↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界来たのに狼ってそれはないでしょう!  作者: ナメク
第一章君の名前は

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/26

第十六話 君の名前は➀


――静かだった。

先ほどまで激しく荒れていた森が、嘘のように静まり返っている。

風が木々の枝を揺らし、葉擦れの音を奏でていた。遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。いつもと変わらない、森の日常を告げる音だった。

それなのに、今の俺には、すべてがひどく遠く感じられた。

俺は、アルトの傍らに座り込んでいた。


「……アルト」


名前を呼ぶ。

返事はない。

もう一度呼んでみる。

それでも、彼は目を覚まさなかった。

いつもなら、俺が近づけば笑いながら頭を撫でてくれた。狩りから帰ってくれば、その日にあった出来事を楽しそうに話してくれた。俺が失敗すれば呆れた顔をしながらも、最後には笑って許してくれた。

時には、こちらがうんざりするほど長い話を聞かされることもあった。

……ああ、本当に長かった。

途中で聞くのをやめても、アルトは気にせず話し続ける。俺が適当に相槌を打てば、なぜか満足そうに笑っていた。

あの頃は、そんな時間が当たり前だった。

明日も、明後日も、きっと同じような日々が続いていくのだと思っていた。

けれど。

目の前に横たわるアルトは、まるで眠っているかのように目を閉じていた。

もう二度と、その目が開くことはない。

もう二度と、あの声を聞くこともできない。

頭では分かっていた。

それでも、心が追いつかなかった。

今にも目を覚まして、「どうしたんだ、そんな顔をして」と笑いかけてくれるのではないか。

そんなありもしない期待を、心のどこかで抱いていた。

だが、どれだけ待っても、アルトは目を覚まさなかった。

「……くそっ」

声が震えた。

「やっと……喋れるようになったのに」

ようやく、人間の言葉を声に出せるようになった。

伝えたいことが、山ほどあった。

今まで世話になったこと。くだらない話に付き合ってくれたこと。俺を恐ろしい魔物としてではなく、ひとつの命として受け入れてくれたこと。

そして、ありがとうと。

何度だって伝えたかった。

なのに、どうして今なんだ。

どうして、話せるようになった今になって、もう声が届かないんだ。


「……ふざけんなよ」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

悔しかった。

俺は、アルトを守れなかった。

あの黄金の人狼を前に、俺には何もかもが足りなかった。力も、経験も、判断力も。

必死に抗った。どうにかしてアルトを救おうと、できる限りのことをした。

それでも、結局は大切なものを失った。

もっと強ければ。

もっと早く動けていれば。

あのとき、別の選択をしていれば。

後悔ばかりが頭の中を巡る。

けれど、いくら悔やんだところで、失ったものが戻ってくるわけではない。

俺は唇を噛み、視線を落とした。

この世界に来てから、俺は何度も恐怖を感じてきた。

人間だった頃の常識が通じない世界。人の言葉を話せず、狼の魔物として生きなければならない現実。いつ襲われるか分からない森での暮らし。

そして、前世で味わった恐怖。

俺は、人と関わることが怖かった。

誰かを助けようとして傷つき、信じた相手に裏切られた。周囲の人間に助けを求めても、思うようにはいかなかった。

最後には、自分だけが傷ついた。

だから、もう誰とも深く関わらないと決めた。

誰かのために行動したところで、最後には自分が傷つくだけだ。

そう考えることで、自分の心を守っていたのだと思う。

それでも、心のどこかでは英雄に憧れていた。

困っている誰かに手を差し伸べられる人間。

恐怖に立ち向かい、大切なものを守れる人間。

自分が傷つくことを恐れず、誰かのために一歩を踏み出せる人間。

そんな存在になりたいと、確かに思っていた。

その矛盾を抱えたまま死んだ俺は、異世界で狼の魔物として生まれ変わった。

そして、アルトと出会った。

最初は、ただ生き延びるためだった。

食べ物をもらい、雨風をしのげる場所を得て、危険な森で生きる術を学んだ。

アルトにとって俺は、得体の知れない魔物だったはずだ。

それでも、彼は俺を遠ざけなかった。

無理に心を開かせようとしたわけでもない。

俺が怯えていれば、必要以上に近づかなかった。失敗すれば教え、危険なことをすれば叱った。

そうやって少しずつ、俺がここにいてもいいのだと思わせてくれた。

気づけば、俺は彼の帰りを待つようになっていた。

狩りから戻ってくる足音を聞けば安心した。

食事の時間になれば、隣に座るのが当たり前になった。

くだらない話に呆れながらも、次に何を話してくれるのかと、心のどこかで楽しみにしていた。

