第十六話 君の名前は②
◇
アルトを埋葬する場所は、家の近くにある木々の間に決めた。
大きな木が一本立ち、その枝の隙間から柔らかな光が差し込む場所だった。
エルバフ国の辺境の町に近いこの森で、アルトはずっと暮らしてきた。
狩りに出て、町で必要な物を買い、またこの家へ帰ってくる。
彼にとって、ここが生活の中心だった。
ならば、最後もこの森で眠ってほしい。
俺はそう思った。
「……ここにしよう」
誰に聞かせるでもなく呟き、地面に前脚をかけた。
爪を立て、土を掻き出す。
一度に掘り進められるほど簡単な作業ではなかった。土は思ったよりも固く、木の根が邪魔をすることもあった。
それでも、俺は黙々と掘り続けた。
進化したことで、身体の力は以前よりも増している。
それでも、墓穴を掘る作業は簡単ではなかった。
何度も手を止めそうになった。
この穴を掘り終えれば、アルトを埋めなければならない。
土をかけてしまえば、もうその顔を見ることもできなくなる。
そう考えるたび、胸が苦しくなった。
それでも、俺は爪を動かした。
最後まで、自分の手でやり遂げたかった。
やがて、十分な深さの穴ができた。
俺はアルトのもとへ戻り、その身体をできる限り丁寧に運んだ。乱暴に扱わないよう、何度も足元を確かめながら歩く。
穴の前までたどり着くと、俺は静かに彼を横たえた。
そこにいるのは、もう動かないアルトだった。
いつも俺を導いてくれた人。
この世界で初めて、俺に居場所を与えてくれた人。
そして、俺に名前をくれた人。
「……本当に、もう起きないんだな」
自分で口にしておきながら、その言葉を認めたくなかった。
返事はない。
森の風が吹き抜け、木々の葉を揺らすだけだった。
俺はしばらくアルトを見つめていた。
もっと話したかった。
もっと教えてほしいことがあった。
いつかこの森の外へ出て、旅の話を聞かせたかった。
そして、旅先から帰ってきたときには、またあの声で名前を呼んでほしかった。
――ガル。
たった二文字の呼び名が、今はどうしようもなく遠い。
俺は静かに頭を下げた。
「……またな、アルト」
それから、土を戻し始めた。
一掻き、また一掻き。
土が積み重なるたび、アルトの姿が少しずつ見えなくなっていく。
俺は何度も目を伏せた。
それでも、最後まで手を止めなかった。
やがて穴は埋まり、地面が平らになった。
俺は周囲を見渡し、墓標にできそうな石を探した。
少し離れたところに、俺の身体ほどもある大きな石があった。進化した身体で力を込め、どうにか墓の前まで運ぶ。
その周りにも小さな石を並べ、墓の形を整えた。
立派な墓ではない。
名前を刻むこともできない。花を供えることもできない。
それでも、俺にできる限りのことはしたつもりだった。
ここにアルトが眠っている。
俺に名前をくれた人が、ここで眠っている。
それを忘れないための、小さな墓だ。
俺は墓の前に座り込んだ。
「アルト。お前が教えてくれたこと、俺は忘れない」
森で生き残りたいなら、目の前のものをよく見ること。
見た目だけで判断せず、分からないことをそのままにしないこと。
そして、生き物にはそれぞれの生き方があるということ。
アルトが教えてくれた言葉は、これから先も俺の中に残り続けるだろう。
以前の俺なら、失ったものを嘆き、すべてを投げ出していたかもしれない。
誰かを信じた自分が間違っていたのだと、また心を閉ざしていたかもしれない。
けれど、アルトと過ごした日々まで否定することはできなかった。
彼と出会えたことを、後悔したくない。
彼を失った悲しみは消えないだろう。
それでも、出会わなければよかったとは思わない。
アルトがいたから、俺はもう一度、誰かを信じることができた。
誰かと過ごす時間を、大切だと思えるようになった。
そして、自分が誰かにとって大切な存在になれるのだと知った。
「……行ってくる、アルト」
俺は墓に向かって頭を下げた。
今度こそ、立ち上がった。
◇
家に戻ると、俺はそこで初めて、戦いの跡をまともに見た。
壁には深い爪痕が残り、家具はなぎ倒され、床には割れた木片が散らばっていた。
そして、玄関の扉は――見る影もなかった。
黄金の人狼が押し入ったとき、扉は無残に破壊されていたのだ。
蝶番は歪み、木材は砕け、入口からは家の中が丸見えになっている。
以前なら、アルトがきちんと直していただろう。
「まったく、派手にやってくれたな……」
