第6話狼の暮らし方②
アルトが本を片づけている間、俺は家の中を歩き回っていた。
改めて見てみると、この家にはいろいろなものがある。
棚に並んだ瓶。
壁に掛けられた道具。
机の隅に置かれた小さな箱。
どれも、アルトがここで暮らすために必要なものなのだろう。
そんなことを考えながら部屋の奥へ進んだとき、俺はふと足を止めた。
壁に、一振りの斧が掛けられていた。
大きな斧だった。
幅広い刃に、長い柄。
薪割りに使う道具にも見えるが、刃の形や全体の作りからして、それだけが用途ではないのだろう。
窓から差し込む光を受け、刃が鈍く輝いている。
俺は思わず見入ってしまった。
人間だった頃なら、こういう武器を手にして冒険する自分を想像したかもしれない。
剣を振るい、魔物と戦い、まだ見ぬ世界を旅する。
そんな英雄のような姿に憧れたこともあった。
けれど、現実はそう甘くない。
今の俺は狼だ。
前脚で斧を握ることすらできるか怪しいし、仮に持てたとしても、まともに振るえるとは思えない。
……夢を見るにも、まずは身体の構造をどうにかしてほしいものだ。
「その斧が気になるのか?」
背後から声がした。
振り返ると、アルトが俺の視線を追うように壁を見上げていた。
「ああ、これか」
彼は斧の近くまで歩いていき、その柄にそっと触れた。
その表情が、ほんの少し柔らかくなる。
「父さんの斧なんだ」
父さん。
その言葉に、俺は改めて斧を見た。
「父さんは冒険者をしていたんだ。いろんな場所を旅して、世界中を見て回ったらしい」
アルトは懐かしそうに話し始めた。
「この家にも、旅先で手に入れたものがいくつかあるんだよ。父さんは旅の話をするのが好きでさ。俺も小さい頃は、何度も聞かされたんだ」
世界中を旅した冒険者。
その言葉に、俺の耳が自然と立った。
広大な草原。
険しい山々。
賑やかな町に、見たこともない生き物。
この世界には、俺の知らない場所がいくつもある。
いや、知らない場所しかないと言ってもいい。
そんな世界を実際に旅してきた人間が、この斧の持ち主だったのか。
……羨ましい。
俺も、いつかこの世界を見て回りたい。
そんな思いが、胸の奥で小さく芽生えた。
「俺、父さんの話を聞くのが好きだったんだ」
アルトは斧を見上げたまま続けた。
「話を聞くたびに、いつか自分も旅に出たいって思ってた。父さんが見た景色を、俺も自分の目で見てみたいって」
その声には、懐かしさがあった。
そして、その奥には、簡単には言葉にできない何かが滲んでいた。
「でも……父さんは三年前に亡くなったんだ」
アルトは静かに告げた。
淡々とした口調だった。
けれど、斧の柄に添えられた手は、そのままだった。
「俺が十五歳のときだった」
――十五歳。
その数字を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。
俺も、前世ではそれくらいの年齢だった。
学校へ行くのが嫌で、部屋に閉じこもっていた日々。
誰かを助けようとして、結局は自分だけが傷ついたこと。
そして、誰にも頼れなくなっていったこと。
思い返せば、あの頃の俺は、何かを諦めることばかり覚えていた。
人を信じることも。
誰かに助けを求めることも。
いつか自分がなりたいと思っていたものさえ、心の奥へ押し込めていた。
けれど、アルトはどうだったのだろう。
十五歳で父親を亡くし、それでも今まで生きてきた。
父親から聞かされた旅の話を覚えていて、その夢を今も胸に抱いている。
俺には、彼がどんな気持ちでこの三年間を過ごしてきたのか分からない。
大切な人を失ったという一点だけで、自分と同じだなんて言うつもりもなかった。
人の痛みは、本人にしか分からないものだから。
それでも――。
同じくらいの年齢で、人生が大きく変わるような出来事を経験した。
その事実が、どうしても心に引っかかった。
俺はアルトの横顔を見上げた。
彼はしばらく斧を眺めていたが、やがて小さく息を吐き、こちらへ顔を向けた。
「……ごめんな。ちょっと昔のことを思い出した」
そう言って、いつものように笑った。
けれど、その笑顔がいつもとまったく同じには見えなかった。
俺は何も言わず、彼の足元へ近づいた。
何か気の利いた言葉をかけられればよかったのだが、残念ながら俺は狼だ。
人間の言葉を理解できても、自分の口で話すことはできない。
だから、今の俺にできるのは――。
そっと、頭を押しつけることくらいだった。
アルトは少し驚いたように目を丸くした。
それから、ゆっくりと俺の頭を撫でた。
「……ありがとな」
小さな声だった。
俺はその手を受け入れながら、壁に掛けられた斧を見上げた。
さっきまでは、ただ大きくて目を引く武器にしか見えなかった。
けれど、今は違う。
