第三話 狼を助けた青年
青年の背中を追いながら、俺は自分の足元に目を落とした。
灰色の毛に覆われた四本の脚。地面を踏みしめるたび、肉球越しに土の感触が伝わってくる。
時折、傷ついた脚が鈍く疼いた。歩けないほどではない。けれど、ゴブリンから逃げ回っていたときの痛みは、まだ完全には消えていないらしい。
無理は禁物だ。
……もっとも、今の俺に無理をするなと言ったところで、どうすればいいのか分からないのだが。
つい先ほどまで、俺は四匹のゴブリンに追い回されていた。
あと少し判断を誤っていれば、今頃どうなっていたか分からない。
振り下ろされる棍棒。迫りくる醜悪な顔。思うように動かない四本の脚。そして、逃げ場を失った俺の前に割って入った青年。
思い返すだけで、背筋が冷たくなる。
……危なかった。
本当に、危なかった。
俺は前を歩く青年を見上げた。
背中には弓と矢筒。腰には小さな刃物。森を進む足取りには迷いがなく、枝葉を避ける動作にも無駄がない。
足音さえ、驚くほど静かだった。
青年は、ただ前だけを見て歩いているわけではなかった。枝を踏む前には足元を確かめ、茂みを抜ける際には周囲へ視線を巡らせる。ときには足を止め、地面に残された痕跡をじっと観察していた。
――なるほど。
さっきの戦い方にも納得がいく。
力任せに敵へ突っ込むのではなく、相手の位置を把握し、地形を利用し、危険を避けながら戦う。
俺が四匹のゴブリン相手に必死になっていた間も、彼は冷静に状況を見極めていたのだろう。
……同じ人間なのに、こうも違うものか。
いや、待て。
今の俺は狼だった。
比べる相手を間違えている。
「おい、そっちじゃないぞ」
不意に声をかけられ、俺は顔を上げた。
青年が足を止め、少し先の地面を指さしている。
「そっちはぬかるんでる。足を取られるから、こっちに来い」
示された場所に目を向けると、確かに地面が湿っていた。
うっかり踏み込めば、足を滑らせていたかもしれない。
俺は青年の顔を見てから、指し示された道へ進んだ。
……言葉は分かる。
意味も理解できる。
問題は、それをどう伝えるかだ。
人間だった頃なら、「分かった」と一言返せば済んだ。だが、今の俺にできるのは、せいぜい鳴き声を上げることくらいだろう。
……いや、待て。
そもそも、狼の鳴き声ってどう出すんだ?
犬みたいに鳴けばいいのか。それとも、遠吠えでもすれば伝わるのか。
考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
結局、俺は黙って青年の後を追った。
「……素直だな、お前」
青年が、少し意外そうに呟いた。
素直というより、言葉が通じないだけです。
心の中で反論したところで、当然、相手には届かない。
……くそっ。
人間だった頃には当たり前にできていたことが、今では何一つ思いどおりにならない。
歩くことも、食べることも、誰かと意思を伝え合うことさえも。
異世界転生なんて、もっとこう、華々しいものだと思っていた。
目覚めたら強大な力を手に入れていて、困っている人を助けたり、魔物を倒したり。そういう、いかにも英雄らしい展開が待っているものだと。
少なくとも、森の中で腹を空かせ、ゴブリンに追い回される生活を想像していたわけではない。
……いや、そもそも狼に転生する時点で、想像の範囲外なのだが。
俺は小さく息を吐いた。
今さら文句を言っても始まらない。
まずは、生き延びることが先だ。
◇
アルトは、背後をついてくる狼を気にかけていた。
野生の狼なら、人間を警戒して距離を取るのが普通だ。ましてや、つい先ほどまで危険な目に遭っていたのなら、なおさらだろう。
ところが、この狼は逃げなかった。
もちろん、警戒心がないわけではない。アルトが急に振り返れば耳を立て、手を伸ばそうとすれば、すぐに一歩分の距離を取る。
むしろ、警戒心は強い方だ。
それなのに、アルトが歩き出せば、少し遅れてついてくる。
「変なやつだな……」
思わず、そんな言葉が漏れた。
アルトは先ほどの戦いを思い返す。
最初、この狼は明らかに怯えていた。足取りは不安定で、逃げる方向すら定まっていなかった。
しかし、追い詰められてからは、ただ闇雲に逃げ回っていたわけではない。
棍棒を避けるために木を利用し、ゴブリンの動きを見ながら逃げ道を探していた。少なくとも、アルトにはそう見えた。
偶然だった可能性もある。
生き残ろうとする本能が、たまたま都合のいい行動を選ばせただけかもしれない。
それでも、気になった。
魔物の生態には、まだ知られていないことが多い。外見や分類だけで判断すれば、思わぬ失敗につながることもある。
だからこそ、目の前のものをよく見る。
それは、父から教わったことの一つだった。
