第六話 狼の暮らし方
――狼として生きるのも、楽じゃない。
目を覚まして最初に思ったのは、そんなことだった。
理由は簡単。
腹が減った。
昨日も同じことを考えた気がするが、今の俺にとって食欲は最優先事項だ。哲学も将来の目標も、腹が満たされてから考えればいい。
俺は木の床から起き上がり、大きく伸びをした。
それから、扉の前まで歩いていく。
見上げる先には、昨日と変わらない取っ手。
……高い。
いや、分かっている。昨日も挑戦して、見事に敗北した相手だ。
だが、今日は違う。
俺は取っ手を一瞥すると、何事もなかったかのように踵を返した。
そう、無駄な戦いはしない。
勝てない相手に挑むのは勇気ではなく、ただの無謀だ。
決して、狼としての尊厳を守るために逃げたわけではない。
断じて。
「おはよう。今日はずいぶん大人しいな」
しばらくすると、アルトが部屋から出てきた。
寝起きらしく、少し乱れた髪を手で整えながら、俺と扉を交互に見る。
「昨日はあんなに頑張ってたのに」
……忘れてくれ。
俺は聞こえなかったふりをして、彼の足元をすり抜けた。
「ははっ。分かった、分かった。ほら、朝飯にしよう」
アルトは楽しそうに笑いながら、食事の準備を始めた。
やがて目の前に肉が置かれる。
その瞬間、腹が盛大に鳴った。
昨日、自分で獲物を捕まえると意気込んでいたのは誰だったか。
俺だ。
そして今、他人から肉をもらっているのも俺である。
……人間だった頃の俺が見たら、何と言うだろう。
いや、考えるのはやめておこう。
腹を空かせた狼に、意地なんてものは不要だ。
俺はありがたく肉にかぶりついた。
うまい。
実にうまい。
肉という食べ物は、人間だった頃から好きだったが、狼になってからは別格だ。噛むたびに肉の味が広がり、自然と尻尾まで動いてしまう。
……悔しいが、食事に関しては今の身体のほうが優秀かもしれない。
「今日も練習するか?」
食べ終えた俺に、アルトが尋ねた。
俺はすぐさま頷いた。
昨日はウサギを追いかけ、草むらに突っ込んで終わった。
思い出すだけで情けない。
だが、失敗したからといって諦めるつもりはなかった。
今の俺には、覚えなければならないことが山ほどある。
四本の脚をどう動かすのか。
どうすれば速く走れるのか。
そして、どうすれば勢い余って転ばずに済むのか。
人間だった頃には、意識する必要すらなかったことばかりだ。
「よし。じゃあ、今日は獲物を追う前に、身体の動かし方を練習しよう」
アルトは弓を手に取り、扉を開けた。
俺はその後ろについていく。
目指すは昨日の自分を超えること。
……ついでに、今日こそウサギを捕まえることだ。
◇
「まずはゆっくり歩いてみようか」
家の近くにある開けた場所で、アルトが言った。
俺は四本の脚に意識を向け、一歩ずつ前へ進む。
「足元ばかり見ないで。前を見ながら、周りの様子も確認するんだ」
言われた通り、顔を上げた。
木々の間を縫うように細い道が続き、頭上では葉が風に揺れている。
確かに、地面ばかり見ていては周囲の様子が分からない。
野生で生きるなら、なおさらだろう。
それにしても、自分の身体を動かすだけで、どうしてこんなに苦労するのか。
前脚を出す。
後ろ脚がついてくる。
重心を保ち、尻尾でバランスを取る。
どれか一つに意識を向けすぎると、ほかの動きまでぎこちなくなる。
人間だった頃は、歩き方なんて考えたこともなかった。
今では、ただ歩くだけでも立派な訓練だ。
まるで、生まれたばかりの子供に戻った気分である。
……いや、狼の子供だって、もう少し上手に歩くのではないだろうか。
「うん。だいぶ安定してきたな。じゃあ、次は少し走ってみよう」
アルトの声に、俺は顔を上げた。
よし、見ていろ。
昨日の俺とは違うところを見せてやる。
俺は軽く地面を蹴った。
身体が前へと進む。
風が毛並みを撫で、視界の端を木々が流れていく。
おお。
昨日よりも滑らかだ。
四本の脚が地面を蹴る感覚にも、少しずつ慣れてきたらしい。
この調子なら、今日こそは――。
「おい、そっちは行きすぎだ!」
アルトの声が飛んできた。
……あ。
気づけば、俺は彼の前を通り過ぎていた。
慌てて止まろうとする。
だが、走り出した身体は、そう簡単には止まってくれない。
前脚を踏ん張り、後ろ脚で地面を蹴る。
身体がぐらりと傾いた。
危ない!