この斧には、アルトが幼い頃に聞いた旅の話や、父親と過ごした時間が詰まっているのだろう。
父親がどんな場所を歩き、何を見て、どんな思いでこの斧を振るっていたのか。
俺には分からない。
けれど、アルトにとって大切なものだということだけは分かった。
「この斧は、父さんが使っていたものなんだ。だから、ずっとここに置いてある」
アルトは柄から手を離した。
「別に、特別な武器ってわけじゃないのかもしれない。でも、俺にとっては大切なものなんだ」
……そうか。
父親の形見なのか。
俺はもう一度、斧を見上げた。
そして、アルトの顔へ視線を戻す。
彼は今も、父親が旅した世界を自分の目で見たいと思っている。
その夢は、きっと簡単に捨てられるものではないのだろう。
いつか、彼は旅に出るのだろうか。
この家を離れて、父親が歩いた道をたどるのだろうか。
……そのとき、俺はどうするのだろう。
今はまだ、答えなんて出ない。
ただ一つ確かなのは、俺はこの青年に助けられ、ここで暮らしているということだ。
そして、彼のことをもっと知りたいと思い始めている。
俺はアルトの足元に寄り添った。
アルトは何も言わず、もう一度だけ俺の頭を撫でた。
窓から差し込む午後の光が、静かな部屋を照らしていた。
◇
午後は、家の前で身体を動かすことにした。
アルトに教わった通り、走る速度を落とし、止まりたい場所で止まる。
右へ曲がり、左へ曲がる。
最初はぎこちなかった動きも、繰り返すうちに少しずつ滑らかになってきた。
勢い余って通り過ぎることも減ったし、曲がるときに身体が傾きすぎることも少なくなった。
……よし。
昨日の俺より、確実に成長している。
たかが歩く、走る、止まる。
人間だった頃なら、わざわざ成長を実感するようなことではなかっただろう。
けれど、今の俺にとっては大きな一歩だ。
何もできないことを嘆くより、できることを一つずつ増やしていく。
今は、それでいい。
夕方になると、アルトは食事の準備を始めた。
俺はその傍らで、今日一日を振り返っていた。
狼の身体の動かし方。
この世界の文字。
そして、アルトの父親が残した大きな斧。
どれも、昨日までは深く考えもしなかったことばかりだ。
この世界には、まだ知らないことがたくさんある。
自分がどうして狼になったのか。
この世界には、どんな場所があるのか。
そして、自分はこれからどう生きていくのか。
答えは、まだ何一つ見つかっていない。
けれど、少しずつ知っていけばいい。
身体の動かし方だって、昨日より上手くなった。
文字も、アルトに教えてもらえば覚えられるかもしれない。
できないことがあるなら、練習すればいい。
知らないことがあるなら、教わればいい。
そう考えると、これからの暮らしも悪くない気がした。
「ほら、できたぞ」
アルトの声に顔を上げる。
目の前には、待ちに待った夕食が置かれていた。
肉だ。
今日も肉である。
俺は一瞬たりとも迷わず、かぶりついた。
……うまい。
やはり、食事は大事だ。
どんなに立派な目標を掲げようと、腹が減っていては始まらない。
まずは食べる。
そして、寝る。
明日になったら、また頑張る。
これぞ、狼の健全な生活というものだろう。
……いや、さすがに少しは格好いいことも言っておこう。
明日こそは、自分の力でウサギを捕まえてみせる。
できれば、転ばずに。
「なんだ? また狩りのことを考えてるのか?」
アルトが笑いながら尋ねてきた。
俺は力強く頷いた。
「ははっ。やる気があるのはいいことだな」
アルトは俺の頭を軽く撫でた。
俺は目を細め、その手を受け入れる。
この世界に来てから、まだ数日しか経っていない。
分からないことだらけで、できないことも多い。
それでも、昨日より今日、今日より明日。
少しずつ前に進んでいけばいい。
今は、そう思える。
俺には、いろいろなことを教えてくれる人がいる。
失敗しても笑ってくれる人がいる。
そして、帰る場所と呼べる場所が、ほんの少しだけでき始めている。
……帰る場所、か。
そんなものを持つ日が、もう一度来るとは思っていなかった。
俺は静かにアルトを見上げた。
彼は何も気づいていない様子で、食器を片づけている。
その背中を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
今すぐ何かを決める必要はない。
この世界で何をするのかも、どこへ向かうのかも、まだ分からない。
だからこそ、今は目の前の一日を大切にしよう。
明日も練習する。
文字も、いつか覚える。
そして、いつか自分の足で――いや、四本の脚で、この世界を歩いてみたい。
そんな未来を、少しだけ想像してみた。
――狼としての暮らしは、ゆっくりと形になり始めていた。




