↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界来たのに狼ってそれはないでしょう!  作者: ナメク
第一章君の名前は

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/26

第十五話 ロッターズウルフ②

◇◇◇

 最初に変わったのは、感覚だった。

 月明かりに照らされた森が、以前とは比べものにならないほど鮮明に見える。

 木々の幹。

 枝に残った葉。

 地面に散らばる枯れ草。

 月明かりの下に浮かぶ、小さな石。

 それだけではない。

 風が頬を撫でる感覚から、その流れが分かる。

 足元から伝わる振動で、地面のわずかな変化を感じ取れる。

 葉擦れの音も、遠くで鳴く虫の声も、ただ聞こえるだけではなかった。

 どの方向から、どれほどの距離で発生しているのか。

 周囲の空気が、どう動いているのか。

 生き物がどこにいて、どちらへ動こうとしているのか。

 それらが、一つの情報として頭の中へ流れ込んでくる。

 少し離れた場所に立つ人狼の動きさえ、以前とは違って見えた。

 肩のわずかな揺れ。

 脚に込められる力。

 重心の移動。

 攻撃へ移る直前の、筋肉の小さな変化。

 まるで、相手の身体が発する合図を、一つも見逃さなくなったかのようだった。

 だが、情報はあまりにも多かった。

 風が枝を抜ける音。

 虫の声。

 自分の心臓が脈打つ音。

 遠くの地面を這う、小さな生き物の動き。

 すべてが一斉に押し寄せ、頭の中を埋め尽くしていく。

「グゥ……ッ!」

 俺は思わず頭を振った。

 このままでは、何も考えられない。

 俺は意識を集中させた。

 必要のない情報を手放す。

 敵の動き。

 足元の地形。

 風の向き。

 それだけを選び取るように、意識を整えていく。

 少しずつ、世界が静かになった。

 音が消えたわけではない。

 必要な情報だけが、自然と意識に残るようになったのだ。

『固有能力の発現を確認』

『固有能力――万象感知』

 ――万象感知。

 それが、俺に宿った新たな力だった。

 周囲の音や振動、空気の流れ、生き物の動き。

 それらを捉え、周囲の状況を把握する能力。

 未来を見通す力ではない。

 相手の考えを読む力でもない。

 あくまで、今起きている変化を感じ取る力だ。

 その情報をどう使うかは、俺自身にかかっている。

『種族進化完了』

『ロットウルフから、ロッターズウルフへ進化しました』

 ――ロッターズウルフ。

 それが、今の俺の種族だった。

 俺はゆっくりと立ち上がった。

 二本の脚で、大地を踏みしめる。

 伸びた腕を握り、指先に生えた爪を見つめた。

 以前とは違う身体。

 以前とは違う感覚。

 そして、以前とは違う力。

 それでも、俺の中にある悲しみは消えていなかった。

 アルトは戻らない。

 どれだけ強くなっても、その事実は変わらない。

 だからこそ。

 俺は、この力を無駄にはしない。

 顔を上げる。

 金色の人狼が、こちらを見つめていた。

「……何だ、その姿は」

 初めて、その声に戸惑いが混じった。

 俺は答えなかった。

 ただ、静かに身構えた。

 これは、俺一人の力ではない。

 アルトが教えてくれたこと。

 アルトと過ごした時間。

 最後まで俺を信じてくれたこと。

 そのすべてを背負って、俺はここに立っている。

 もう、逃げない。

「……来い」

 人狼が、低く告げた。

 次の瞬間、金色の巨体が地面を蹴った。

 ◇◇◇

 速い。

 だが、先ほどまでとは違う。

 俺には、人狼の動きが見えていた。

 右脚に力が込められる。

 重心が前へ移動する。

 肩が沈み、右腕が後ろへ引かれる。

 その動きが、頭の中へ流れ込んでくる。

 ――右から来る!

