第四話 言葉が分かる狼
「…………え?」
アルトは、目の前の俺を凝視していた。
俺もまた、彼の顔を見つめ返す。
窓の向こうでは、風が木々の枝葉を揺らしていた。壁際に吊るされた乾燥薬草が、かすかな葉擦れの音を立てる。
穏やかな森の気配だけが、沈黙に包まれた部屋の中で、ひどく鮮明に感じられた。
やがて、数秒の沈黙を破ったのは、俺の心の声だった。
――まずい。
とんでもなく、まずい。
俺は気まずさをごまかすように、そっと視線をそらした。
いや、待て。まだ取り返しはつく。
今のは偶然だ。たまたま首が動いただけ。そもそも、狼が首を縦に振ったからといって、それが人間の頷きと同じ意味だとは限らない。
そうだ。偶然ということにしてしまえばいい。
俺は何も分かっていない。
何も聞こえていない。
何も知らない、ただの狼なのだ。
「……おい」
アルトが声をかけてきた。
聞こえないふりをする。
「こっちを見ろ」
無視。
「おーい」
無視。
「……本当に、分かってないのか?」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
アルトと目が合う。
その瞳には、先ほどまでとは違う色が浮かんでいた。警戒というより、好奇心。理解できない現象を前にして、その正体を突き止めずにはいられない――そんな探究心が、ありありと見て取れた。
……頼むから、その好奇心を別の方向に向けてくれ。
「右を向け」
俺は右を向いた。
「左」
左を向く。
「立て」
立ち上がった。
「座れ」
腰を下ろす。
「伏せろ」
…………。
俺は、ゆっくりと腹を床につけた。
沈黙。
アルトの表情が、みるみる変わっていく。
「お前、絶対に分かってるだろ!」
とうとう、彼は声を張り上げた。
俺の耳が、反射的にぺたりと伏せられる。
――終わった。
完全に終わった。
目の前の青年は、驚愕と困惑を半分ずつ浮かべた顔で俺を見下ろしていた。
「いや、待て。落ち着け、俺。狼が人間の言葉を理解するなんて聞いたことがない。……いや、魔物なら特殊な能力を持つ個体がいてもおかしくはない、のか? でも、だからって……」
アルトは額に手を当て、ぶつぶつと独り言をこぼし始めた。
どうやら、俺だけでなく彼の頭の中も混乱しているらしい。
……まあ、無理もない。
森で助けた狼が、自分の言葉を理解しているどころか、指示に従って動くのだ。俺だって逆の立場なら、まず自分の目を疑う。
問題は、ここからだった。
俺は前世の記憶を持っている。人間だった頃の知識も、この世界の言葉を理解する能力も、なぜかそのまま残っている。
だが、それをどう説明すればいい?
実は転生者です。
前世では人間でした。
目が覚めたら狼になっていました。
…………うん。無理だ。
仮に人間の言葉を話せたとしても、信じてもらえる気がしない。そもそも、今の俺には説明するための口すらない。
「……よし」
不意に、アルトが両手を打ち鳴らした。
俺はびくりと身を震わせる。
「とりあえず、もう少し確かめてみよう」
――嫌な予感しかしない。
どうやら、俺の平穏な異世界生活は、まだ始まりそうになかった。
◇
それからしばらく、俺はアルトの実験に付き合わされる羽目になった。
「これは何だ?」
アルトが机の上から木製の器を持ち上げ、俺の目の前に掲げた。
……器だ。
見れば分かる。
何しろ、元は人間なのだから。
しかし、ここで反応するわけにはいかない。俺は努めて無関心を装い、視線を動かさなかった。
「じゃあ、これは?」
今度は、小さな石。
無視。
「これは?」
壁に立てかけられた弓。
無視。
「…………じゃあ、これは?」
アルトが、自分の足元を指さした。
そこにあったのは、彼の靴だった。
…………いや、それは靴だろ。
思わず、俺は彼の顔を見上げた。
「おっ?」
アルトの目が、ぱっと輝いた。
「今、反応したな!」
しまった。
俺は慌てて顔を背けたが、時すでに遅し。目撃者本人が、確信に満ちた表情でこちらを見ている。
「なるほど……。分かるものと分からないものがあるのか? いや、単に俺の動きに反応しただけかもしれない。なら、別のものでも試せば……」
アルトは真剣な顔で考え込み始めた。
