②
◇◇◇
アルトは、怖かった。
死ぬことが。
当たり前だ。
まだ十八年ほどしか生きていない。
父親を失ってからは、一人で暮らしてきた。狩りをして、町で素材を売り、どうにか日々をつないできた。
いつか森の外へ出て、父親が見た景色を自分の目で見たい。
知らない土地を歩き、知らない人々と出会い、地図に記された場所を一つずつ訪ねてみたい。
その夢は、決して大きなものではなかった。
ただ、今の自分には遠すぎた。
魔法への抵抗力が低く、身体も丈夫とは言えない。長い旅に出るには、まだ足りないものが多すぎる。
だから、いつか。
いつか準備が整ったら。
そう思っていた。
その「いつか」が、本当に来るのかどうかさえ分からないまま。
それでも、彼には帰る家があった。
森の中の、小さな木造の家。
そして、そこへ帰ると、いつも灰色の狼がいた。
最初は、ただの魔物だと思っていた。
傷つき、弱り、まともに狩りもできない狼。
放っておけば死ぬかもしれない。だから助けた。
それだけだった。
けれど、狼は少しずつ変わっていった。
失敗しても諦めない。
何度転んでも立ち上がる。
こちらの言葉を理解し、話しかけると耳を動かし、嬉しいときには尻尾を振った。
時には、こちらの気持ちを見透かしたような顔をする。
人間ではない。
それでも、アルトにとっては、いつの間にか大切な相棒になっていた。
だからこそ、目の前で傷ついている姿を見るのはつらかった。
自分を守ろうとして、何度も立ち上がる姿を見るのは。
――もう、いいんだ。
アルトはそう言いたかった。
お前は、もう十分に頑張った。
これ以上、傷つかなくていい。
俺は、お前に生きていてほしい。
だが、言葉にすればするほど、胸の奥にある恐怖が形になってしまいそうだった。
自分が助からないことを、認めてしまいそうだった。
それでも、伝えなければならない。
この狼に、未来を残すために。
◇◇◇
「……もう、無理みたいだな」
アルトの声が聞こえた。
俺は彼の顔を見た。
そんなはずがない。
まだ助かる。
何か方法があるはずだ。
俺はアルトの身体に鼻先を押しつけた。
立ってくれ。
頼むから。
もう一度、俺と一緒に家へ帰ってくれ。
明日になったら、また狩りに出よう。
帰ったら飯を食べて、いつものように過ごそう。
世界の話を、もっと聞かせてくれ。
知らない町のことも、見たことのない景色のことも。
まだ、何も聞き足りない。
まだ、何も返せていない。
「……聞いてくれ、相棒」
アルトの声が、かすかに震えた。
俺は顔を上げた。
「俺はさ……世界を旅してみたかったんだ」
知っている。
何度も聞いた。
父親が残した地図を広げては、いつか行きたい場所を指さしていた。
山々に囲まれた町。
海の向こうにある国。
人族以外の種族が暮らす土地。
地図の上では小さな文字でしかない場所を、アルトはまるで目の前にある景色のように語ってくれた。
その話を聞くのが、俺は好きだった。
知らない世界を知るたびに、俺の中にも新しい景色が増えていったから。
「でも、俺の身体じゃ……長旅は難しい」
アルトは苦しそうに息をついた。
「だから、いつか……誰かに見てきてもらえたらって、思ってた」
彼の手が、俺の頭に触れる。
温かい手だった。
俺を初めて家へ連れて帰った日から、ずっと変わらない。
「お前なら、行けるかもしれない」
俺は首を横に振った。
嫌だ。
そんな未来はいらない。
お前がいない世界を旅したって、何の意味があるんだ。
俺は、お前と一緒にいたい。
ただ、それだけなのに。
「……だから、頼みがある」
アルトは俺を見つめた。
その瞳に、迷いはなかった。
「俺を食べろ」
――理解できなかった。
言葉の意味は分かる。
それでも、心が受け入れようとしなかった。
俺は大きく首を横に振った。
できるわけがない。
アルトは、俺を助けてくれた。
生きる場所を与えてくれた。
言葉を教えてくれた。
この世界に来てから、初めて誰かと心を通わせることができた。
その相手を。
食べる?