 俺は身体をひねった。

 人狼の爪が、目の前を通り過ぎる。

 風圧が頬を撫でた。

 避けた。

 今までなら、反応することさえできなかった攻撃を。

 人狼の目が、わずかに見開かれる。

 俺は、その隙を逃さず踏み込んだ。

 拳を握り、人狼の脇腹へ叩き込む。

 鈍い衝撃が腕に返ってきた。

 手応えは浅い。

 人狼は攻撃の直前に身体をひねり、急所を外していた。

 それでも、その巨体が横へ流れる。

 初めて、相手を押し返した。

「……なるほど」

 人狼は数歩下がった。

「動きを読んだか」

 俺は答えず、再び身構えた。

 万象感知は、相手の動きを教えてくれる。

 だが、それだけだ。

 見えた攻撃を避けられるか。

 生まれた隙を突けるか。

 実際に身体を動かすのは、俺自身だ。

 人狼は、ゆっくりと首を傾けた。

「面白い。ならば、これはどうだ?」

 今度は正面からではなかった。

 人狼は木々の間を駆け抜け、左右へ進路を変えながら、俺の死角へ回り込もうとしてくる。

 速いだけではない。

 こちらの反応を確かめるように、動きに変化をつけている。

 俺は意識を研ぎ澄ませた。

 左。

 右。

 背後。

 木の幹を蹴り、角度を変えて迫ってくる。

 足音、地面の振動、枝の揺れ。

 俺は、それらを拾い上げ、人狼の位置を捉え続けた。

 ――そこだ!

 振り向きざまに腕を振るう。

 爪と爪がぶつかり、鋭い音が夜の森に響いた。

 全身に衝撃が走る。

 足元の土が削れ、身体が後ろへ押し込まれた。

 強い。

 進化した今でも、正面から受け止めれば押し負ける。

 俺は腕をひねり、力の向きをずらした。

 人狼の爪が肩の横を通り過ぎる。

 そのまま懐へ踏み込み、膝を叩き込んだ。

 人狼の身体がわずかに浮く。

 追撃しようとした、そのとき。

「甘い!」

 人狼の尻尾が地面を打った。

 土煙が舞い上がる。

 視界が遮られた。

 しまった。

 周囲の状況は感知できる。

 だが、情報を拾えても、すべての動きに対応できるわけではない。

 一瞬の迷い。

 それだけで、人狼には十分だった。

 腕が迫る。

 避けきれない。

 俺は両腕を交差させた。

 ――ドンッ!

 身体が吹き飛ぶ。

 地面を転がり、木の幹へ叩きつけられた。

「グッ……!」

 肺の空気が押し出される。

 痛みをこらえながら、俺は立ち上がった。

 進化した身体は、以前よりもはるかに頑丈だった。

 だが、無傷ではない。

 人狼は俺を見つめていた。

「感覚が鋭くなったからといって、すべての攻撃に対応できるわけではない」

 その言葉は正しかった。

 万象感知は万能ではない。

 見えた攻撃を必ず避けられるわけではないし、読めた動きを必ず止められるわけでもない。

 ならば、どうする。

 俺は、ゆっくりと呼吸を整えた。

 ――アルトなら、どうする?