……勘弁してくれ。
俺は心の中で深いため息をついた。
こちらは、狼になったという現実を受け入れるだけでも精いっぱいなのだ。そこへきて、未知の生物を研究する学者のような目で観察されては、気が休まる暇もない。
もっとも、狼の姿をした俺が、人間と同じように頭を抱えている時点で、十分に奇妙なのかもしれないが。
「よし。これで最後だ」
ようやく実験を終える気になったらしい。
アルトは俺の前にしゃがみ込んだ。床板が、体重を受けて小さく軋む。
近くで見ると、彼の服には森の土や草がまだらについていた。先ほどまで危険な森を歩き回っていたのだから、当然だろう。
それでも、その瞳から好奇心が消えることはなかった。
「お前は、俺の言葉が分かるのか?」
今度は物を使った試験ではない。
まっすぐに向けられた、真正面からの問いだった。
俺は黙ってアルトを見つめた。
まだ、誤魔化せるかもしれない。
だが、ここまで疑われているのだ。下手に隠し通そうとすれば、かえって警戒される可能性もある。
それに――。
俺は、彼に助けられた。
四匹のゴブリンに追い詰められ、何もできずにいた俺を、アルトは見捨てなかった。危険を承知で弓を引き、傷を気遣い、自分の家にまで連れてきてくれた。
何かを要求されたわけでもない。
見返りを求められたわけでもない。
少なくとも、今のところ、彼を疑う理由はなかった。
俺は、ゆっくりと首を縦に振った。
アルトの目が見開かれる。
「……本当に?」
もう一度、頷いた。
「俺の言ってること、全部分かるのか?」
頷く。
「…………嘘だろ」
それは、俺も同じ気持ちだった。
まさか、異世界に転生して狼になるなんて。
しかも、人間の言葉まで理解できるとは。
人生、何が起こるか分からない。
……いや、今となっては人生というより、狼生か。
「ははっ……!」
突然、アルトが吹き出した。
俺は驚いて耳を立てる。
「いや、悪い。まさか、こんなことが本当にあるなんて思わなくてさ」
彼は笑いながら、後頭部をかいた。
「森には不思議なことがたくさんあると思っていたけど……言葉の分かる狼に会うなんて、さすがに想像してなかったよ」
その笑顔に、恐怖も嫌悪もなかった。
ただ、目の前で起きた不思議を、心から面白がっているようだった。
張り詰めていた俺の心から、わずかに力が抜ける。
少なくとも、言葉を理解するというだけで、彼が俺を追い出すことはなさそうだ。
それだけでも、今の俺にはありがたかった。
◇
「さて……」
ひとしきり驚いたあと、アルトは机の前の椅子に腰を下ろした。
机の上には、先ほどの木製の器が置かれている。その向こうには、使い込まれた革の鞄と、丁寧に畳まれた地図が見えた。
窓から差し込む夕暮れの光が、木の床に細長い影を落としている。
改めて見回すと、この家は決して広くない。
壁も床も木造で、家具は机と椅子、それにいくつかの棚がある程度。棚には道具や薬草が整然と並び、窓際には乾燥させた草が吊るされている。部屋の隅には薪割りの道具が立てかけられ、壁際には使い込まれた生活用品が収められていた。
華やかさとは縁遠い、質素な住まい。
それでも、荒れた様子は少しもなかった。床に物が散らばっていることもなく、使った道具はきちんと元の場所に戻されている。
必要なものを選び、手入れをしながら暮らす。
そんなアルトの生活が、部屋の隅々から伝わってくるようだった。
「問題は、お前が何者なのかってことだな」
……やっぱり、そこに行き着くか。
「普通の狼じゃないのは分かった。でも、魔物の中には珍しい能力を持つ個体もいる。お前も、そういう種類なのか?」
俺は首を傾げた。
正直なところ、俺にも分からない。
目を覚ましたら狼になっていた。それが、今の俺に分かっている唯一の事実だった。
なぜ狼なのか。
なぜ人間の言葉が分かるのか。
そもそも、ここはどこなのか。
考えても、答えはひとつも浮かばない。
「……まあ、今すぐ分かることでもないか」
アルトは、思いのほかあっさりと話を切り上げた。
「分からないことを考え続けても仕方ない。今は、怪我を治すことが先だ」
そう言って、彼は椅子の背にもたれた。
俺も自分の前脚に目を落とす。