そんなこと、できるはずがない。
「……お前なら、もしかしたら種族進化できるかもしれない」
アルトは、ゆっくりと言葉を続けた。
「確かなことは分からない。でも、今のままじゃ……あいつには勝てない」
彼の視線が、人狼へ向いた。
金色の魔物は、少し離れた場所で俺たちを見ていた。
その姿には、焦りも苛立ちもない。
夜風がたてがみを揺らし、月明かりが金色の毛並みを照らしている。
美しい姿だった。
だからこそ、恐ろしかった。
あいつは、俺たちがどれほど苦しんでいるのかを理解しているのだろう。
それでも、助けるつもりはない。
俺たちが何を選ぼうと、あいつにとっては大した違いではないのかもしれない。
「俺は、お前に生きてほしい」
アルトが言った。
「こんなところで終わってほしくないんだ」
俺は彼の顔を見つめた。
「……お前と過ごした一年、楽しかったよ」
胸が、強く締めつけられた。
俺もだ。
何もかもが初めてだった。
狩りも、食事も、言葉も。
この世界のことを知るたび、アルトは自分のことのように喜んでくれた。
俺が失敗すれば笑い、うまくできれば褒めてくれた。
時には、俺の反応を見て楽しそうに笑うこともあった。
昔の俺なら、きっと腹を立てていただろう。
誰かに笑われることが怖かった。
自分の失敗を知られることが嫌だった。
かつての俺は、誰かと関わることそのものを恐れていたからだ。
人を信じたところで、最後には裏切られる。
誰かを助けようとすれば、自分が傷つく。
そう思い込むようになったきっかけは、前世にあった。
学校で苦しんでいた友人を助けようとした。
自分にできることは何でもしようと思った。
けれど、いざ問題が大きくなると、友人は俺を置いていった。
教師に相談しても、まともに取り合ってもらえなかった。
結局、俺だけが取り残された。
あのとき、胸に残ったのは怒りだけではなかった。
信じた自分が馬鹿だったのだと思った。
誰かのために動くから、傷つく。
人と関わるから、苦しくなる。
なら、最初から誰とも関わらなければいい。
そうして俺は、人と距離を置くようになった。
学校へ行くことも、人と話すことも避けた。
誰かに期待することをやめた。
それでも、心のどこかでは、ずっと憧れていた。
困っている誰かを助けられる人間に。
自分が傷つくことを恐れず、誰かのために手を伸ばせる英雄に。
矛盾していることくらい、分かっていた。
人を信じるのが怖いくせに、人を助ける人間にはなりたかったのだ。
そして、俺は死んだ。
目の前にいた、見知らぬ少女を助けようとして。
迫ってくる車。
伸ばした手。
あの瞬間、俺が何を考えていたのか、今でもはっきりとは分からない。
ただ、最後に思った。
俺は、英雄になれたのだろうか、と。
そして目を覚ましたとき、俺は狼になっていた。
人間ではなくなった。
言葉を話せなくなった。
誰かに助けを求めることさえ、簡単にはできなくなった。
それなのに、俺は再び誰かと出会った。
アルトだ。
彼は、俺が何者なのかを完全には理解していなかった。
俺がどんな過去を持っているのかも知らない。
それでも、俺を助けてくれた。
食事を与え、寝床を用意し、言葉を教えてくれた。
何かを返せと迫ることもなかった。
ただ、そこにいていいと、行動で示してくれた。
いつの間にか、俺はあの小さな家を帰る場所だと思うようになっていた。
アルトの隣が、自分の居場所なのだと思うようになっていた。
だからこそ、失いたくなかった。
今度こそ。
今度こそ、大切なものを失いたくなかった。
「……俺の夢を、お前に託したい」
アルトは、最後の力を振り絞るように俺の頭をなでた。
「世界を見てきてくれ。俺が知らない景色を。俺が行けなかった場所を」
声が、少しずつ弱くなっていく。
「それで……いつか、どこかで……俺が知らなかった世界の話を、聞かせてくれよ」
そんな約束、できるわけがない。
お前がいなければ、誰に話せばいいんだ。
誰が俺の言葉を理解してくれるんだ。
誰が、俺を待っていてくれるんだ。
俺はアルトの手に鼻先を押しつけた。
行かないでくれ。
お願いだから。
まだ、一緒にいたい。
喉の奥から、かすれた鳴き声が漏れた。
それは、今までに出したことのないような声だった。
自分でも驚くほど、弱く、情けない声。
まるで、置いていかないでくれと縋る子供のようだった。
アルトは、そんな俺を見て、ほんの少しだけ笑った。
「……大丈夫だ」
大丈夫なわけがない。
何も大丈夫じゃない。
「お前なら、きっと……」
言葉が途切れた。
それでも、彼の手は俺の頭から離れなかった。
俺は、その手に鼻先を押しつけ続けた。
温かさが消えてしまわないように。