なんとか転倒だけは免れたものの、最後は四本の脚を大きく広げ、妙な姿勢で停止することになった。
「はははっ! 今のはすごかったな!」
背後から、アルトの笑い声が響いた。
……おい。
こっちは命懸けだったんだぞ。
いや、別に死にかけたわけではないが、気分としてはそれくらい必死だったのだ。
「悪い、悪い。でも、あんな止まり方をするとは思わなくて」
俺は抗議するように唸った。
「はいはい。分かったから、そんなに怒るなって」
まったく、この青年には遠慮というものがない。
こちらが狼だからといって、何をしてもいいと思っているのではないだろうか。
……まあ、俺も今の姿では言い返せないのだが。
それでも、不思議と嫌な気分にはならなかった。
誰かに失敗を笑われること。
誰かと一緒に何かに取り組むこと。
そんな当たり前の時間が、今の俺には少しだけ新鮮だった。
もちろん、笑われて嬉しいわけではない。
そこは間違えないでもらいたい。
「じゃあ、次は曲がる練習だ。走るときは、どこへ行くかだけじゃなく、どこで止まるかも考えておくんだぞ」
アルトは少し離れた場所に立つ木を指さした。
「あの木の手前で止まって、右に曲がってみよう」
俺は気を引き締めた。
今度こそ失敗しない。
ゆっくり走り始め、木の手前で速度を落とす。
そして、右へ。
……できた。
俺は思わず尻尾を振った。
「おっ、今のはよかったな」
アルトが笑顔で頷く。
その言葉に、胸の奥がほんの少し弾んだ。
たったそれだけのことだ。
けれど、昨日できなかったことが、今日はできるようになった。
それは、紛れもない進歩だった。
俺はもう一度、木の周りを歩いてみる。
今度はさっきよりも自然に身体が動いた。
まだまだ練習は必要だ。
それでも、何もできなかった昨日よりは確実に前へ進んでいる。
……うん。
悪くない。
少しずつでも、できることを増やしていこう。
この身体で生きていくと決めたのなら、まずはこの身体を使いこなせるようにならなければ。
◇
昼前、練習を終えた俺たちは家へ戻った。
アルトが水を用意してくれたので、俺は喉を潤し、床に腰を下ろす。
人間だった頃と違って、椅子に座るという動作すら少し難しい。
……いや、そもそも狼が椅子に座る必要はないのだが。
そんなことを考えていると、机の上に置かれた紙の束が目に入った。
その隣には、何冊かの本が積まれている。
俺は何気なく、一番上の本へ近づいた。
表紙には、見慣れない文字が並んでいた。
……文字か。
そういえば、この世界に来てから文字について考えたことがなかった。
生き延びることに必死だったせいもあるが、そもそも、文字を読む機会自体がなかったのだ。
俺は本の表紙をじっと見つめた。
線や曲線が組み合わさった、見慣れない形。
どれだけ目を凝らしても、その意味はさっぱり分からない。
当然だ。
人間だった頃に使っていた文字とは違うのだから。
……これは、思っていた以上に厄介な問題かもしれない。
この世界の本を読めない。
看板の文字も分からない。
町へ行ったところで、書かれている内容を理解できない可能性が高い。
そもそも狼の姿で町に入れるのかという問題もあるが、今は考えないことにする。
問題が多すぎる。
一つずつ片づけていこう。
「どうした?」
声をかけられて顔を上げると、アルトが隣に立っていた。
俺は本と彼の顔を交互に見た。
それから、前脚で本を軽く示す。
「本が気になるのか?」
俺は首を横に振り、もう一度本を示した。
表紙を見つめ、それから困ったように首を傾げる。
読めない。
そのことを伝えたかった。
「……もしかして、文字が分からないのか?」
俺は勢いよく頷いた。
ようやく通じた。
「ああ、そっか。まあ、無理もないか」
アルトは本を手に取り、表紙をこちらに向けた。
「これは、この辺りで使われている文字だよ。人間なら、子供の頃から少しずつ覚えていくものだけど……」
彼は俺を見下ろした。
「お前は、そもそも人間じゃないもんな」
……正論で殴るのはやめていただきたい。
分かっている。
自分が狼になったことくらい、嫌というほど理解している。
だが、こうして改めて言われると、なかなか複雑な気分になるものだ。
人間だった頃の記憶はある。
人間の言葉も理解できる。
それなのに、今の俺は本を読むことすらできない。
身体だけでなく、生活に必要な知識まで一から覚え直す必要があるらしい。
「でも、文字を覚えること自体はできると思うぞ」
アルトは本を机に戻した。
「すぐには難しいだろうけど、時間があるときに教えてやるよ」
……え?
俺は思わず彼を見上げた。
教えてくれるのか?
「もちろん、俺も先生みたいに教えるのは得意じゃないけどな」
アルトは照れくさそうに頬を掻いた。
「それでも、何も知らないままよりはいいだろ?」
俺は何度も頷いた。
ありがたい。
この世界の文字を覚えられれば、できることも増えるはずだ。
何より、俺はこの世界について何も知らない。
焦ったところで、すぐに何もかも分かるわけではないのだ。
まずは目の前にあるものから覚えていけばいい。
俺はもう一度、本の表紙を見つめた。
相変わらず、そこに並ぶ文字は意味不明な形をしている。
それでも、さっきまでとは少し違って見えた。
いつか、読めるようになるかもしれない。
そんな小さな目標が一つ増えた。
……よし。
文字を覚えたら、まずはこの世界の地図を読めるようになろう。
そして、世界がどれほど広いのか、自分の目で確かめるのだ。
狼の身でどこまでできるかは分からない。
だが、最初から諦める必要もないだろう。




