第十五話 ロッターズウルフ②
◇◇◇
最初に変わったのは、感覚だった。
月明かりに照らされた森が、以前とは比べものにならないほど鮮明に見える。
木々の幹。
枝に残った葉。
地面に散らばる枯れ草。
月明かりの下に浮かぶ、小さな石。
それだけではない。
風が頬を撫でる感覚から、その流れが分かる。
足元から伝わる振動で、地面のわずかな変化を感じ取れる。
葉擦れの音も、遠くで鳴く虫の声も、ただ聞こえるだけではなかった。
どの方向から、どれほどの距離で発生しているのか。
周囲の空気が、どう動いているのか。
生き物がどこにいて、どちらへ動こうとしているのか。
それらが、一つの情報として頭の中へ流れ込んでくる。
少し離れた場所に立つ人狼の動きさえ、以前とは違って見えた。
肩のわずかな揺れ。
脚に込められる力。
重心の移動。
攻撃へ移る直前の、筋肉の小さな変化。
まるで、相手の身体が発する合図を、一つも見逃さなくなったかのようだった。
だが、情報はあまりにも多かった。
風が枝を抜ける音。
虫の声。
自分の心臓が脈打つ音。
遠くの地面を這う、小さな生き物の動き。
すべてが一斉に押し寄せ、頭の中を埋め尽くしていく。
「グゥ……ッ!」
俺は思わず頭を振った。
このままでは、何も考えられない。
俺は意識を集中させた。
必要のない情報を手放す。
敵の動き。
足元の地形。
風の向き。
それだけを選び取るように、意識を整えていく。
少しずつ、世界が静かになった。
音が消えたわけではない。
必要な情報だけが、自然と意識に残るようになったのだ。
『固有能力の発現を確認』
『固有能力――万象感知』
――万象感知。
それが、俺に宿った新たな力だった。
周囲の音や振動、空気の流れ、生き物の動き。
それらを捉え、周囲の状況を把握する能力。
未来を見通す力ではない。
相手の考えを読む力でもない。
あくまで、今起きている変化を感じ取る力だ。
その情報をどう使うかは、俺自身にかかっている。
『種族進化完了』
『ロットウルフから、ロッターズウルフへ進化しました』
――ロッターズウルフ。
それが、今の俺の種族だった。
俺はゆっくりと立ち上がった。
二本の脚で、大地を踏みしめる。
伸びた腕を握り、指先に生えた爪を見つめた。
以前とは違う身体。
以前とは違う感覚。
そして、以前とは違う力。
それでも、俺の中にある悲しみは消えていなかった。
アルトは戻らない。
どれだけ強くなっても、その事実は変わらない。
だからこそ。
俺は、この力を無駄にはしない。
顔を上げる。
金色の人狼が、こちらを見つめていた。
「……何だ、その姿は」
初めて、その声に戸惑いが混じった。
俺は答えなかった。
ただ、静かに身構えた。
これは、俺一人の力ではない。
アルトが教えてくれたこと。
アルトと過ごした時間。
最後まで俺を信じてくれたこと。
そのすべてを背負って、俺はここに立っている。
もう、逃げない。
「……来い」
人狼が、低く告げた。
次の瞬間、金色の巨体が地面を蹴った。
◇◇◇
速い。
だが、先ほどまでとは違う。
俺には、人狼の動きが見えていた。
右脚に力が込められる。
重心が前へ移動する。
肩が沈み、右腕が後ろへ引かれる。
その動きが、頭の中へ流れ込んでくる。
――右から来る!
俺は身体をひねった。
人狼の爪が、目の前を通り過ぎる。
風圧が頬を撫でた。
避けた。
今までなら、反応することさえできなかった攻撃を。
人狼の目が、わずかに見開かれる。
俺は、その隙を逃さず踏み込んだ。
拳を握り、人狼の脇腹へ叩き込む。
鈍い衝撃が腕に返ってきた。
手応えは浅い。
人狼は攻撃の直前に身体をひねり、急所を外していた。
それでも、その巨体が横へ流れる。
初めて、相手を押し返した。
「……なるほど」
人狼は数歩下がった。
「動きを読んだか」
俺は答えず、再び身構えた。
万象感知は、相手の動きを教えてくれる。
だが、それだけだ。
見えた攻撃を避けられるか。
生まれた隙を突けるか。
実際に身体を動かすのは、俺自身だ。
人狼は、ゆっくりと首を傾けた。
「面白い。ならば、これはどうだ?」
今度は正面からではなかった。
人狼は木々の間を駆け抜け、左右へ進路を変えながら、俺の死角へ回り込もうとしてくる。
速いだけではない。
こちらの反応を確かめるように、動きに変化をつけている。
俺は意識を研ぎ澄ませた。
左。
右。
背後。
木の幹を蹴り、角度を変えて迫ってくる。
足音、地面の振動、枝の揺れ。
俺は、それらを拾い上げ、人狼の位置を捉え続けた。
――そこだ!
