断章 アルトという男の人生
アルトは、世界を旅することに憧れていた。
まだ幼かった頃、彼にとって世界とは、家の窓から見える森と、その向こうに広がる空だけだった。
森には知らない生き物がいて、知らない花が咲き、季節が変わるたびに違う顔を見せてくれる。
それだけでも十分に不思議な世界だった。
けれど、アルトの父は知っていた。
その森の向こうには、さらに広い世界が広がっていることを。
父の名は、ライント。
世界各地を渡り歩いてきた冒険者だった。
家に帰ってきた父は、いつも旅の話をしてくれた。
遠く離れた国のこと。
人族とは異なる種族のこと。
巨大な魔物が棲む山や、見渡す限りの砂に覆われた大地。
アルトが一度も見たことのない景色を、ライントはまるで昨日の出来事であるかのように語った。
アルトは、その話を聞くのが大好きだった。
「父さん」
「ん?」
「世界って、そんなに広いの?」
「ああ。お前が想像しているより、ずっとな」
ライントは笑いながら答えた。
「俺だって、世界のすべてを知っているわけじゃない。行ったことのない場所も、見たことのないものも、まだまだたくさんある」
「父さんでも?」
「俺でも、だ」
そう言って、父はアルトの頭をくしゃりとなでた。
「だから、面白いんだろうな」
その言葉が、アルトの胸に残った。
世界のすべてを知っている人間などいない。
どれほど遠くまで行っても、その先には知らない景色が待っている。
ならば、自分も見てみたい。
父が見た景色を。
父が歩いた道を。
そして、父でさえ知らない世界を。
「俺もいつか、世界を旅したい!」
幼いアルトがそう宣言すると、ライントは目を丸くした。
それから、心底おかしそうに笑った。
「そうか。そいつはいいな」
「本当!?」
「ああ。ただし、旅に出るなら覚えておけ」
ライントは笑みを収め、アルトの目をまっすぐに見つめた。
「森で生き残りたいなら、目の前のものをよく見ろ。見た目だけで判断するな。分からないものを、分からないまま放っておくな」
幼いアルトには、少し難しい言葉だった。
「どういうこと?」
「目の前にあるものを、ちゃんと自分の目で確かめろってことだ。怖そうなものが本当に危険とは限らないし、優しそうなものが安全とも限らない。知らないなら、知ろうとしろ」
ライントは、アルトの小さな手を取った。
「自分で見て、考えて、それから決めろ。それが生き残るために大切なことだ」
アルトは何度もうなずいた。
その言葉が、いつか自分の人生を変えることになるなど、まだ知るはずもなかった。
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ライントは、息子に多くのことを教えた。
弓の扱い方。
獲物の足跡を見分ける方法。
風向きから相手の位置を探ること。
森で道に迷わないための知識。
そして、危険を前にしたとき、焦らず周囲を観察すること。
アルトは父ほど器用ではなかった。
弓を引けば狙いが外れ、獲物を追えば途中で見失い、覚えたはずの道で迷うこともあった。
「父さん、俺には冒険者なんて無理なのかな」
うまくいかなかった日の夕暮れ、アルトは落ち込んだ声でそう尋ねた。
ライントは、息子の手元にある弓を見た。
「どうしてそう思う?」
「父さんみたいにできないから」
「当たり前だろう」
あまりにもあっさり言われ、アルトは顔を上げた。
「俺は長いこと旅をしてきた。お前はまだ、始めたばかりだ」
ライントは息子の頭に手を置いた。
「最初から何でもできる人間なんて、そうはいない。失敗したなら、何が悪かったのか考えろ。分からないなら、もう一度よく見ろ」
「……うん」
「それに、俺と同じになる必要はない」
父は少しだけ目を細めた。
「お前には、お前にしか見つけられないものがあるかもしれないだろう?」
その言葉に、アルトは顔を上げた。
父のようになりたかった。
父のように強く、どこまでも自由に旅ができる人間になりたかった。
けれど、父は自分と同じ道を歩くことだけを望んでいたわけではなかった。
アルト自身が、自分の目で世界を見つけること。
それこそが、父の願いだったのだ。
その日から、アルトは失敗してもすぐには諦めなくなった。
うまくいかなければ、もう一度考える。
分からなければ、調べる。
それでも分からなければ、分からないということを覚えておく。
いつか旅に出る日のために。