ゴブリンから逃げ回ったときの痛みは、まだ残っていた。歩けないほどではないが、体重をかけるたびに鈍い違和感が走る。
無理をすれば、傷が悪化するかもしれない。
今はアルトの言うとおり、身体を休めるのが賢明だろう。
ひとまず、正体を問い詰められることはなさそうだった。
……助かった。
もっとも、言葉を理解する狼という時点で、すでに十分怪しまれているのだが。
「それで、一つ聞きたいんだけど」
アルトが、ふと思い出したように顔を上げた。
「お前、傷が治ったらどうするつもりなんだ?」
どうする、と言われても困る。
俺自身、この世界について何も知らないのだ。
森の外に何があるのか。人間はどんな暮らしをしているのか。自分が狼になった理由を知る手がかりがあるのか。
何ひとつ分からない。
もちろん、行く当てもなかった。
俺は答えに詰まり、首を傾げた。
「……そっか。まだ決めてないんだな」
アルトは、その仕草を見て察したらしい。
少し考え込むように視線を落としたあと、彼は再び口を開いた。
「だったら、傷が治るまではここにいればいい」
思わず、耳がぴんと立った。
「森には危険な魔物もいるし、今のお前を一匹で放り出すのも気が引けるからな」
アルトは、照れくさそうに頬をかいた。
「もちろん、嫌なら無理強いはしない。でも、せっかく助けたんだ。もう少し一緒にいてもいいだろ?」
俺は、彼を見つめた。
ここにいてもいい。
もう少し、一緒にいてもいい。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。
前世では、誰かを助けようとして、結局は一人になった。
あの日、助けを求められた俺は、迷わず手を伸ばした。けれど、最後に取り残されたのは俺だった。
それ以来、誰かを信じることにも、期待することにも、意味はないと思うようになった。
どうせ、最後には一人になる。
ならば最初から、誰にも期待しなければいい。
傷つかずに済むように、自分の殻に閉じこもっていればいい。
そうやって、何も望まないことに慣れたつもりでいた。
けれど、この世界で出会った青年は違った。
俺が何者なのかも知らない。
なぜ言葉を理解できるのかも、何を考えているのかも知らない。
それなのに、危険を承知で助けてくれた。傷を気遣い、家へ連れ帰り、食事まで与えてくれた。
そして今度は、居場所まで差し出そうとしている。
何の見返りも求めずに。
……不思議なものだ。
俺は狼になった。
前世の名前も、夢も、もう手の届かない場所に置いてきたのだと思っていた。
それなのに、目の前の青年を見ていると、心の奥に閉じ込めたはずの何かが、かすかに息を吹き返す。
まだ、誰かを信じてもいいのだろうか。
もう一度、誰かと一緒にいてもいいのだろうか。
答えは出なかった。
ただ――ここを離れたくないと、そう思った。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そっか」
アルトの表情が、ほっと緩む。
「じゃあ、しばらくよろしくな」
そう言って、彼は俺に手を差し出した。
……いや、握手は無理だろ。
俺は差し出された手と、自分の前脚を交互に見た。
人間だった頃なら、何も考えずに握り返せたはずだ。けれど、今の俺にはその当たり前すらできない。
少し迷った末、俺は彼の手に鼻先を寄せた。
アルトは一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を和らげた。
そして、俺の頭にそっと手を置いた。
「ははっ。よろしく、狼」
温かい手だった。
指先が灰色の毛並みをなぞり、頭をゆっくりと撫でる。
俺は思わず目を細めた。
……ああ。
こういうのも、悪くない。
誰かの手が、こんなにも温かいものだったなんて。
忘れていた感覚が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
その瞬間だった。
――脳裏に、一人の少女の姿がよみがえった。
金色の髪。
夜の道路。
街灯に照らされた、白い横顔。
そして、こちらを振り返った彼女の顔。
『また会ったね』
……え?