振り向きざまに腕を振るう。
爪と爪がぶつかり、鋭い音が夜の森に響いた。
全身に衝撃が走る。
足元の土が削れ、身体が後ろへ押し込まれた。
強い。
進化した今でも、正面から受け止めれば押し負ける。
俺は腕をひねり、力の向きをずらした。
人狼の爪が肩の横を通り過ぎる。
そのまま懐へ踏み込み、膝を叩き込んだ。
人狼の身体がわずかに浮く。
追撃しようとした、そのとき。
「甘い!」
人狼の尻尾が地面を打った。
土煙が舞い上がる。
視界が遮られた。
しまった。
周囲の状況は感知できる。
だが、情報を拾えても、すべての動きに対応できるわけではない。
一瞬の迷い。
それだけで、人狼には十分だった。
腕が迫る。
避けきれない。
俺は両腕を交差させた。
――ドンッ!
身体が吹き飛ぶ。
地面を転がり、木の幹へ叩きつけられた。
「グッ……!」
肺の空気が押し出される。
痛みをこらえながら、俺は立ち上がった。
進化した身体は、以前よりもはるかに頑丈だった。
だが、無傷ではない。
人狼は俺を見つめていた。
「感覚が鋭くなったからといって、すべての攻撃に対応できるわけではない」
その言葉は正しかった。
万象感知は万能ではない。
見えた攻撃を必ず避けられるわけではないし、読めた動きを必ず止められるわけでもない。
ならば、どうする。
俺は、ゆっくりと呼吸を整えた。
――アルトなら、どうする?
森で獲物を追うとき、アルトはいつも周囲をよく見ていた。
足跡を探し、風の向きを確かめ、獲物がどちらへ逃げるのかを考える。
力任せに追いかけるのではない。
自分が有利になる場所へ、獲物を誘導する。
父親から教わったのだと、彼は言っていた。
森で生き残りたいなら、目の前のものをよく見ろ。
見た目だけで判断するな。
分からないものを、分からないまま放っておくな。
俺は、その教えを思い出した。
相手の動きを読むだけでは勝てない。
読んだ動きを、利用するんだ。
俺は、先に動いた。
地面を蹴り、真正面から突っ込む。
人狼は迎え撃つように腕を振り上げた。
予想どおりだ。
俺は直前で足を止め、身体を低くした。
爪が頭上を通り過ぎる。
その腕の下へ滑り込み、全力で地面を蹴った。
拳を、顎へ叩き込む。
人狼の頭が跳ねた。
さらに踏み込み、胴体へ拳を打ち込む。
一撃。
二撃。
三撃。
拳が当たるたび、金色の巨体が後ろへ下がる。
人狼は腕を交差させて防御した。
それでも、俺は攻撃を止めなかった。
今まで届かなかった。
何度も叩き伏せられてきた。
だが、今は違う。
――守りたいものがある。
そのために、俺は強くなったのだから。
「おおおおっ!」
最後の一撃を振り抜く。
人狼の身体が吹き飛び、木の幹へ激突した。
太い枝が折れ、葉が舞い散る。
俺は息を切らしながら、土煙の向こうを見据えた。
倒したか?
