第十六話 君の名前は③
◇
家の前に立ち、俺は一度だけ振り返った。
もう、扉はない。
壁には爪痕が残り、窓の一部も壊れている。
それでも、俺にとっては大切な場所だった。
ここでアルトと過ごした時間は、決して消えない。
けれど、この場所に留まり続ければ、俺はきっと前へ進めなくなる。
悲しみを忘れたいわけではない。
アルトとの思い出を捨てたいわけでもない。
ただ、これから先も生きていくために、別れを告げなければならなかった。
俺は家の中から持ち出した火起こしの道具を取り出した。
そして、家の周囲に残っていた乾いた木片を集め、火をつけた。
最初は小さな火だった。
風に揺れ、頼りなく明滅していた炎は、やがて乾いた木材へと燃え移っていく。
ぱちり、と小さな音がした。
炎が壁を舐め、屋根へと広がっていく。
煙が立ち上り、夕暮れの空へ溶けていった。
俺は、その様子をただ見つめていた。
この家を燃やせば、アルトが暮らしていた場所はなくなる。
彼が使っていた机も、棚も、食器も。
ここで過ごした日々を思い出させるものは、少しずつ灰になっていく。
それでも、アルトとの思い出まで燃えてしまうわけではない。
彼が教えてくれたこと。
一緒に過ごした時間。
俺につけてくれた名前。
それらは、もう俺の中にある。
この家がなくなっても、失われることはない。
「……さよなら」
声に出すと、胸の奥がひどく痛んだ。
けれど、今度は目を背けなかった。
燃え上がる炎を最後まで見つめた。
やがて、家の輪郭が煙と炎に包まれ、見慣れた屋根が崩れ落ちた。
その音を聞いた瞬間、俺はようやく理解した。
本当に、終わったのだ。
アルトと過ごした日々は、もう戻ってこない。
この家に帰れば、彼がいるという未来も、もう存在しない。
それでも。
俺は、生きていかなければならない。
アルトが生きていたことを忘れないために。
彼が俺に与えてくれたものを、無駄にしないために。
そして、いつか彼が見たかった世界を、自分の目で見るために。
俺はゆっくりと背を向けた。
もう、振り返らなかった。
◇
森の出口へ向かって歩きながら、俺は空を見上げた。
夕暮れの光は、少しずつ薄れていく。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、風が木々を揺らしていた。
いつもと変わらない森の音。
けれど、今の俺には、その音が先ほどよりも少しだけ近く感じられた。
悲しみが消えたわけではない。
悔しさも、後悔も、胸の奥に残ったままだ。
それでも、いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかない。
アルトは、俺に生きるための知恵を教えてくれた。
見た目だけで判断するな。
分からないことを、そのままにするな。
目の前にあるものを、よく見ろ。
その言葉を胸に刻み、俺は歩き続ける。
この世界がどんな場所なのか。
どんな人間がいて、どんな魔物がいて、どんな景色が広がっているのか。
自分の目で見て、自分の頭で考えたい。
そして、いつか本当に強くなれたときには、大切なものを守れる存在になりたい。
まだ、その方法は分からない。
今の俺にできることも限られている。
それでも、歩き出すことはできる。
俺には、アルトからもらった名前がある。
ガルファング。
そして、ガル。
彼が俺を呼ぶためにつけてくれた、大切な名前だ。
名前を呼んでくれる人は、もういない。
けれど、その名前を胸に刻んで生きていくことはできる。
いつか、誰かに自分の名前を尋ねられたなら、俺は胸を張って答えよう。
俺の名前は、ガルファングだと。
大切な人が、俺につけてくれた名前なのだと。
そして、いつかまた誰かと出会ったとき。
その人と過ごす時間を、恐れずに大切にできるようになりたい。
失うことが怖くても。
傷つくことが怖くても。
それでも、誰かと出会えたことを後悔しないように。
「……行ってくるよ、アルト」
俺は、もう一度だけ呟いた。
返事はない。
それでも、今度は立ち止まらなかった。
アルトが見たかった世界を、俺も見に行こう。
彼が歩けなかった道を、俺が歩いていこう。
そして、いつか旅先から戻ったときには、胸を張って話せるようになりたい。
こんな場所へ行った。
こんな人と出会った。
こんな景色を見た。
そんな話を、笑いながら語れるようになりたい。
もう、聞いてくれる本人はいない。
それでも、俺は歩き続ける。
アルトとの思い出を胸に。
彼がくれた名前を背負って。
そして、いつか自分自身の答えを見つけるために。
こうして俺は、アルトとの別れを胸に刻み、新たな旅へと踏み出した。