父と並んで歩ける日を夢見ながら。
アルトは少しずつ成長していった。
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けれど、願いはいつも、思い描いた形で叶うとは限らない。
三年前。
アルトが十五歳のとき、ライントは旅先で命を落とした。
その知らせを聞いた日のことを、アルトは生涯忘れなかった。
父は、もう帰ってこない。
それだけが、何度聞かされても理解できなかった。
いつもなら、旅の途中で何日も帰らないことがあった。
だから、最初は今回もそうなのだと思った。
少し待てば、いつものように扉が開く。
「ただいま」
そう言って父が帰ってくる。
そして、旅先で見つけた珍しいものを見せてくれる。
次はどこへ行こうかと、地図を広げて話をしてくれる。
そんな光景を、アルトは何度も思い描いた。
けれど、扉が開くことはなかった。
父が使っていた道具だけが、家に残されていた。
使い込まれた弓。
旅の傷跡が刻まれた鞄。
何度も開かれた地図。
そして、父の手で書き残された日記。
そこに父の姿はなかった。
声も、笑顔も、頭をなでてくれる手も。
もう二度と、戻ってはこなかった。
「……父さん」
返事のない家の中で、アルトは小さく呼んだ。
何も返ってこなかった。
泣いた。
何度も泣いた。
それでも、どれほど泣いても、父が帰ってくることはなかった。
父のいない世界は、あまりにも広すぎた。
あれほど憧れていた世界が、突然、恐ろしい場所に思えた。
父はその広い世界を歩き、帰ってこなかった。
自分にも、同じことができるのだろうか。
自分は、父のようになれるのだろうか。
いや。
そもそも、自分は一人で生きていけるのだろうか。
アルトは父の残した地図を広げた。
紙の上には、まだ知らない土地がいくつも記されていた。
いつか訪れたいと思っていた場所。
父が話してくれた景色。
まだ名前しか知らない国。
そのすべてが、今はひどく遠く感じられた。
アルトは、地図をたたんだ。
旅に出ることを、諦めたわけではなかった。
ただ、一人で踏み出す勇気がなかった。
父がいなくなった世界で、どうすればいいのか分からなかった。
だから彼は、森の家に残った。
父の道具を手入れし、狩りを覚え、町で魔物の素材を売りながら暮らした。
毎日を生きるために必要なことを、一つずつこなしていった。
それでも夜になると、父の日記を開いた。
ページの向こうには、父がいた。
知らない土地で食べた料理の感想。
思いがけず助けられた旅人の話。
思いどおりにいかなかった狩りの記録。
何でもない日常の出来事まで、父は丁寧に書き残していた。
読み進めるたび、アルトは父の声を思い出した。
そして、いつも最後には同じことを考えた。
――俺も、いつか。
いつか自分の足で、この家を出よう。
父が見た世界を、自分の目で見よう。
その願いだけは、どうしても捨てられなかった。
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アルトの身体は、生まれつき丈夫ではなかった。
長い距離を歩き続けることも、無理をして身体を動かすことも、得意ではなかった。
とりわけ魔法への耐性が低く、危険な場所へ足を踏み入れることには大きな不安があった。
父のように世界を旅する。
口にするのは簡単だった。
けれど、その一歩を踏み出すためには、越えなければならない壁がいくつもあった。
それでもアルトは、森での暮らしを続けた。
父から教わった弓で獲物を狩り、足跡を追い、風の流れを読む。
自分にできることを、少しずつ積み重ねた。
父の残した地図は、いつも家の中にあった。
ときどき広げては、知らない土地を指でなぞった。
「ここには、どんな景色があるんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
もちろん、返事はない。
それでも、そうやって地図を眺めていると、少しだけ父が近くにいるような気がした。
いつか旅に出る。
その夢を捨ててしまったら、父と過ごした日々まで遠くなってしまう気がした。
だから、アルトは夢を持ち続けた。
叶うかどうかも分からない夢を。
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その日、森の中で一匹の狼を見つけた。