 森で獲物を追うとき、アルトはいつも周囲をよく見ていた。

 足跡を探し、風の向きを確かめ、獲物がどちらへ逃げるのかを考える。

 力任せに追いかけるのではない。

 自分が有利になる場所へ、獲物を誘導する。

 父親から教わったのだと、彼は言っていた。

 森で生き残りたいなら、目の前のものをよく見ろ。

 見た目だけで判断するな。

 分からないものを、分からないまま放っておくな。

 俺は、その教えを思い出した。

 相手の動きを読むだけでは勝てない。

 読んだ動きを、利用するんだ。

 俺は、先に動いた。

 地面を蹴り、真正面から突っ込む。

 人狼は迎え撃つように腕を振り上げた。

 予想どおりだ。

 俺は直前で足を止め、身体を低くした。

 爪が頭上を通り過ぎる。

 その腕の下へ滑り込み、全力で地面を蹴った。

 拳を、顎へ叩き込む。

 人狼の頭が跳ねた。

 さらに踏み込み、胴体へ拳を打ち込む。

 一撃。

 二撃。

 三撃。

 拳が当たるたび、金色の巨体が後ろへ下がる。

 人狼は腕を交差させて防御した。

 それでも、俺は攻撃を止めなかった。

 今まで届かなかった。

 何度も叩き伏せられてきた。

 だが、今は違う。

 ――守りたいものがある。

 そのために、俺は強くなったのだから。

「おおおおっ!」

 最後の一撃を振り抜く。

 人狼の身体が吹き飛び、木の幹へ激突した。

 太い枝が折れ、葉が舞い散る。

 俺は息を切らしながら、土煙の向こうを見据えた。

 倒したか?

 いや。

 万象感知が、まだ動く気配を捉えていた。

 次の瞬間、金色の巨体が土煙の中から飛び出した。

「……いいぞ」

人狼が口元をぬぐう。

「ようやく、狩りらしくなってきた」

 その目に、初めて明確な闘志が宿っていた。

 俺は身構えた。

 人狼は、今度は細かなフェイントを繰り返した。

 踏み込んでは止まり、攻撃を見せては引く。

 俺の反応を確かめているのだ。

 俺もまた、必要な情報だけを拾った。

 肩の動き。

 脚の角度。

 重心の変化。

 偽りの動きに惑わされないよう、意識を研ぎ澄ます。

 そして、人狼が踏み込んだ。

 右腕の爪が迫る。

 俺は左へ身体をひねり、攻撃をかわした。

 だが、人狼はそのまま回転し、反対側の腕を振るう。

 読んでいた。

 そう思った。

 しかし、爪の軌道が途中で変わった。

 俺の動きに合わせて、角度を変えてきたのだ。

 避けきれない。

 腕で受け止めた瞬間、鋭い衝撃が走った。

 人狼は、その隙に蹴りを放つ。

 俺の身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられた。

「……ッ!」

 痛みが走る。

 それ以上に悔しかった。

 動きを捉えていたはずなのに。

 それでも、相手は俺の予測を上回ってきた。

 人狼は、ゆっくりと歩いてくる。

「悪くない。だが、お前はまだ、その力を使いこなせていない」

 そのとおりだった。

 俺は進化したばかりだ。

 身体の扱い方も、能力の使い方も、まだ十分には理解できていない。

 一方、人狼は長い年月をかけて、自分の身体と戦い方を磨いてきたのだろう。

 経験の差がある。

 技術の差もある。

 それでも。

 俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 脳裏に、アルトの顔が浮かぶ。

 最後まで俺を信じてくれた男。

 自分の夢を、俺に託してくれた男。

 その願いを、ここで終わらせるわけにはいかない。

「……まだ立つか」

 人狼が、わずかに目を細めた。

 俺は牙を剥いた。

 立つ。

 何度でも。

 俺は、まだ生きている。

 ならば、前へ進む。

 アルトが望んだ未来へ。

◇◇◇

 それから、どれほど戦ったのか分からない。

 爪がぶつかる。

 拳が交差する。

 地面が砕け、木々が揺れる。

 人狼の攻撃を万象感知で捉え、俺は紙一重でかわす。

 俺の攻撃を、人狼は経験と技術で受け流す。

 互いに決定打を与えられないまま、戦いは続いた。

 だが、少しずつ変化が生まれていた。

 俺は、人狼の動きに慣れ始めていた。

 強い攻撃を放つ直前、左肩がわずかに下がる。

 方向を変えるとき、後ろ脚へ力を込める。

 攻撃を避けられたときには、次の一手を用意している。

 それらが、少しずつ分かってきた。

 人狼もまた、俺の能力に対応しようとしていた。

 わざと隙を見せ、反応を誘う。

 木々を利用して視界を遮り、俺の判断を狂わせる。

 互いに相手を理解しようとするたび、戦いは激しさを増していった。

 やがて、俺は一つの隙を見つけた。

 人狼が強い攻撃を放つ直前。

 ほんのわずかに、重心が前へ傾く。

 その一瞬だけ、身体の動きが大きくなる。

 俺は、その瞬間を待った。

 人狼が踏み込む。

 右腕が振り上がる。

 ――今だ!

