第五話 狼の朝は忙しい
――腹が減った。
目を覚まして最初に浮かんだのは、そんな切実な問題だった。
窓から差し込む朝日が、木の床に柔らかな光を落としている。
昨夜、アルトが寝床として用意してくれた布の上で、俺はゆっくりと身体を起こした。
久しぶりに、まともに眠れた気がする。
ゴブリンに追い回されることもなく、いつ魔物に襲われるかと怯える必要もない。少なくとも、眠っている間に命を落とす心配はしなくて済んだ。
……まあ、目が覚めたら狼になっているという、別の問題はあるのだが。
俺は四本の脚を伸ばし、背中を反らした。
大きく口を開けて欠伸をすると、鋭い牙が舌先に触れる。
その感触に、改めて自分が人間ではないことを思い知らされた。
――ぐぅぅぅ。
腹の虫が、静かな室内に響き渡った。
……うん。現実逃避はここまでにしよう。
昨日、アルトから肉をもらったときは、夢中になって食べた。ところが、一晩眠っただけでこの有様だ。
狼の身体は、思っていた以上に食欲旺盛らしい。
俺は部屋の中を見回した。
木製の机と椅子。壁際の棚には道具や薬草が並び、部屋の隅には薪が積まれている。
しかし、肝心の食料らしきものは見当たらなかった。
そもそも、俺はこれから何を食べて生きていけばいいのだろう。
肉。
それは分かる。
問題は、その肉をどうやって手に入れるかだ。
いつまでもアルトに世話になり続けるわけにはいかない。昨日だって、助けてもらったうえに、家にまで泊めてもらったのだ。
これ以上、借りを増やすのは気が引ける。
……よし。決めた。
今日こそ、自分で獲物を捕まえてみせる。
幸い、俺は狼だ。
鋭い牙がある。鼻も利く。四本の脚だって、人間だった頃よりずっと力強い。
昨日はゴブリンに追い回される散々な目に遭ったが、あれは相手が悪かっただけだ。
そうに違いない。
俺は自信を胸に、部屋の出口へ向かった。
そして、すぐに足を止めた。
……どうやって開けるんだ、これ。
◇
扉の取っ手は、俺の頭よりもずっと高い位置にあった。
当然、前脚では届かない。
試しに飛びついてみる。
届かない。
後ろ脚で立ち上がってみる。
ふらついて、すぐに四本脚へ戻った。
もう一度、飛びつく。
――ガタンッ!
勢い余って、身体ごと扉にぶつかった。
痛い。
そして、虚しい。
俺はその場に座り込み、恨めしげに扉を見上げた。
人間だった頃なら、こんなもの簡単に開けられたのに。
たかが扉一枚。
それすら開けられないとは。
……狼の生活、難易度が高すぎないか?
「何してるんだ?」
背後から声がした。
振り返ると、アルトが眠そうな顔で立っていた。寝起きらしく、普段より髪が乱れている。
彼は俺と扉を交互に見たあと、何かを察したように口元を緩めた。
「……もしかして、外に出たいのか?」
俺は頷いた。
「そっか。ちょっと待ってろ」
アルトが扉に手をかける。
あっさりと。
あまりにも、あっさりと。
扉は何の抵抗もなく開いた。
俺は、その光景をしばらく見つめた。
……俺の苦労は何だったんだ。
「ほら、どうぞ」
アルトが道を譲る。
俺は少しだけ彼を睨んでから、外へ出た。
「なんだ、その顔は?」
……別に。
俺は尻尾を一度だけ揺らし、そっぽを向いた。
「変なやつだな、お前」
それはこっちの台詞だ。
心の中でそう返しながら、俺は朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
湿った土の匂い。草木の青々とした匂い。遠くを流れる水の気配。
そして、その奥に混じる、動物たちの匂い。
人間だった頃には意識すらしなかったものが、今では驚くほど鮮明に感じられる。
風が頬の毛を揺らし、どこかで鳥が鳴いた。
耳を澄ませば、草むらの奥から小さな物音も聞こえてくる。
……これが、狼の感覚か。
少しだけ、胸が躍った。
不便なことばかりではないらしい。
せっかく狼になったのだ。この身体でできることを、少しずつ覚えていけばいい。
俺は森の奥へ視線を向けた。
今日こそ、まともに獲物を捕まえてみせる。
「……で、何をするつもりなんだ?」
背後からアルトの声が飛んできた。
俺は森へ踏み出そうとした脚を止めた。
しまった。
完全に忘れていた。
昨日のゴブリンたちのように、この森には危険な魔物もいる。傷もまだ治りきっていない俺が、一匹で出歩くのは無謀だ。
しかし、いつまでも彼に頼るわけにもいかない。
俺は振り返り、森を示すように鼻先を向けた。
「……狩りか?」