思わず、そんな言葉が漏れた。
返事をする者はいない。
俺は壊れた扉を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ここは、アルトが暮らしていた家だった。
彼が父親から受け継いだものを大切にし、毎日の生活を積み重ねてきた場所。
俺にとっても、初めて安心して眠れる場所だった。
その家が、今では戦いの跡に覆われている。
……だが、壊れたのは扉だけではなかった。
俺の日常も、アルトと過ごす未来も、もう元には戻らない。
それでも、ここに残されたものまで失うわけにはいかなかった。
俺は気持ちを切り替え、旅支度を始めた。
まず、壁際に立てかけられていた大きな斧を手に取る。
アルトの父親、ライントが使っていたものだ。
アルトはこの斧を使って狩りをしていた。森で生きるための知識を教えてくれたときにも、よく傍らに置いていた。
ライントが残したものの一つであり、アルトにとっても大切な道具だったのだろう。
俺は斧の柄を確かめ、バックパックの脇にしっかりと固定した。
次に、旅に必要な道具を集める。
夜営用の毛布。雨風をしのぐための布。火を起こす道具。水筒。保存の利く食料。調理用の小鍋。縄や布切れ、傷を負ったときに使う包帯。それから、森を歩く際に役立つナイフ。
一つずつ手に取り、使える状態かを確かめてから、バックパックへ詰めていった。
荷物が多すぎれば、旅の邪魔になる。
かといって、必要なものを持たずに出発すれば、いずれ困ることになる。
アルトなら、きっと必要なものと不要なものを慎重に見極めただろう。
俺もそれに倣い、持っていく物を選んでいった。
その途中、棚の奥に並んだ本が目に留まった。
森の生き物について書かれた本。薬草の見分け方をまとめた本。そして、二冊の日記。
一冊は、アルトの日記。
もう一冊は、父親であるライントの日記だった。
俺は二冊を手に取り、表紙についた埃をそっと払った。
ライントの日記には、アルトが森で生きるために学んだ知識の一部が記されているはずだ。アルト自身も、父親から教わったことを大切にしていた。
ならば、これも持っていこう。
俺は二冊の日記と必要な本を布で包み、濡れないようバックパックの中へ丁寧にしまった。
重みが増したが、気にはならなかった。
これは、ただの荷物ではない。
アルトが残したもの。そして、アルトを育てたライントが残したものだ。
二人が生きていた証を、俺はこれからも持ち歩きたいと思った。
最後に、机の引き出しを開けた。
中には、アルトが町での買い物などに使っていた金が保管されていた。
この森の近くには、エルバフ国の辺境の町がある。アルトは狩った魔物の素材を売り、生活に必要な物を買っていた。
引き出しの中には、金貨、銀貨、銅貨が分けて置かれていた。
俺は必要な分を考えながら硬貨を確かめ、その中から銀貨を二十枚選んだ。
まずは旅に必要な物を買い足し、町で情報を集めるつもりだ。今から大金を持ち歩く必要はない。
銀貨を小袋にまとめ、バックパックの内側へしまった。
これで、ひとまず準備は整った。
……いや、まだ確認しておきたいものがある。
俺は机の上に置いたアルトの日記を取り出した。
これまで何度か目にしたことはあったが、最初からじっくり読んだことはなかった。
アルトは何を考え、何を望んでいたのだろう。
今となっては、日記に残された言葉が、彼の知らなかった一面を教えてくれるかもしれない。
俺は椅子に腰を下ろし、表紙を開いた。
最初の方には、日々の狩りや町で買った物について書かれていた。森で見つけた薬草や、初めて見る魔物についての記録もある。
アルトらしい、実直な記録だった。
ページをめくるうちに、俺はある一文で手を止めた。
『いつか、エルバフ国にある塔を見に行きたい』
俺は、その文字をじっと見つめた。
塔。
詳しい説明はなかったが、アルトがいつか訪れてみたいと思っていた場所らしい。
その前後のページにも、旅への憧れを感じさせる言葉がいくつか記されていた。
森の外には、まだ知らない土地がある。
見たことのない町があり、知らない人々が暮らし、俺の知らない生き物が生きている。
アルトも、そんな世界を見てみたかったのだろう。
けれど、彼はこの森で暮らし続けた。
父親を亡くしてからは、自分で生活を支えなければならなかった。身体も丈夫ではなく、遠くまで旅をするのは簡単ではなかったはずだ。