俺は、はっと目を見開いた。
忘れるはずがない。
あの夜、コンビニへ向かう途中で出会った少女。
車道に立つ彼女を見て、俺は考えるより先に身体を動かした。助けなければ。そう思って、手を伸ばすように飛び出した。
直後、世界が激しく揺れた。
強い衝撃。
遠ざかっていく意識。
そして、最後に胸に浮かんだ、たった一つの問い。
――俺は、英雄になれたのかな。
あの少女は、いったい何者だったのだろう。
そもそも、彼女は本当に助けを必要としていたのか。
あのとき、彼女は確かに俺を見ていた。
そして、まるで旧知の相手に語りかけるように、こう言ったのだ。
『また会ったね』
また。
その言葉が、今になって妙に引っかかった。
まるで、俺と彼女が以前にも出会っていたかのように。
まるで、俺があの場所へ来ることを、最初から知っていたかのように。
……いや、考えすぎかもしれない。
死ぬ直前の記憶だからだろうか。あの夜の出来事は、今でも細部が曖昧だった。何を考え、何を見て、どこまで理解していたのか。思い出そうとするほど、肝心な部分に霧がかかっていく。
それでも、彼女の声だけは忘れられなかった。
なぜ、俺にあんな言葉を告げたのか。
俺が死ぬことを知っていたのか。
それとも――。
俺がこの世界へ転生したことと、何か関係があるのだろうか。
「……おい?」
遠くで声がした。
俺は、はっと我に返る。
「どうした? 急に固まって」
気づけば、アルトが不思議そうに顔を覗き込んでいた。
俺は慌てて首を横に振る。
……今は、考えても仕方がない。
あの少女のことも。
なぜ自分が狼になったのかも。
この世界がどこなのかも。
何一つ、答えは出ていない。
ならば、今できることをするしかない。
まずは生き延びること。
この身体に慣れ、この世界を知ること。
その先に、何か手がかりが見つかるかもしれない。
「まだ具合が悪いのか?」
アルトが心配そうに眉を寄せた。
「無理するなよ」
俺は、今度こそはっきりと首を横に振った。
大丈夫だ。
そう伝えたかった。
正しく伝わったのかは分からない。それでも、アルトはそれ以上問い詰めることなく、小さく頷いた。
「ならいいけど。今日はもう休め。怪我もあるんだし、無理はするなよ」
彼は立ち上がると、部屋の隅に置いてあった布を手に取った。
「寝る場所はここでいいか? 床は硬いけど、何もないよりはましだろ」
俺は差し出された布を見つめた。
特別な寝床ではない。
柔らかな毛布でも、高価な寝具でもない。
ただ、きれいに畳まれた布が一枚あるだけだ。
それでも、俺には十分だった。
もう、暗い森をさまよわなくていい。
いつ襲われるかと怯えながら、眠る場所を探す必要もない。
今夜は、安心して目を閉じられる。
それだけのことが、こんなにもありがたいとは思わなかった。
俺は布の上に身体を横たえ、ゆっくりと丸くなった。
まだ慣れない四本の脚を身体の下に収め、尻尾を脇へ寄せる。床の硬さは感じるものの、森の冷たい土の上で眠るよりは、ずっとましだった。
アルトは俺の様子を確かめると、窓際の椅子を机のそばへ戻した。
「おやすみ、狼」
穏やかな声が降ってくる。
俺は返事の代わりに、尻尾を小さく揺らした。
アルトが、くすりと笑う。
その声を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
この日、俺は初めて、この世界で安心して休める場所を見つけた。
まだ何も分からない。
自分がなぜ狼になったのか。
この世界がどんな場所なのか。
これから先、何が待ち受けているのか。
答えは何一つ見つかっていない。
けれど、少なくとも今夜は、一人ではなかった。
その事実が、凍りついていた心をほんの少しだけ温めてくれた。
……それなのに。
眠りに落ちる直前、胸の奥に残った疑問が、再び意識をかすめた。
あの少女は、何者だったのか。
なぜ、俺に「また会ったね」と告げたのか。
そして――。
俺は、本当にただの偶然で、この世界に来たのだろうか。
静かな家の中で、答えのない問いだけが、いつまでも心の奥に残っていた。