明日も、そんな日々が続くと思っていた。

明日もアルトは帰ってくる。

明日も一緒に食事をする。

明日も、いつものように笑い合う。

――それが、当たり前ではなかったことを、俺は今になって思い知らされた。


「……ありがとう、アルト」


ふと、言葉が口からこぼれた。

人間の言葉だった。

以前の俺には、声に出して人間の言葉を話すことなどできなかった。どれだけ伝えたいことがあっても、鳴き声や仕草で示すことしかできなかったはずだ。

進化したことで、俺の身体は変わった。

今なら、人間の言葉で話せる。

けれど、もっと早く話せていたら、何かが変わっていたのだろうか。

もっと早く、感謝を伝えられていたら。

もっと早く、自分の気持ちを言葉にできていたら。

……いや。

俺は小さく首を振った。

今さら、過去を変えることはできない。

どれだけ願っても、アルトが戻ってくることはない。

だからこそ、今の俺にできることをしなければならなかった。


「……今まで、本当にありがとう」


アルトの顔を見つめながら、もう一度告げた。

届いているかどうかは分からない。

それでも、伝えたかった。

俺を受け入れてくれたこと。

一緒に過ごしてくれたこと。

生きるための知恵だけでなく、誰かと共に過ごすことの温かさを教えてくれたこと。

そのすべてに、感謝していた。

そして、もう一つ。

俺には、アルトからもらった大切なものがあった。

――名前だ。


     ◇

あれは、俺がアルトと暮らすようになって、しばらく経った頃のことだった。

その日も、アルトは狩りから帰ってくると、いつものように俺の頭を撫でてきた。

「ただいま、相棒!」

彼はそう言って、満足そうに笑った。

……いや。

あの頃の俺には、まだ名前がなかった。

「お前も、そろそろ名前が欲しいよなぁ」

アルトは俺の前にしゃがみ込み、顎に手を当てた。

「いつまでも『相棒』じゃ、呼びにくいしな。俺としても、家族に名前がないっていうのは、ちょっと寂しいし」


家族。

その言葉に、俺の耳がぴくりと動いた。

当時の俺は、まだ人間の言葉を話せなかった。アルトが何を考えているのか、すべてを理解できたわけではない。

それでも、その声の調子や表情から、俺に何かを伝えようとしていることは分かった。

アルトはしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。

「……ガルファング、なんてどうだ?」

聞き慣れない音だった。

俺は首を傾げた。

「おっ、気になるか?」

アルトは楽しそうに笑った。

「ガルファング。強そうだし、お前に似合ってると思うんだよな。ちょっと長いけど……そうだな。普段はガルって呼ぶことにしよう」

そう言って、彼は俺の頭を優しく撫でた。


「よろしくな、ガル」

その瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。

名前をもらう。

たったそれだけのことなのに、俺には、それが何よりも大切なことのように思えた。

この世界に生まれてから、俺はずっと一匹の魔物として生きてきた。

名前もなく、誰かに呼ばれることもなく、ただ生き延びるために森をさまよっていた。

けれど、アルトは俺に名前をくれた。

俺をただの魔物としてではなく、一緒に暮らす存在として見てくれた。


「ガル」


もう一度、アルトが呼んだ。

俺は思わず、彼の手に頭をすり寄せた。

アルトは一瞬驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「ははっ、気に入ってくれたみたいだな!」


その笑顔を、俺は今でも覚えている。

――ガルファング。

それが、俺の名前。

そして、ガル。

アルトが俺を呼ぶときの名前だった。

     ◇

「……ガル、か」


俺は、アルトの傍らで小さく呟いた。

今なら、はっきりと声に出して話せる。

けれど、俺の名前を呼んでくれた本人は、もうここにはいない。


「……なあ、アルト」


返事がないことは分かっていた。

それでも、言葉が止まらなかった。


「俺、お前に名前をもらえて……本当に嬉しかったんだ」


目の奥が熱くなった。

名前なんて、ただ他人を呼ぶためのものだと思っていた。

けれど、アルトからもらった名前は違った。

俺がここにいてもいいのだと。

俺が誰かにとって大切な存在になれるのだと。

そう思わせてくれるものだった。


「……ありがとう」


俺は深く頭を下げた。

そして、ゆっくりと立ち上がった。

悲しみが消えたわけではない。

悔しさも、後悔も、胸の奥に残ったままだ。

それでも、いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかなかった。

まずは、アルトをきちんと送り出そう。

それが、今の俺にできることだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。