 俺は真正面から飛び込んだ。

 人狼の爪が迫る。

 身体をわずかに傾け、攻撃の軌道を外した。

 爪が肩をかすめる。

 そのまま、懐へ入り込んだ。

「なっ――!」

 初めて、人狼が驚きの声を上げた。

 俺は全身の力を拳に込めた。

 腕だけで殴るのではない。

 脚で地面を踏みしめ、腰を回し、背中から肩、腕へと力をつなげる。

 アルトと過ごした日々の中で、俺は何度も人間の動きを見てきた。

 薪を割るときの身体の使い方。

 弓を引くときの姿勢。

 狩りの最中、獲物を仕留めるときの動き。

 その記憶を頼りに、今の身体を動かした。

 ――これで、終わらせる!

 拳が、人狼の胴体を捉えた。

 轟音が響く。

 金色の巨体が吹き飛び、木々を巻き込みながら地面へ叩きつけられた。

 土煙が舞い上がる。

 俺は、息を切らしながら立ち尽くした。

 今度こそ。

 万象感知が、土煙の向こうを捉える。

 人狼の心臓は、まだ脈打っていた。

 だが、その動きは明らかに弱まっている。

 俺は、ゆっくりと歩き出した。

 土煙が晴れる。

 そこには、片膝をついた人狼がいた。

 金色の毛並みは土にまみれ、呼吸も荒くなっている。

 それでも、その目から闘志は消えていなかった。

「……まさか」

 人狼が、かすれた声を漏らす。

「この俺が……」

 言葉が途切れた。

 その表情には、驚きだけではない何かが浮かんでいた。

「……お前は、まだ進めるのだな」

 俺には、その言葉の意味が分からなかった。

 人狼は、ゆっくりと顔を上げた。

 金色の瞳が、俺を見つめる。

 その目の奥に、一瞬だけ、誰かを懐かしむような色が浮かんだ。

「ならば……せめて、お前は……」

 その先の言葉は、聞き取れなかった。

 人狼の身体が、地面へ崩れ落ちる。

 しばらく待っても、再び立ち上がることはなかった。

 森に、静寂が戻った。

 俺は、ゆっくりと拳を下ろした。

 勝った。

 ようやく、勝ったのだ。

 けれど、胸の奥に喜びはなかった。

 俺は振り返った。

 アルトが倒れている場所へ。

 ◇◇◇

 そこには、変わらない夜があった。

 月明かり。

 木々の影。

 風に揺れる葉の音。

 そして、アルト。

 俺は、彼のそばまで歩いていった。

 進化した身体は、以前より大きく、力強くなっていた。

 二本の脚で立ち、地面を踏みしめることができる。

 けれど、今はそんなことなど、どうでもよかった。

 俺はアルトのそばに膝をついた。

「……アルト」

 声にはならない。

 それでも、呼ばずにはいられなかった。

 そっと手を伸ばす。

 もう、温もりは残っていなかった。

 いつものように笑ってくれない。

 呆れたように俺を呼んでくれない。

 もう二度と、あの家で一緒に過ごすことはできない。

 俺は、ゆっくりとうなだれた。

 強くなった。

 進化した。

 あれほど勝てなかった人狼を、倒すことができた。

 それなのに。

 俺が一番守りたかったものは、もう戻ってこない。

 どれほど強くなっても。

 どれほど速くなっても。

 失ったものを取り戻すことはできない。

 その事実は、前の人生でも知っていたはずだった。

 それでも俺は、アルトと出会わなければよかったとは思えなかった。

 彼と過ごした時間を、なかったことにしたくなかった。

 初めて肉を分けてもらった日。

 狩りに失敗して、笑われた日。

 文字を教えてもらった日。

 森の外の世界について、夜遅くまで話を聞いた日。

 何でもない日々だった。

 けれど、俺にとっては何よりも大切な時間だった。