いや。
万象感知が、まだ動く気配を捉えていた。
次の瞬間、金色の巨体が土煙の中から飛び出した。
「……いいぞ」
人狼が口元をぬぐう。
「ようやく、狩りらしくなってきた」
その目に、初めて明確な闘志が宿っていた。
俺は身構えた。
人狼は、今度は細かなフェイントを繰り返した。
踏み込んでは止まり、攻撃を見せては引く。
俺の反応を確かめているのだ。
俺もまた、必要な情報だけを拾った。
肩の動き。
脚の角度。
重心の変化。
偽りの動きに惑わされないよう、意識を研ぎ澄ます。
そして、人狼が踏み込んだ。
右腕の爪が迫る。
俺は左へ身体をひねり、攻撃をかわした。
だが、人狼はそのまま回転し、反対側の腕を振るう。
読んでいた。
そう思った。
しかし、爪の軌道が途中で変わった。
俺の動きに合わせて、角度を変えてきたのだ。
避けきれない。
腕で受け止めた瞬間、鋭い衝撃が走った。
人狼は、その隙に蹴りを放つ。
俺の身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられた。
「……ッ!」
痛みが走る。
それ以上に悔しかった。
動きを捉えていたはずなのに。
それでも、相手は俺の予測を上回ってきた。
人狼は、ゆっくりと歩いてくる。
「悪くない。だが、お前はまだ、その力を使いこなせていない」
そのとおりだった。
俺は進化したばかりだ。
身体の扱い方も、能力の使い方も、まだ十分には理解できていない。
一方、人狼は長い年月をかけて、自分の身体と戦い方を磨いてきたのだろう。
経験の差がある。
技術の差もある。
それでも。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
脳裏に、アルトの顔が浮かぶ。
最後まで俺を信じてくれた男。
自分の夢を、俺に託してくれた男。
その願いを、ここで終わらせるわけにはいかない。
「……まだ立つか」
人狼が、わずかに目を細めた。
俺は牙を剥いた。
立つ。
何度でも。
俺は、まだ生きている。
ならば、前へ進む。
アルトが望んだ未来へ。
◇◇◇
それから、どれほど戦ったのか分からない。
爪がぶつかる。
拳が交差する。
地面が砕け、木々が揺れる。
人狼の攻撃を万象感知で捉え、俺は紙一重でかわす。
俺の攻撃を、人狼は経験と技術で受け流す。
互いに決定打を与えられないまま、戦いは続いた。
だが、少しずつ変化が生まれていた。
俺は、人狼の動きに慣れ始めていた。
強い攻撃を放つ直前、左肩がわずかに下がる。
方向を変えるとき、後ろ脚へ力を込める。
攻撃を避けられたときには、次の一手を用意している。
それらが、少しずつ分かってきた。
人狼もまた、俺の能力に対応しようとしていた。
わざと隙を見せ、反応を誘う。
木々を利用して視界を遮り、俺の判断を狂わせる。
互いに相手を理解しようとするたび、戦いは激しさを増していった。
やがて、俺は一つの隙を見つけた。
人狼が強い攻撃を放つ直前。
ほんのわずかに、重心が前へ傾く。
その一瞬だけ、身体の動きが大きくなる。
俺は、その瞬間を待った。
人狼が踏み込む。
右腕が振り上がる。
――今だ!
俺は真正面から飛び込んだ。
人狼の爪が迫る。
身体をわずかに傾け、攻撃の軌道を外した。
爪が肩をかすめる。
そのまま、懐へ入り込んだ。
「なっ――!」
初めて、人狼が驚きの声を上げた。
俺は全身の力を拳に込めた。
腕だけで殴るのではない。
脚で地面を踏みしめ、腰を回し、背中から肩、腕へと力をつなげる。
アルトと過ごした日々の中で、俺は何度も人間の動きを見てきた。
薪を割るときの身体の使い方。
弓を引くときの姿勢。
狩りの最中、獲物を仕留めるときの動き。
その記憶を頼りに、今の身体を動かした。
――これで、終わらせる!
拳が、人狼の胴体を捉えた。
轟音が響く。
金色の巨体が吹き飛び、木々を巻き込みながら地面へ叩きつけられた。
土煙が舞い上がる。
俺は、息を切らしながら立ち尽くした。
今度こそ。
万象感知が、土煙の向こうを捉える。
人狼の心臓は、まだ脈打っていた。
だが、その動きは明らかに弱まっている。
俺は、ゆっくりと歩き出した。
土煙が晴れる。
そこには、片膝をついた人狼がいた。
金色の毛並みは土にまみれ、呼吸も荒くなっている。
それでも、その目から闘志は消えていなかった。
「……まさか」
人狼が、かすれた声を漏らす。
「この俺が……」
言葉が途切れた。
その表情には、驚きだけではない何かが浮かんでいた。
「……お前は、まだ進めるのだな」
俺には、その言葉の意味が分からなかった。
人狼は、ゆっくりと顔を上げた。
金色の瞳が、俺を見つめる。
その目の奥に、一瞬だけ、誰かを懐かしむような色が浮かんだ。
「ならば……せめて、お前は……」
その先の言葉は、聞き取れなかった。
人狼の身体が、地面へ崩れ落ちる。
しばらく待っても、再び立ち上がることはなかった。
森に、静寂が戻った。