最初に目に入ったのは、暗い灰色の毛並みだった。
狼は警戒するようにこちらを見ていた。
その身体には、どこか不自然なぎこちなさがあった。
普通の狼とは違う。
けれど、何が違うのかは分からなかった。
アルトは弓に手を伸ばしかけ、やめた。
狼もまた、アルトの動きを注意深く見ていた。
逃げるべきか。
近づくべきか。
互いに相手の様子をうかがう、奇妙な時間が流れた。
そこで、アルトは父の言葉を思い出した。
――見た目だけで判断するな。
――分からないものを、分からないまま放っておくな。
目の前の狼が何者なのか、アルトには分からなかった。
危険な魔物かもしれない。
近づけば襲われるかもしれない。
それでも、何も確かめないうちから、ただ恐れて追い払う気にはなれなかった。
「……お前、どうしたんだ?」
当然、返事はない。
狼はじっとアルトを見つめていた。
その瞳に宿るものが何なのか、アルトにはまだ分からなかった。
けれど、不思議と目をそらせなかった。
その出会いが、自分の人生の最後に残る大切な記憶になることを、アルトは知らなかった。
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狼と暮らす日々は、思いのほか賑やかだった。
初めのうちは、互いに距離を取っていた。
アルトは狼を警戒し、狼もまた、アルトの一挙一動をうかがっていた。
しかし、同じ屋根の下で過ごすうちに、少しずつ変化が生まれた。
食事を用意すれば、狼はそばで待つようになった。
狩りに出れば、アルトのあとをついてくることもあった。
もっとも、狩りがうまくいくとは限らない。
狼が獲物を追いかけ、勢い余って転ぶこともあれば、アルトが思わず笑ってしまうような失敗をすることもあった。
そんなとき、狼は決まって不満そうな顔をする。
少なくとも、アルトにはそう見えた。
「悪い悪い。笑うつもりはなかったんだ」
そう言いながら、結局また笑ってしまう。
狼はそっぽを向く。
その仕草が妙に人間くさくて、アルトはますますおかしくなった。
一人で暮らしていた家に、少しずつ音が増えていった。
食事の音。
歩き回る足音。
外へ出ようと誘うような仕草。
何でもない日常の中に、小さな楽しみが生まれた。
アルトは、気づけば狼に話しかけるようになっていた。
今日、町で何があったのか。
森でどんなものを見つけたのか。
父の日記に、どんなことが書いてあったのか。
狼が理解しているのかどうかは分からない。
それでも、話さずにはいられなかった。
「なあ。いつか、この森の外へ行ってみたいと思わないか?」
ある日、アルトは狼に尋ねた。
狼は、静かにこちらを見ていた。
「俺はさ、世界を旅するのが夢なんだ。父さんが見てきた景色を、自分の目で見てみたい」
そこで一度、言葉を切った。
「……でも、まだ怖いんだよな」
口に出してみると、思っていた以上に素直な言葉だった。
「身体も強くないし、何が起こるかも分からない。父さんみたいには、なれないかもしれない」
狼は何も言わなかった。
当たり前だ。
ただの独り言だ。
アルトは苦笑し、狼の頭に手を伸ばした。
「悪い。こんな話をしても、困るよな」
狼は少しだけ頭を動かした。
その動きが何を意味していたのか、アルトには分からなかった。
それでも、なぜか胸の奥が温かくなった。
父を失ってから、アルトは自分の夢を誰かに話すことが少なくなっていた。
夢を語れば、叶えられなかったときに傷つく。
誰かに期待すれば、失ったときに寂しくなる。
そう考えて、知らず知らずのうちに、心の中へしまい込んでいたのかもしれない。
けれど、狼の前では、不思議と口にできた。
馬鹿にされることもない。
無理だと決めつけられることもない。
ただ、そこにいてくれる。
それだけのことが、こんなにも心を軽くしてくれるとは思わなかった。
アルトは笑った。
今度は、狼の失敗を見て笑ったときとは違う笑顔だった。
「……ありがとな」
狼は首をかしげた。
アルトは、その姿を見て、また少し笑った。
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それからの日々は、穏やかに過ぎていった。
アルトの身体が強くなったわけではない。
旅に出るための問題が、すべて解決したわけでもない。
父が帰ってくることもなかった。
それでも、アルトの毎日には、確かな変化があった。