今、この瞬間だけでも、覚えていられるように。
――やめてくれ。
もう、誰も失いたくない。
前世で大切なものを失ったとき、俺は人と関わることをやめた。
傷つかないために。
もう二度と、同じ思いをしないために。
それなのに、この世界でも同じことが起きようとしている。
今度は、逃げなかった。
この一年、俺はアルトと一緒にいた。
笑い、失敗し、学び、少しずつ信じることを覚えた。
そして今、俺は彼を守ろうとしている。
それなのに。
俺は、何もできなかった。
守ると決めたのに。
何度倒れても立ち上がると決めたのに。
結局、アルトを守れなかった。
俺は弱い。
その事実が、今まで以上に重くのしかかった。
◇◇◇
金色の人狼は、二人のやり取りを静かに眺めていた。
月光が、彼の長い毛並みを淡く照らしている。
人狼にとって、目の前の光景は珍しいものだった。
命の危機に陥った生き物は、たいてい自分の生存を優先する。
逃げる。
隠れる。
助けを求める。
それが自然な反応だ。
だが、この二人は違った。
人間は傷ついた身体を引きずりながらも、狼を逃がそうとしていた。
狼は、すでに勝ち目がないと理解しているはずなのに、人間の前から退こうとしなかった。
互いに、自分より相手のことを気にかけている。
理解しがたい。
なぜ、そこまでするのか。
人狼は、人間の表情を観察した。
恐怖。
苦痛。
諦め。
そして、その奥にある強い願い。
人間は狼に何かを伝えている。
狼は言葉を返せない。
それでも、二人の間には、確かな意思のやり取りがあった。
人狼は、わずかに目を細めた。
ただの獲物だと思っていた。
少なくとも、最初はそうだった。
だが、この狼には、奇妙なものを感じる。
魔物としての本能だけでは説明できない反応。
人間の言葉を理解しているかのような振る舞い。
そして、自分よりも弱い人間を守るために、何度も立ち上がる意志。
興味深い。
だが、それだけだ。
興味があることと、見逃すことは別だった。
人狼は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
◇◇◇
重い足音が聞こえた。
俺は顔を上げた。
金色の人狼が、こちらへ近づいてくる。
もう時間がない。
アルトは傷つき、まともに動くことさえ難しくなっている。
目の前には、俺たちを獲物としか見ていない魔物がいる。
背後には、俺を助けてくれた人間がいる。
どちらも、もう見ないふりはできなかった。
俺はゆっくりと顔を上げ、人狼を見据えた。
恐怖は消えていない。
悲しみも、迷いも、何一つ消えてはいなかった。
それでも、アルトが俺に託してくれたものがある。
生きてほしいという願い。
世界を見てきてほしいという夢。
俺は、それを無駄にしたくなかった。
けれど、アルトの願いを受け入れることは、彼を失うことを認めるのと同じだった。
そんなこと、できるはずがない。
それでも、俺はもう分かっていた。
俺にできることは、何もかもを元に戻すことではない。
目の前の現実から逃げず、アルトが残してくれたものを受け取ることだ。
前世の俺は、傷つくことを恐れて、人と関わることをやめた。
誰かを信じることをやめた。
けれど、アルトと過ごした一年は、俺に教えてくれた。
誰かと出会うことには、失う恐怖だけではなく、かけがえのない喜びもあるのだと。
だからこそ、失いたくなかった。
だからこそ、こんなにも苦しい。
俺はアルトのそばに伏せ、彼の手にもう一度だけ鼻先を寄せた。
温かさを、心に刻み込む。
この手に助けられたこと。
この手に撫でられたこと。
この手が、俺に生きる場所を与えてくれたこと。
決して忘れない。
そして、俺はゆっくりと顔を上げた。
金色の人狼が、こちらを見ている。
俺は立ち上がった。
震える脚に力を込める。
逃げたい。
この場から逃げ出して、何もかも夢だったことにしたい。
だが、もう逃げない。
俺はアルトから受け取った願いを、無駄にはしない。
どれほど苦しくても。
どれほど先が見えなくても。
生きて、その夢の続きを見届ける。
俺は、もう一度だけアルトを振り返った。
そして、金色の人狼を見据えた。
――絶対に、無駄にはしない。
この命も。
お前が託してくれた願いも。
俺は、決して忘れない。
月明かりの下、金色の人狼が静かに目を細めた。
その瞳に映る灰色の狼は、もはや逃げ惑うだけの獲物ではなかった。
たとえ今は、何もかもが届かなくても。
その小さな身体の奥には、確かな意志が宿っていた。
長い夜は、まだ終わらない。
そして俺は、まだ知らなかった。
アルトの願いを受け取ることが、どれほど残酷な選択になるのかを。