 俺は、そっとアルトの手に触れた。

 この手が、俺を救ってくれた。

 この手が、食べ物を分けてくれた。

 この手が、俺の頭を撫でてくれた。

 そして最後には、俺の未来を託してくれた。

 俺は、目を閉じた。

 ――ありがとう。

 声にはならない言葉を、胸の奥で繰り返す。

 俺を見つけてくれて。

 見捨てないでくれて。

 もう一度、誰かを信じてもいいのだと思わせてくれて。

 ありがとう。

 ◇◇◇

 夜明けが近づいていた。

 東の空が、ほんのわずかに明るくなり始めている。

 俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 悲しみが消えたわけではない。

 アルトを失った事実を、受け入れられたわけでもない。

 それでも、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。

 アルトが夢見た世界は、この森の外にある。

 彼が行きたかった場所。

 彼が見たかった景色。

 まだ誰も知らない土地。

 俺は、何も知らない。

 人間だった頃も、この世界に来てからも、ずっと自分の身の回りのことで精いっぱいだった。

 ただ生き延びること。

 傷つかないこと。

誰かを失わないこと。

 そればかり考えていた。

 けれど、アルトは違った。

 身体が弱くても、遠くへ行けなくても、彼は世界を知ろうとしていた。

 自分にできることを探しながら、いつか見たことのない景色を見たいと願っていた。

 そんな彼が、最後に俺へ託した願い。

 俺に生きてほしい。

 そして、自分の代わりに世界を見てきてほしい。

 森の外には、何があるのか分からない。

 俺のような魔物を恐れる人間もいるだろう。

 俺を見て、化け物と呼ぶ者もいるかもしれない。

 また誰かを信じて、傷つくこともあるかもしれない。

 それでも、今度は逃げたくなかった。

 前の人生で、俺は人と関わることを諦めた。

 この世界では、アルトと出会うことで、もう一度誰かと向き合うことができた。

 彼がいなければ、俺はきっと、ただ生き延びることだけを考える魔物になっていた。

 アルトは、俺に居場所をくれた。

 そして今、その居場所を失った俺に、進むべき道を残してくれた。

 ならば。

 俺は、歩いていこう。

 悲しみが消えなくても。

 怖さがなくならなくても。

 彼が見たかった世界を、俺が見に行こう。

 この目で。

 この足で。

 森の向こうに広がる町も。

 遠くの国も。

 まだ見ぬ種族も。

 いつか、この旅で見つけたものを、アルトに話すつもりで胸に刻んでいこう。

 彼に伝えることは、もうできない。

 それでも、彼が俺に託してくれた願いを、無駄にはしたくなかった。

 俺は、最後にもう一度だけ、アルトを振り返った。

 もう、あの家へ帰ることはできない。

 もう、彼と話すこともできない。

 それでも、あの家で過ごした日々は、確かに俺の中に残っている。

 彼が教えてくれたことも。

 彼が見せてくれた優しさも。

 彼が俺に託した願いも。

 すべて、ここにある。

 俺は、静かに顔を上げた。

 ――ありがとう、アルト。

 お前が見たかった世界を、俺が見てくる。

 そして、いつか。

 お前と過ごした時間を、俺は忘れない。

 朝日が、木々の隙間から差し込み始めた。

 俺は、その光へ向かって歩き出した。

 失ったものを抱えたまま。

 託された願いを背負ったまま。

 まだ見ぬ世界へ向かって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。