俺は頷いた。
アルトは少し考え込んだあと、俺の脚に目を落とした。
「傷はまだ完全に治ってないだろ。無理をするのはやめておけ」
……正論だ。
ぐうの音も出ない。
俺は耳を伏せた。
すると、アルトは小さく息を吐いた。
「とはいえ、いつまでも俺が食べ物を用意するわけにもいかないか」
俺は勢いよく顔を上げた。
「よし。だったら、少しだけ教えてやる」
アルトは壁に立てかけてあった弓を手に取った。
「ただし、今日は狩りの練習だ。獲物を捕まえられなくても構わない。まずは森の中で、どう動くかを覚えろ」
俺は大きく頷いた。
ようやく、狼らしい生活が始まる。
……そう思っていた。
◇
「いいか。まずは周囲をよく観察することだ」
森に入ってしばらくしたところで、アルトが足を止めた。
「獲物を見つけても、すぐに飛びかかるな。相手がどこにいて、どこへ逃げるのか。風はどちらから吹いているのか。そういうことを考えるんだ」
俺は真剣に耳を傾けた。
なるほど。
闇雲に追いかけるのではなく、獲物の動きを予測するわけか。
前世では、ゲームの中で敵の動きを読むことはあった。だが、実際の森で動物を狩るとなれば話は別だ。
相手も生きている。
こちらの都合に合わせて動いてくれるわけではない。
「それと、風下から近づくのも大切だ。鼻の利く獲物には、匂いで気づかれるからな」
アルトは地面に残る小さな足跡を指さした。
「ほら。ここを見てみろ」
俺は鼻先を地面に近づけた。
……土の匂いしかしない。
いや、よく嗅げば、草の匂いや、何かの動物らしい匂いもある。
だが、それが何の動物なのかまでは分からなかった。
「分からないか?」
俺は申し訳なさそうに耳を伏せた。
「最初はそんなものだ。焦らなくていい。何度も観察していれば、少しずつ分かるようになる」
アルトは足跡の先を指さした。
「この大きさなら、小型の草食動物だろうな。こっちの草が踏まれているから、あっちへ進んだ可能性が高い」
彼の視線の先には、木々の間に続く細い獣道があった。
俺は改めて地面を見た。
言われてみれば、確かに草が倒れている。
俺にはただの地面にしか見えなかった場所から、アルトは情報を読み取っている。
森で生きるというのは、こういうことなのだろう。
力があるだけでは足りない。
周囲を見て、考えて、知識を使う。
それができなければ、生き残れない。
「よし。じゃあ、実際にやってみよう」
アルトが前方の茂みを指さした。
その奥で、何かが動いた。
小さな茶色の身体。
長い耳。
丸い尻尾。
……ウサギだ。
俺の頭に、昨日の惨敗がよみがえった。
獲物を見つけた。
追いかけた。
転んだ。
逃げられた。
……いや、あれは練習ではなかった。
今回はアルトの指導がある。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
俺は姿勢を低くし、慎重にウサギとの距離を測った。
風向きは……よく分からない。
足音を立てないように……どうやるんだ、これ。
とりあえず、ゆっくり進む。
一歩。
もう一歩。
ウサギは、まだ気づいていない。
よし。
いける。
俺は後ろ脚に力を込めた。
「待て。まだだ」
アルトの小声が飛んできた。
……え?
「もう少し近づいてからだ。今飛び出したら、逃げられるぞ」
俺は動きを止めた。
確かに、まだ距離がある。
もう少し。
あと少しだけ近づけば――。
そのとき、風が俺の鼻先をかすめた。
ウサギの耳が、ぴくりと動く。
まずい。
気づかれた。
次の瞬間、ウサギが跳ねた。
「今だ!」
アルトの声が響く。
俺は地面を蹴った。
身体が、驚くほど軽く前へ飛び出す。
昨日よりも、身体の動かし方が分かってきた気がした。
速い。
確かに、速い。
だが――。
ウサギは、もっと速かった。
木の根を飛び越え、草むらを抜け、あっという間に木々の向こうへ消えていく。
俺も必死に追いかけた。
しかし、曲がり角で勢いを殺しきれず、前脚が地面を滑った。
「うおっ――!」
声にならない叫びとともに、俺は草むらへ突っ込んだ。
痛い。
草が顔に当たる。
土が鼻に入る。
そして、ウサギの姿はどこにもなかった。
…………。
………………。
「……惜しかったな」
追いついてきたアルトが、気まずそうに声をかけてきた。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
惜しかった?
本当に?
今のどこに、惜しい要素があった?