『森で生き残りたいなら、目の前のものをよく見ろ。見た目だけで判断するな。分からないものを、分からないまま放っておくな』
幼い頃、父はそう言っていた。
当時のアルトは、父の話を聞くたびに、森の外に広がる世界へ思いを馳せたものだった。
遠くの国。見たこともない街。地図にしか載っていない山や湖。
父が語る旅の話には、アルトの知らない景色がいくつもあった。
いつか、自分もそこへ行ってみたい。
そう願うようになったのは、ずっと昔のことだ。
けれど、現実は思い描いたほど簡単ではなかった。
アルトの身体は生まれつき丈夫とは言いがたく、魔力に対する抵抗力も弱い。長旅に出れば、移動するだけで体力を消耗する。魔力の影響が強い土地では、ほかの人間以上に危険が伴うこともあった。
知識を身につけ、弓の腕を磨いても、身体がついてこなければ旅は難しい。
それでも、諦めきれなかった。
せめて、この森のことだけは誰よりも詳しくなろう。
いつか森の外へ出られる日が来たとき、何も知らないまま立ち尽くすことがないように。
その思いを胸に、アルトは森を歩き、足跡を調べ、魔物の習性を学んできた。
そして今、目の前には、これまで見たこともない反応をする狼がいる。
「……考えすぎか」
アルトは小さく首を振った。
今は、答えの出ないことを考えていても仕方がない。
まずは家へ連れて帰り、傷の具合を確かめよう。それから考えても遅くはないはずだ。
アルトはちらりと後ろを振り返った。
狼は少し遅れながらも、懸命についてきている。ときおり傷ついた脚をかばうような仕草を見せるのが気になった。
アルトは歩く速度をわずかに落とした。
「もう少しだ。頑張れよ」
声をかけると、狼の耳がぴくりと動いた。
返事はない。
それでも、こちらの声が届いたことは分かった。
アルトの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
◇
森を歩き始めて、どれほど経っただろうか。
木々の隙間から差し込む光は、いつの間にか傾き始めていた。風が吹くたび、頭上で葉擦れの音が広がる。遠くから聞こえる鳥の鳴き声も、先ほどより少なくなっていた。
やがて、目の前を覆っていた木々が途切れた。
その先に、小さな木造の家が見えた。
家の周囲には、背丈ほどもない木の柵が巡らされている。壁板はところどころ色褪せていたが、傷んだ箇所は丁寧に補修されていた。
家の脇には薪が整然と積まれ、その近くには水を汲むための桶が置かれている。柵の内側には小さな畑もあり、土を盛った畝には、何種類かの植物が植えられていた。
森の中に建つ、質素な一軒家。
決して立派とは言えない。
けれど、手入れの行き届いたその場所には、誰かが日々を積み重ねてきた気配があった。
……ようやく休める。
そう思った瞬間。
ぐうううう。
腹が鳴った。
俺は反射的に口を閉じた。
いや、口を閉じたところで、腹の音が止まるわけではないのだが。
「……腹、減ってるのか?」
青年が振り返った。
俺は無言で彼を見上げる。
「そりゃそうか。森を歩き回って、あんな目に遭ったんだ。まともに食べてないんだろ?」
違う。
いや、違わない。
目を覚ましてから、まともな食事には一度もありつけていない。
ウサギを見つけたときは、ようやく飯にありつけると思った。だが、結果は無様な転倒と獲物の逃走。
その後はゴブリンに追われ、命からがら逃げ回る羽目になった。
思い返すだけで情けなくなる。
俺は力いっぱい頷きたかった。
だが、ここで人間のように頷いたら、余計に怪しまれるかもしれない。
そう思い直し、結局、青年を見つめることしかできなかった。
「……とりあえず、中に入るか」
青年は家の扉へ向かった。
木の扉には、長年使われてきたような細かな傷がついている。彼が取っ手に手をかけると、蝶番が小さく軋んだ。
扉を開けたところで、青年はふと思い出したようにこちらを振り返る。
「ただし、家の中を荒らすなよ。食べ物を勝手に持っていくのもなしだ」
分かってる。
分かってるから、早く飯をくれ。
俺は青年の横をすり抜け、家の中へ入ろうとした。
「おい、待て待て! まだいいとは言ってない!」
慌てた声が飛んできた。
……しまった。
どうやら、少しばかり気が急いていたらしい。
俺は扉の前で立ち止まり、ゆっくりと青年を振り返った。
アルトは呆れたように俺を見ていたが、やがて小さく笑った。
「まったく。ずいぶん人間くさい狼だな、お前は」
その言葉に、俺の耳がぴくりと動いた。
人間くさい。
そりゃそうだ。
中身は元人間なのだから。
……いや、そんなことを説明できるはずもないのだが。
「ほら、入れ。まずは傷の手当てだ。そのあと、何か食べさせてやる」
アルトは扉を大きく開いた。
俺は彼の顔を見つめた。
……本当か?
