第十五話 ロッターズウルフ
――俺を食べろ。
アルトの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
月明かりの下、金色の毛並みを揺らす人狼が立っている。その足元には、俺を何度も打ちのめした圧倒的な力が宿っていた。
そして、俺のそばには。
もう二度と、自分の足で立ち上がることのできないアルトが倒れていた。
俺は、動けなかった。
アルトの言葉が意味するものは分かっている。
魔物がほかの生物や魔物を食らうことで、魔力を取り込み、力を増すことがある。まれに、種族そのものが変化する場合もある。
アルトは、その可能性に賭けろと言っているのだ。
俺が彼を食べれば、進化できるかもしれない。
目の前の人狼を倒せるかもしれない。
生き延びられるかもしれない。
けれど。
そのために、俺はアルトを――。
「……まだ迷っているのか?」
人狼の声が、静かな森に響いた。
金色の瞳が、俺を見下ろしている。
「そいつは、もう助からない」
淡々とした声だった。
「ならば、せめて死を無駄にしないことだな」
喉の奥から、唸り声が漏れた。
黙れ。
お前に何が分かる。
アルトが、どんな人間だったのか。
言葉を話せない俺の気持ちを、何度も理解しようとしてくれたこと。
失敗しても笑いながら、次はどうすればいいのか教えてくれたこと。
自分の夢を語るとき、まるで子供のように目を輝かせていたこと。
何も知らないくせに。
俺は牙を剥いた。
「グルルル……!」
人狼は、わずかに目を細めた。
「怒ったところで、何も変わらん」
分かっている。
そんなことは、嫌というほど分かっていた。
どれだけ怒ろうと、時間は戻らない。
どれだけ願おうと、アルトが再び目を開けることはない。
それでも、認めたくなかった。
俺は、ゆっくりとアルトの顔を見下ろした。
初めて出会ったとき、俺はただの魔物だった。
人間だった頃の記憶はあっても、この世界で生きる術など何一つ知らなかった。
そんな俺を、アルトは見捨てなかった。
正体も分からない狼を家へ連れ帰り、食べ物を分け、傷が治るまで面倒を見てくれた。
俺が人間の言葉を理解していると気づいたあとも、恐れることなく話しかけてくれた。
文字を教えてくれた。
狩りの仕方を教えてくれた。
生き残るための知恵を、惜しみなく分けてくれた。
そして、いつか森の外へ出て、いろいろな土地を巡りたいと話していた。
見たことのない景色を、自分の目で確かめたい。
その夢を語るアルトの笑顔を、俺は覚えている。
身体が弱いから、長い旅は難しい。
そう言って笑った彼に、俺はいつか一緒に行こうと伝えたかった。
けれど、俺には人間の言葉を話せなかった。
だから、ただ隣にいることしかできなかった。
それでもアルトは、俺がそばにいることを喜んでくれた。
いつの間にか、あの小さな家は、雨風をしのぐだけの場所ではなくなっていた。
帰る場所になっていた。
アルトがいる場所が、俺の居場所になっていた。
俺は、それを認めるのが怖かった。
大切なものができれば、失うことが怖くなる。
誰かを信じれば、裏切られたときに傷つく。
前の人生で、俺はそれを嫌というほど思い知らされた。
助けを求めてきた友人のために動いたのに、最後には俺だけが取り残された。
信じていた人間に見捨てられ、誰にも分かってもらえなかった。
だから、もう誰にも期待しないと決めた。
誰かと深く関わらなければ、傷つくこともない。
そう思っていたはずなのに。
俺はまた、誰かを大切に思ってしまった。
そして、その人を失おうとしている
俺は、彼のそばへ顔を寄せた。
返事はない。
いつもなら、俺が近づけば気づいてくれた。
腹が減っていれば、呆れた顔をしながら食べ物を分けてくれた。
森で失敗すれば、笑いながら次の方法を考えてくれた。
もう一度、あの声が聞きたかった。
くだらない話でもいい。
狩りの話でも、父親の話でも、いつか見たいと言っていた遠い土地の話でもいい。
何でもいいから。
もう一度、俺の名前を呼んでほしかった。
けれど、アルトは動かなかった。
その事実が、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいく。
「そいつの望みを聞いてやれ」
人狼が言った。
「お前が生き延びること。それが、そいつの最後の願いなのだろう?」
俺は顔を上げ、鋭く睨みつけた。
人狼は、静かに俺を見返していた。
「違うというのか?」
答えられなかった。
違うとは、言えなかった。
アルトは、確かにそう言ったのだ。
自分の代わりに世界を見てきてほしいと。
自分が行けなかった場所へ行き、見られなかった景色を見てほしいと。
彼は、最後まで俺のことを考えていた。
ならば、俺はどうするべきなのだろう。
この場に留まり、何もできないまま終わるのか。
それとも、彼の願いを受け入れ、生きるのか。
俺は、アルトのそばに伏せた。
その顔を、じっと見つめる。
返事はない。
それでも、俺はしばらく離れられなかった。
やがて、俺はゆっくりと顔を近づけた。
身体が震えた。
これは、ただの食事ではない。
生きるために獲物を食べることとは、まるで違う。
俺が受け入れようとしているのは、この世界で初めて俺を救ってくれた人間の、最後の願いだった。
忘れない。
この家で過ごした日々も。
何気ない会話も。
不器用な優しさも。
俺に生きてほしいと願ってくれたことも。
すべてを背負って、生きていく。
俺は、目を閉じた。
――分かったよ、アルト。
お前の願いを、俺が背負っていく。
アルトの腕の肉に俺はかぶりついた。
血の味が広がる。
美味しいわけがない。美味しいわけがないはずなのに食べるほどに力が沸いてくる。
悲しかった自分は魔物なのだと気付かされた瞬間だった。
涙が止まらない自分の存在を初めて否定したくなった。
でもアルトの顔を見る死んだはずのアルトの顔は笑っていた。
『お前は悪くない』
そう言ってるような気がした。
その瞬間だった。
――ドクン。
心臓が、強く脈打った。
身体の奥底から、熱が湧き上がってくる。
血が騒ぎ、筋肉が震え、骨の奥まで力が満ちていく。
――ドクン。
もう一度、心臓が脈打った。
今まで感じたことのない魔力が、全身を駆け巡る。
俺は思わず顔を上げた。
身体が変わり始めていた。
四本の脚が地面を踏みしめる。
前脚が伸び、関節の形が変化していく。
後ろ脚にも力が満ち、身体を支える構造そのものが組み替わっていく。
骨格が変わる。
背丈が伸びる。
全身の筋肉が膨らみ、毛並みの密度が増していく。
痛みが走った。
それでも、俺は声を上げて耐えた。
生きろ。
アルトの言葉が、胸の奥で響いている。
生きて、世界を見てこい。
――ああ。
生きてやる。
お前が見たかった世界を、俺が見に行く。
頭の中に、無機質な声が響いた。
『――条件達成を確認』
『個体名:ロットウルフ』
『種族進化条件を満たしました』
進化。
アルトが教えてくれた、種族進化。
その可能性が、今、現実になろうとしていた。
『種族進化を開始します』
次の瞬間、世界が変わった。