俺は、ゆっくりと拳を下ろした。
勝った。
ようやく、勝ったのだ。
けれど、胸の奥に喜びはなかった。
俺は振り返った。
アルトが倒れている場所へ。
◇◇◇
そこには、変わらない夜があった。
月明かり。
木々の影。
風に揺れる葉の音。
そして、アルト。
俺は、彼のそばまで歩いていった。
進化した身体は、以前より大きく、力強くなっていた。
二本の脚で立ち、地面を踏みしめることができる。
けれど、今はそんなことなど、どうでもよかった。
俺はアルトのそばに膝をついた。
「……アルト」
声にはならない。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
そっと手を伸ばす。
もう、温もりは残っていなかった。
いつものように笑ってくれない。
呆れたように俺を呼んでくれない。
もう二度と、あの家で一緒に過ごすことはできない。
俺は、ゆっくりとうなだれた。
強くなった。
進化した。
あれほど勝てなかった人狼を、倒すことができた。
それなのに。
俺が一番守りたかったものは、もう戻ってこない。
どれほど強くなっても。
どれほど速くなっても。
失ったものを取り戻すことはできない。
その事実は、前の人生でも知っていたはずだった。
それでも俺は、アルトと出会わなければよかったとは思えなかった。
彼と過ごした時間を、なかったことにしたくなかった。
初めて肉を分けてもらった日。
狩りに失敗して、笑われた日。
文字を教えてもらった日。
森の外の世界について、夜遅くまで話を聞いた日。
何でもない日々だった。
けれど、俺にとっては何よりも大切な時間だった。
俺は、そっとアルトの手に触れた。
この手が、俺を救ってくれた。
この手が、食べ物を分けてくれた。
この手が、俺の頭を撫でてくれた。
そして最後には、俺の未来を託してくれた。
俺は、目を閉じた。
――ありがとう。
声にはならない言葉を、胸の奥で繰り返す。
俺を見つけてくれて。
見捨てないでくれて。
もう一度、誰かを信じてもいいのだと思わせてくれて。
ありがとう。
◇◇◇
夜明けが近づいていた。
東の空が、ほんのわずかに明るくなり始めている。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
悲しみが消えたわけではない。
アルトを失った事実を、受け入れられたわけでもない。
それでも、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
アルトが夢見た世界は、この森の外にある。
彼が行きたかった場所。
彼が見たかった景色。
まだ誰も知らない土地。
俺は、何も知らない。
人間だった頃も、この世界に来てからも、ずっと自分の身の回りのことで精いっぱいだった。
ただ生き延びること。
傷つかないこと。
誰かを失わないこと。
そればかり考えていた。
けれど、アルトは違った。
身体が弱くても、遠くへ行けなくても、彼は世界を知ろうとしていた。
自分にできることを探しながら、いつか見たことのない景色を見たいと願っていた。
そんな彼が、最後に俺へ託した願い。
俺に生きてほしい。
そして、自分の代わりに世界を見てきてほしい。
森の外には、何があるのか分からない。
俺のような魔物を恐れる人間もいるだろう。
俺を見て、化け物と呼ぶ者もいるかもしれない。
また誰かを信じて、傷つくこともあるかもしれない。
それでも、今度は逃げたくなかった。
前の人生で、俺は人と関わることを諦めた。
この世界では、アルトと出会うことで、もう一度誰かと向き合うことができた。
彼がいなければ、俺はきっと、ただ生き延びることだけを考える魔物になっていた。
アルトは、俺に居場所をくれた。
そして今、その居場所を失った俺に、進むべき道を残してくれた。
ならば。
俺は、歩いていこう。
悲しみが消えなくても。
怖さがなくならなくても。
彼が見たかった世界を、俺が見に行こう。
この目で。
この足で。
森の向こうに広がる町も。
遠くの国も。
まだ見ぬ種族も。
いつか、この旅で見つけたものを、アルトに話すつもりで胸に刻んでいこう。
彼に伝えることは、もうできない。
それでも、彼が俺に託してくれた願いを、無駄にはしたくなかった。
俺は、最後にもう一度だけ、アルトを振り返った。
もう、あの家へ帰ることはできない。
もう、彼と話すこともできない。
それでも、あの家で過ごした日々は、確かに俺の中に残っている。
彼が教えてくれたことも。
彼が見せてくれた優しさも。
彼が俺に託した願いも。
すべて、ここにある。
俺は、静かに顔を上げた。
――ありがとう、アルト。
お前が見たかった世界を、俺が見てくる。
そして、いつか。
お前と過ごした時間を、俺は忘れない。
朝日が、木々の隙間から差し込み始めた。
俺は、その光へ向かって歩き出した。
失ったものを抱えたまま。
託された願いを背負ったまま。
まだ見ぬ世界へ向かって。




