第十六話 君の名前は➀
――静かだった。
先ほどまで激しく荒れていた森が、嘘のように静まり返っている。
風が木々の枝を揺らし、葉擦れの音を奏でていた。遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。いつもと変わらない、森の日常を告げる音だった。
それなのに、今の俺には、すべてがひどく遠く感じられた。
俺は、アルトの傍らに座り込んでいた。
「……アルト」
名前を呼ぶ。
返事はない。
もう一度呼んでみる。
それでも、彼は目を覚まさなかった。
いつもなら、俺が近づけば笑いながら頭を撫でてくれた。狩りから帰ってくれば、その日にあった出来事を楽しそうに話してくれた。俺が失敗すれば呆れた顔をしながらも、最後には笑って許してくれた。
時には、こちらがうんざりするほど長い話を聞かされることもあった。
……ああ、本当に長かった。
途中で聞くのをやめても、アルトは気にせず話し続ける。俺が適当に相槌を打てば、なぜか満足そうに笑っていた。
あの頃は、そんな時間が当たり前だった。
明日も、明後日も、きっと同じような日々が続いていくのだと思っていた。
けれど。
目の前に横たわるアルトは、まるで眠っているかのように目を閉じていた。
もう二度と、その目が開くことはない。
もう二度と、あの声を聞くこともできない。
頭では分かっていた。
それでも、心が追いつかなかった。
今にも目を覚まして、「どうしたんだ、そんな顔をして」と笑いかけてくれるのではないか。
そんなありもしない期待を、心のどこかで抱いていた。
だが、どれだけ待っても、アルトは目を覚まさなかった。
「……くそっ」
声が震えた。
「やっと……喋れるようになったのに」
ようやく、人間の言葉を声に出せるようになった。
伝えたいことが、山ほどあった。
今まで世話になったこと。くだらない話に付き合ってくれたこと。俺を恐ろしい魔物としてではなく、ひとつの命として受け入れてくれたこと。
そして、ありがとうと。
何度だって伝えたかった。
なのに、どうして今なんだ。
どうして、話せるようになった今になって、もう声が届かないんだ。
「……ふざけんなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
悔しかった。
俺は、アルトを守れなかった。
あの黄金の人狼を前に、俺には何もかもが足りなかった。力も、経験も、判断力も。
必死に抗った。どうにかしてアルトを救おうと、できる限りのことをした。
それでも、結局は大切なものを失った。
もっと強ければ。
もっと早く動けていれば。
あのとき、別の選択をしていれば。
後悔ばかりが頭の中を巡る。
けれど、いくら悔やんだところで、失ったものが戻ってくるわけではない。
俺は唇を噛み、視線を落とした。
この世界に来てから、俺は何度も恐怖を感じてきた。
人間だった頃の常識が通じない世界。人の言葉を話せず、狼の魔物として生きなければならない現実。いつ襲われるか分からない森での暮らし。
そして、前世で味わった恐怖。
俺は、人と関わることが怖かった。
誰かを助けようとして傷つき、信じた相手に裏切られた。周囲の人間に助けを求めても、思うようにはいかなかった。
最後には、自分だけが傷ついた。
だから、もう誰とも深く関わらないと決めた。
誰かのために行動したところで、最後には自分が傷つくだけだ。
そう考えることで、自分の心を守っていたのだと思う。
それでも、心のどこかでは英雄に憧れていた。
困っている誰かに手を差し伸べられる人間。
恐怖に立ち向かい、大切なものを守れる人間。
自分が傷つくことを恐れず、誰かのために一歩を踏み出せる人間。
そんな存在になりたいと、確かに思っていた。
その矛盾を抱えたまま死んだ俺は、異世界で狼の魔物として生まれ変わった。
そして、アルトと出会った。
最初は、ただ生き延びるためだった。
食べ物をもらい、雨風をしのげる場所を得て、危険な森で生きる術を学んだ。
アルトにとって俺は、得体の知れない魔物だったはずだ。
それでも、彼は俺を遠ざけなかった。
無理に心を開かせようとしたわけでもない。
俺が怯えていれば、必要以上に近づかなかった。失敗すれば教え、危険なことをすれば叱った。
そうやって少しずつ、俺がここにいてもいいのだと思わせてくれた。
気づけば、俺は彼の帰りを待つようになっていた。
狩りから戻ってくる足音を聞けば安心した。
食事の時間になれば、隣に座るのが当たり前になった。
くだらない話に呆れながらも、次に何を話してくれるのかと、心のどこかで楽しみにしていた。
明日も、そんな日々が続くと思っていた。
明日もアルトは帰ってくる。
明日も一緒に食事をする。