「なんだ、その目は。別に取って食ったりしないぞ」
いや、食われる心配をするなら、むしろ俺の方が危険な存在なのではないだろうか。
そんなことを考えながら、俺はようやく家の中へ足を踏み入れた。
室内には、乾いた木の匂いが漂っていた。
足元には板張りの床が広がり、中央には使い込まれた机と椅子が置かれている。壁際の棚には、器や小さな瓶、布に包まれた道具が整然と並んでいた。
窓辺には乾燥させた薬草が吊るされ、差し込む光を受けて、薄い影を床に落としている。
部屋は決して広くない。飾り気もほとんどなかった。
それでも、必要なものが必要な場所に収められた、落ち着いた空間だった。
ただ、ひとつだけ目を引くものがあった。
部屋の隅に置かれた、使い込まれた革の鞄。
その隣には、折り目のついた大きな地図が広げられていた。いくつもの土地に印がつけられ、端の方には、見慣れない文字で細かな書き込みがある。
俺がそちらを眺めていると、アルトが気づいた。
「ああ、それか。気になるのか?」
俺は地図から彼へと視線を移した。
「父さんが残したものなんだ」
アルトは地図の端をそっと持ち上げ、丁寧に折り畳んだ。
「昔、旅をしていた頃のものらしい。俺は話を聞くのが好きでさ。小さい頃から、いろんな場所の話を聞かせてもらっていたんだ」
そう語る彼の表情は、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「いつか、自分の目で見てみたいと思ってる。地図に載っている場所も、載っていない場所も」
その声には、隠しきれない憧れが滲んでいた。
けれど、地図をしまう手つきは、どこか慎重だった。
まるで、大切なものに触れるように。
「……まあ、今は難しいけどな」
アルトはそう付け加えると、地図を棚へ戻した。
それ以上、詳しく語ることはなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
……旅、か。
この世界には、俺の知らない場所がいくつもあるのだろう。
見たこともない街。聞いたこともない国。どんな魔物がいて、どんな人々が暮らしているのかも分からない。
そう考えると、ほんの少しだけ胸が躍った。
もっとも、今の俺には森から出るどころか、自分の足でまともに歩くことさえ難しいのだが。
先のことを考えるのは、もう少し生き延びてからにしよう。
まずは飯だ。
何よりも飯である。
ぐうううう。
再び腹が鳴った。
「……はいはい。分かったよ」
アルトは苦笑しながら、棚から器を取り出した。
「先に飯にするか」
その言葉を聞いた瞬間、俺の耳がぴんと立った。
ようやく。
ようやく、飯にありつける。
◇
アルトは器を手にしたまま、床に座り込んだ狼を見下ろした。
腹が鳴るたびに耳を動かし、食べ物の気配を感じ取ると、視線がそちらへ吸い寄せられる。
その様子は、どう見ても腹を空かせた獣そのものだった。
……いや、実際に獣なのだが。
アルトは小さく笑った。
「そういえば、お前。名前はあるのか?」
何気なく尋ねてみる。
当然、返事はない。
狼は顔を上げ、アルトをじっと見つめた。
その目には、妙な落ち着きがあった。
怯えているだけではない。かといって、完全に警戒を解いているわけでもない。
何かを考えているような、そんな目だった。
アルトは一瞬、違和感を覚えた。
しかし、すぐに首を振る。
まさかな。
魔物の中には、人間が思う以上に高い知性を持つものもいる。だからといって、目の前の狼が特別だと決まったわけではない。
「……まあ、分かるわけないか」
そう呟き、アルトは器を床に置いた。
狼はすぐさま顔を近づけたが、食べ始める前に、ちらりとこちらを見た。
まるで、食べてもいいのか確認しているようだった。
「いいぞ。食べな」
その言葉を聞くと、狼は勢いよく肉にかぶりついた。
「うわっ、そんなに急がなくても取らないって!」
アルトは慌てて器を押さえた。
狼は夢中で食べている。