それでも、外の世界への憧れを捨てたわけではなかった。
日記に残された短い一文から、そんな思いが伝わってくる気がした。
俺は日記を閉じ、表紙をそっと撫でた。
「……そうか。お前も、行きたかったんだな」
アルトが見たかった景色。
彼がどんな思いで、その場所に憧れていたのか。
今の俺には、まだ分からない。
けれど、少なくとも一つだけ決めたことがあった。
この目で、その塔を見に行こう。
アルトが見たかった世界を、俺も見てみたい。
彼が残してくれたものを抱えて、彼が歩けなかった道を進んでみたい。
それが、今の俺にできることだと思った。
俺はアルトの日記をしまい、続けてライントの日記も取り出した。
こちらはまだ、ほとんど読んでいない。
旅の途中で少しずつ読んでいけばいいだろう。森で生きるための知識だけでなく、アルトが父親から何を学んだのかも知ることができるかもしれない。
俺は二冊の日記を確かめ、バックパックの中に大切にしまい直した。
最初の目的地は、エルバフ国にある『塔』。
まずは町へ向かい、旅に必要な物を補充しよう。それから、塔までの道を調べればいい。
何もかもが初めての旅だ。
道に迷うこともあるだろう。危険な魔物に遭遇することもあるかもしれない。
それでも、進まなければ何も始まらない。
俺はバックパックを背負い、斧の固定を確かめた。
ずしりとした重みが肩にかかる。
けれど、その重みは不思議と嫌ではなかった。
◇
荷物をまとめ終えた俺は、家の外へ出た。
森には夕暮れの光が差し込んでいた。
木々の間から見える空は赤く染まり、長い影が地面を伸ばしている。
そして、目の前には黄金の人狼の亡骸があった。
戦いが終わったときから、ずっとそこに横たわっていたものだ。
俺はしばらく、その姿を見つめた。
こいつがアルトを奪った。
こいつが、俺たちの日常を壊した。
胸の奥から、どうしようもない怒りが込み上げてくる。
今すぐにでも、何度でも殴りつけてやりたいと思った。
だが、俺は動かなかった。
もう、こいつは動かない。
俺がどれだけ怒りをぶつけたところで、アルトは戻ってこない。
それに、俺がこれから先も生きていくためには、この出来事と向き合わなければならない。
俺はゆっくりと息を吐き、黄金の人狼へ近づいた。
毛並みは、夕日の光を受けて鈍く輝いていた。
その姿は、戦いの最中に見せた圧倒的な威圧感とは違い、ただの亡骸にすぎなかった。
俺は、かつてアルトから教わったことを思い出した。
魔物を狩ったとき、素材を回収してから魔石を取り出すこと。魔石を取り出せば、魔物の身体は消えてしまうこと。
ならば、こいつからも回収できるものがあるはずだ。
俺は黄金の人狼の身体を確かめ、毛皮や爪など、素材として残せそうなものを慎重に回収した。
気分のいい作業ではなかった。
こいつを倒したからといって、勝ったという実感などない。
アルトを失った事実は変わらない。
それでも、俺は最後まで作業を続けた。
やがて、必要な素材を回収し終えると、俺は黄金の人狼の魔石を取り出した。
その瞬間、亡骸は光の粒子となって崩れ、風に溶けるように消えていった。
残されたのは、俺の手の中にある魔石だけだった。
俺はそれをしばらく見つめ、静かに袋へしまった。
「……これで終わりだ」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
怒りが消えたわけではない。
許せたわけでもない。
ただ、これ以上ここに留まっていても、何も変わらない。
俺は黄金の人狼が消えた場所から目を離し、壊れた家を振り返った。
扉は砕け、壁には爪痕が残り、アルトが暮らしていた痕跡がそこかしこにある。
この家で、俺は初めて誰かと暮らした。
初めて、誰かの帰りを待った。
初めて、自分が誰かにとって大切な存在なのだと思えた。
だからこそ、ここを離れることが怖かった。
扉を閉めることさえできない家を見ていると、まるでアルトが本当にいなくなってしまったことを突きつけられているようだった。
けれど、いつまでもここに残るわけにはいかない。
俺は、壊れた扉の向こうを最後に見つめた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
アルトに。
この家に。
そして、ここで過ごした日々に。
俺は深く頭を下げた。