朝、目を覚ますと、狼がいる。
食事をするときにも、狩りに出るときにも、帰ってきたときにも。
一人きりだった家に、誰かがいる。
ただ、それだけだった。
けれど、父を失ってからのアルトにとって、それは決して小さなことではなかった。
いつしか、彼は未来を考えるようになっていた。
この森を出たら、まずはどこの町へ行こう。
その先には、どんな景色が広がっているのだろう。
旅に出るなら、何を持っていけばいいだろう。
考えるたび、胸が躍った。
もちろん、不安は消えていない。
一人で旅をすることへの恐怖も、身体の弱さも、そのままだ。
けれど、以前のように、地図を閉じてしまうことは少なくなった。
アルトはまだ、旅に出ていない。
それでも、夢へ向かって歩き出す準備を、少しずつ始めていた。
そして、いつかこの家を出るときには、狼にも一緒に来てほしいと思うようになっていた。
この奇妙な同居人が、どんな世界を見て、何を考えているのか。
もっと知りたいと思った。
一緒に見たことのない景色を見てみたいと思った。
その願いが叶う未来を、アルトは確かに想像していた。
だからこそ、あの日の出来事は、あまりにも突然だった。
---
その夜、森の空気はいつもと違っていた。
静かすぎる。
普段なら聞こえるはずの虫の声も、遠くの獣の鳴き声も、ほとんど聞こえなかった。
アルトは違和感を覚え、周囲を警戒した。
何かがおかしい。
長年暮らしてきた森だからこそ、その異変が分かった。
そして、アルトは出会ってしまった。
人の姿をした、異様な魔物に。
会話が通じる相手ではなかった。
相手の動きは速く、アルトがこれまで森で相手にしてきた魔物とは、明らかに違っていた。
逃げなければ。
そう判断したときには、もう遅かった。
戦いの中で、アルトは深い傷を負った。
身体から力が抜けていく。
息をすることさえ、苦しくなっていく。
それでも、アルトは目の前の狼を見た。
狼は、自分を助けようとしていた。
必死に動き、立ち向かい、こちらへ手を伸ばそうとしていた。
やめろ。
そう言いたかった。
お前まで傷つく必要はない。
逃げてくれ。
生きてくれ。
けれど、言葉は思うように出てこなかった。
アルトは、自分の身体がもう長くはもたないことを理解していた。
怖くなかったと言えば、嘘になる。
まだ生きていたかった。
まだ見たい景色があった。
父が歩いた道を、自分の足で歩いてみたかった。
狼と一緒に森を出て、知らない町を訪れて、見たこともない景色に驚いてみたかった。
ようやく、そうした未来を思い描けるようになったのに。
どうして、今なのだろう。
どうして、もう少しだけ時間をくれないのだろう。
胸の奥に、悔しさが込み上げた。
けれど、目の前にいる狼を見たとき、アルトは別のことを考えた。
この狼は、まだ何も知らない。
森の外にどんな世界が広がっているのか。
どんな町があり、どんな人々が暮らしているのか。
自分がいつか見たいと思っていた景色を、まだ知らない。
そして、狼には未来がある。
自分が見ることのできない未来が。
「……なあ」
アルトは、かすれた声で呼びかけた。
狼が顔を近づける。
その目を見つめながら、アルトはゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺さ……本当は、もっと生きたかったんだ」
狼の身体が震えた。
「まだ、行きたい場所がたくさんあった。父さんが見た景色も、父さんが知らなかった世界も……自分の目で見てみたかった」
声が途切れた。
それでも、アルトは続けた。
「でも……お前なら、行けるかもしれない」
狼は首を横に振るように動かした。
嫌だ。
そう言っているように見えた。
アルトは、わずかに笑った。
「そんな顔するなよ」
本当は、こんなことを言いたくなかった。
別れたくなかった。
もう少しだけ、一緒にいたかった。
何でもない話をして、失敗を笑って、明日の食事を考えて。
そんな日々を、これからも続けていたかった。
けれど、自分にはもう、その時間が残されていない。
だから、せめて。
せめて、この狼には生きてほしかった。
「……頼みがある」
アルトは、残された力を振り絞って伝えた。
自分を食べてほしい、と。
それが狼の進化につながる可能性があるのなら、生き延びるために使ってほしい、と。
それは、簡単に口にできる願いではなかった。