獲物は逃げた。
俺は転んだ。
昨日と何も変わっていない。
いや、むしろアルトに見られていた分、恥ずかしさが増している。
「まあ、最初はこんなものだ。身体の使い方も、これから覚えていけばいい」
アルトは笑わなかった。
からかうこともなく、真剣にそう言った。
だからこそ、俺は余計に悔しかった。
俺は狼だ。
牙も爪もある。
人間だった頃より、身体能力だって高いはずだ。
なのに、目の前の獲物一匹すら捕まえられない。
……いや。
だからこそ、覚えなければならないのだろう。
この身体で生きていくために。
俺は立ち上がり、身体についた草を振り払った。
アルトが、満足そうに頷く。
「よし。今日はここまでにしよう。傷に響くといけないからな」
俺は不満を訴えるように、彼を見上げた。
まだ、何もできていない。
もう一度くらい挑戦してもいいのではないか。
「駄目だ」
即答だった。
……厳しい。
「焦る必要はない。森で生き残るには、無茶をしないことも大切なんだ」
アルトは弓を背負い直した。
「今日できなかったことが、明日できるようになるかもしれない。だから、今日は帰ろう」
俺はしばらく彼を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
……仕方がない。
今日のところは、これで勘弁してやろう。
別に、悔しくなんてない。
決して。
◇
家に戻るころには、太陽が少し高くなっていた。
アルトは玄関の扉を開け、俺を先に通してくれた。
今度は、扉にぶつからずに済んだ。
……成長したな、俺。
いや、扉を開けてもらっただけなのだが。
俺は心の中で自分に突っ込みながら、寝床にしている布の上へ向かった。
「水を持ってくるから、そこで休んでろ」
アルトはそう言うと、台所へ向かった。
しばらくして、床に水の入った器が置かれる。
俺は顔を近づけ、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通っていく。
生き返るようだった。
……いや、実際に一度死んでいるのだが。
そんなことを考えながら、俺は器から顔を上げた。
アルトは椅子に座り、弓の手入れを始めていた。
弦の状態を確かめ、矢の先端を確認し、一本ずつ丁寧に整えている。
その手つきには、慣れが感じられた。
毎日、こうして準備をしているのだろう。
森で生きるというのは、狩りをするときだけ頑張ればいいわけではない。
道具を整えること。
身体を休めること。
食べ物を確保すること。
危険を避けること。
当たり前のことを、毎日繰り返す。
それが、この世界で生きるということなのだ。
「……なあ」
アルトが、弓から目を離さずに口を開いた。
俺は耳を向ける。
「明日も練習するか?」
俺はすぐに頷いた。
今度こそ、ウサギを捕まえてみせる。
そんな俺の反応を見て、アルトは小さく笑った。
「よし。じゃあ、明日はもう少しゆっくり練習しよう。まずは、獲物を追いかける前に身体を止められるようにならないとな」
……それは言わないでほしかった。
俺はそっと目を逸らした。
「ははっ。分かりやすいやつだな」
アルトの笑い声が、部屋に響く。
不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
前世では、誰かと一緒に笑うことなんてほとんどなかった。
いや、笑い声そのものは聞いたことがある。
ただ、自分がその輪の中にいることはなかった。
けれど今は、目の前に一人の青年がいて、俺に話しかけてくれている。
俺はまだ、彼のことをほとんど知らない。
なぜ森の中で一人暮らしをしているのか。
どんな暮らしをしてきたのか。
何を考えて、毎日を過ごしているのか。
分からないことばかりだ。
それでも、少なくとも今は。
この家にいてもいいのだと思えた。
◇
昼食を終え、少し休んでいると、アルトが棚から布の束を取り出した。
「そうだ。お前、寝床はあれで大丈夫か?」
俺は首を傾げた。
「いや、昨日は急ごしらえだったからな。床で寝るのも疲れるだろうと思って」
アルトは布を広げ、手触りを確かめた。
「新しいものじゃないけど、使わないよりはましだろ」
彼は俺の寝床の横に、布をもう一枚敷いた。
これで、床の硬さも少しは和らぐだろう。
俺は布とアルトを交互に見た。
……本当に、よくしてくれる人だ。
俺は近づき、彼の手に鼻先をそっと寄せた。
「ん?」
アルトが目を瞬かせる。
俺はそのまま、頭を少しだけ下げた。
ありがとう。
言葉にはできない。
人間の声を出すこともできない。
それでも、今の俺にできる精いっぱいの感謝だった。
アルトは一瞬驚いたような顔をしたあと、優しく笑った。
「どういたしまして」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
もしかすると、言葉がなくても伝わるものはあるのかもしれない。
そんなことを思った。
◇
夕方。
窓から差し込む光が、ゆっくりと橙色に変わっていく。
俺は寝床の上で丸くなりながら、今日一日のことを振り返っていた。
狩りは失敗。
ウサギは捕まえられなかった。
走れば転ぶし、扉一枚まともに開けられない。
人間だった頃には想像もしなかった苦労ばかりだ。
けれど、何も得られなかったわけではない。
森で生きるためには、観察することが大切だと知った。
自分の身体を使いこなすには、練習が必要だとも分かった。
そして何より、明日も練習を続けられる場所がある。
助けてくれる人がいる。
それは、今の俺にとって大きなことだった。
俺は窓の外を見た。
木々の間を、夕方の風が通り抜けていく。
明日も、今日と同じような一日になるのだろうか。
今はまだ分からない。
けれど、少なくとも一つだけ決めたことがある。
明日こそ、ウサギを捕まえてやる。
……いや、まずは転ばずに走れるようになるところからか。
俺は小さく息を吐き、目を閉じた。
狼としての暮らしは、まだ始まったばかりだ。
人間だった頃の俺には、できなかったことがある。
この世界でなら、できるようになることもあるかもしれない。
焦る必要はない。
一歩ずつ、進んでいけばいい。
そう思いながら、俺は再び眠りについた。