明日も、いつものように笑い合う。
――それが、当たり前ではなかったことを、俺は今になって思い知らされた。
「……ありがとう、アルト」
ふと、言葉が口からこぼれた。
人間の言葉だった。
以前の俺には、声に出して人間の言葉を話すことなどできなかった。どれだけ伝えたいことがあっても、鳴き声や仕草で示すことしかできなかったはずだ。
進化したことで、俺の身体は変わった。
今なら、人間の言葉で話せる。
けれど、もっと早く話せていたら、何かが変わっていたのだろうか。
もっと早く、感謝を伝えられていたら。
もっと早く、自分の気持ちを言葉にできていたら。
……いや。
俺は小さく首を振った。
今さら、過去を変えることはできない。
どれだけ願っても、アルトが戻ってくることはない。
だからこそ、今の俺にできることをしなければならなかった。
「……今まで、本当にありがとう」
アルトの顔を見つめながら、もう一度告げた。
届いているかどうかは分からない。
それでも、伝えたかった。
俺を受け入れてくれたこと。
一緒に過ごしてくれたこと。
生きるための知恵だけでなく、誰かと共に過ごすことの温かさを教えてくれたこと。
そのすべてに、感謝していた。
そして、もう一つ。
俺には、アルトからもらった大切なものがあった。
――名前だ。
◇
あれは、俺がアルトと暮らすようになって、しばらく経った頃のことだった。
その日も、アルトは狩りから帰ってくると、いつものように俺の頭を撫でてきた。
「ただいま、相棒!」
彼はそう言って、満足そうに笑った。
……いや。
あの頃の俺には、まだ名前がなかった。
「お前も、そろそろ名前が欲しいよなぁ」
アルトは俺の前にしゃがみ込み、顎に手を当てた。
「いつまでも『相棒』じゃ、呼びにくいしな。俺としても、家族に名前がないっていうのは、ちょっと寂しいし」
家族。
その言葉に、俺の耳がぴくりと動いた。
当時の俺は、まだ人間の言葉を話せなかった。アルトが何を考えているのか、すべてを理解できたわけではない。
それでも、その声の調子や表情から、俺に何かを伝えようとしていることは分かった。
アルトはしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「……ガルファング、なんてどうだ?」
聞き慣れない音だった。
俺は首を傾げた。
「おっ、気になるか?」
アルトは楽しそうに笑った。
「ガルファング。強そうだし、お前に似合ってると思うんだよな。ちょっと長いけど……そうだな。普段はガルって呼ぶことにしよう」
そう言って、彼は俺の頭を優しく撫でた。
「よろしくな、ガル」
その瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。
名前をもらう。
たったそれだけのことなのに、俺には、それが何よりも大切なことのように思えた。
この世界に生まれてから、俺はずっと一匹の魔物として生きてきた。
名前もなく、誰かに呼ばれることもなく、ただ生き延びるために森をさまよっていた。
けれど、アルトは俺に名前をくれた。
俺をただの魔物としてではなく、一緒に暮らす存在として見てくれた。
「ガル」
もう一度、アルトが呼んだ。
俺は思わず、彼の手に頭をすり寄せた。
アルトは一瞬驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「ははっ、気に入ってくれたみたいだな!」
その笑顔を、俺は今でも覚えている。
――ガルファング。
それが、俺の名前。
そして、ガル。
アルトが俺を呼ぶときの名前だった。
◇
「……ガル、か」
俺は、アルトの傍らで小さく呟いた。
今なら、はっきりと声に出して話せる。
けれど、俺の名前を呼んでくれた本人は、もうここにはいない。
「……なあ、アルト」
返事がないことは分かっていた。
それでも、言葉が止まらなかった。
「俺、お前に名前をもらえて……本当に嬉しかったんだ」
目の奥が熱くなった。
名前なんて、ただ他人を呼ぶためのものだと思っていた。
けれど、アルトからもらった名前は違った。
俺がここにいてもいいのだと。
俺が誰かにとって大切な存在になれるのだと。
そう思わせてくれるものだった。
「……ありがとう」
俺は深く頭を下げた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
悲しみが消えたわけではない。
悔しさも、後悔も、胸の奥に残ったままだ。
それでも、いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
まずは、アルトをきちんと送り出そう。
それが、今の俺にできることだった。