けれど、アルトは本気だった。
自分がここで終わるのなら、その先に何かを残したかった。
「お前には……生きてほしいんだ」
狼は、動かなかった。
その瞳に、苦しみが浮かんでいた。
アルトには分かった。
きっと、この狼は自分を食べたくないのだ。
それでも、伝えなければならなかった。
「俺の夢まで、諦めなくていい」
アルトは、ゆっくりと息を吸った。
「世界を見てきてくれ。俺が見られなかった景色を……お前の目で見てほしい」
言葉を重ねるたび、意識が遠のいていく。
それでも、最後に伝えたいことがあった。
「それから……」
アルトは狼を見つめた。
森で初めて出会ったときから、ずっと不思議な狼だった。
何かを考えているような目。
こちらの言葉を理解しているような反応。
ときどき、人間のように感情を見せる仕草。
アルトは、とうとうその理由を知ることができなかった。
それでも、そんなことはもう、どうでもよかった。
「お前と過ごせて……よかった」
涙がにじんだ。
自分でも、なぜ涙が出るのか分からなかった。
死ぬことが怖いからだろうか。
夢を叶えられなかったことが悔しいからだろうか。
それとも、大切な存在を置いていかなければならないことが、悲しいからだろうか。
きっと、そのすべてだった。
「……ありがとな」
アルトは、最後に笑おうとした。
いつものように。
狼が失敗したときに見せた、あの笑顔で。
うまく笑えたかどうかは、自分でも分からなかった。
視界がぼやけていく。
狼の姿が、少しずつ遠くなっていく。
ああ。
もう、終わるのか。
そう思ったとき、アルトの脳裏に父の姿が浮かんだ。
焚き火の向こうで笑っていた父。
自分の頭をなでてくれた手。
世界は広いのだと、教えてくれた声。
――分からないものを、分からないまま放っておくな。
父さん。
俺は、ちゃんと見られただろうか。
自分の目で、世界を見ようとしただろうか。
誰かと出会い、誰かを信じ、ほんの少しでも、自分の世界を広げられただろうか。
答えは分からなかった。
けれど。
一人きりだった家に、狼がいた。
一緒に過ごした時間があった。
夢を話せる相手がいた。
それだけは、確かなことだった。
「……父さん」
小さな声が、唇からこぼれた。
「俺……少しは、前に進めたかな」
返事はなかった。
けれど、アルトは不思議と、寂しくなかった。
最後に目に映ったのは、こちらを見つめる狼の瞳だった。
その瞳に、自分は何を残せただろう。
生きてほしい。
世界を見てほしい。
そして、いつか。
自分が見られなかった景色の前で、少しでも笑ってくれたら。
それでいい。
それだけで、いい。
アルトは、ゆっくりと目を閉じた。
その胸から、静かに力が抜けていった。
もう二度と、目を開けることはなかった。
---
その後、狼がどうなったのかを、アルトは知らない。
自分の願いが届いたのか。
狼が生き延びられたのか。
いつか森の外へ出られたのか。
何一つ、確かめることはできなかった。
けれど、もしも願いが届いていたのなら。
もしも、あの狼が自分の言葉を覚えていてくれたのなら。
きっと、いつか。
広い世界のどこかで、知らない景色を見つめているはずだ。
自分が夢見た、あの世界を。
そして、その傍らには、もう自分はいない。
一緒に歩くことも、同じ景色を見て笑うこともできない。
それでも、アルトが残したものは消えない。
父ライントの地図。
父の日記。
旅のために集めた道具。
そして、最後に託した願い。
それらは、アルトの手を離れ、別の誰かの未来へと受け継がれていく。
アルトという男は、世界を旅する夢を抱きながら、その夢を叶えることなく生涯を終えた。
けれど、彼が見つめた世界は、そこで終わらなかった。
彼が出会った狼が、歩いていく。
彼が見られなかった景色へ。
彼が知らなかった未来へ。
そして、いつか誰かと出会い、また新しい何かを見つけるために。
アルトは最後まで知らなかった。
自分が与えた小さな居場所が、狼にとって、どれほど大切なものだったのかを。
自分の何気ない言葉が、どれほど深く、その心に刻まれたのかを。
ただ、一匹の狼を見捨てなかった。
ただ、目の前にいる命を、自分の目で見ようとした。
その小さな選択が、誰かの人生を変えることになるとは、知らないまま。
――これは、世界を旅することを夢見た、一人の青年の人生。
そして、誰かの未来へ、自分の夢を託した男の物語。