先ほどまでの警戒心はどこへ行ったのかと思うほどだった。
その姿を見ていると、アルトの胸に、ほんの小さな安堵が広がった。
助けたからには、せめて傷が癒えるまでは面倒を見てやりたい。
それだけのことだ。
特別な理由があるわけではない。
ただ、目の前で困っている相手を見捨てることが、どうにもできなかった。
父は、生き残るための知識を教えてくれた。
森で何を警戒すべきか。どこを歩けば危険を避けられるのか。分からないものに出会ったとき、どう向き合うべきなのか。
けれど、目の前の相手を助けるかどうかは、知識だけでは決められない。
最後には、自分で選ぶしかないのだ。
今日のアルトは、助ける方を選んだ。
「……さて」
空になった器を片づけながら、アルトは狼へ目を向けた。
「今夜はここで休んでいけ。明日になったら、森に帰すかどうか考えるよ」
その瞬間、狼の耳がぴんと立った。
アルトは手を止めた。
狼は彼を見上げている。
先ほどまで食事に夢中だったとは思えないほど、真剣な目だった。
「……ん?」
狼がアルトの服の裾を、前脚でそっと押さえた。
「どうした?」
返事はない。
それでも、狼は裾を離そうとしなかった。
アルトは困ったように笑った。
「なんだよ。そんなにここが気に入ったのか?」
狼の耳が、わずかに伏せられた。
その反応を見て、アルトはふと考えた。
――この狼は、こちらの言葉を理解しているのではないか。
もちろん、動物が人間の声色や仕草から感情を読み取ることはある。言葉そのものを理解していなくても、声の調子や態度から、相手の意図を察することはできるだろう。
だが、それだけでは説明しきれない反応もあった。
森を歩いているときもそうだ。
道を教えれば、迷わずついてくる。
危険な場所を指摘すれば、まるで意味を理解しているかのように行動する。
そして今も、帰すという話をした途端、裾を押さえて引き留めようとした。
偶然だと片づけるには、少しばかり出来すぎている。
アルトはしゃがみ込み、狼の目を覗き込んだ。
「……お前、さっきから妙だな」
狼の体が、ぴたりと止まった。
その反応を、アルトは見逃さなかった。
「普通の狼なら、人間の言葉なんて気にしない。なのにお前は、まるで……」
アルトは言葉を切った。
考えすぎかもしれない。
目の前の狼は、ただ賢いだけなのかもしれない。
それでも、一度気になり始めると、確かめずにはいられなかった。
アルトは、できるだけ静かな声で問いかけた。
「……まさか、俺の言ってることが分かるのか?」
◇
心臓が跳ねた。
いや、正確には、心臓が跳ねたような気がした。
俺はアルトの顔を見つめたまま、完全に固まっていた。
……まずい。
これは、かなりまずい。
まさか、こんなに早く気づかれるとは思っていなかった。
いや、考えてみれば当然かもしれない。
俺は彼の言葉を理解しているし、その指示に従って動いている。人間の常識で考えれば、怪しまれない方がおかしい。
だが、どうする?
認めるべきか。
それとも、知らないふりをするべきか。
そもそも、狼の知らないふりとは何だ?
……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
アルトは俺を助けてくれた。
ゴブリンに襲われていた俺を見捨てず、傷を気遣い、家にまで連れてきてくれた。
食べ物まで与えてくれた。
少なくとも、今のところ、彼を疑う理由はない。
けれど――。
自分が人間だったことまで、簡単に打ち明けていいのだろうか。
いや、そもそも打ち明けたところで、どうやって信じてもらう?
もしもこう言えたとしよう
『実は俺、人間だったんです。気づいたら狼になっていました』
……駄目だ。
自分で想像してみても、信じてもらえる気がしない。
下手をすれば、頭のおかしい魔物だと思われるだけだ。
俺は息を呑んだ。
アルトが、もう一度尋ねる。
「……分かるのか?」
俺は彼の目を見た。
誤魔化すなら、今しかない。
目をそらすな。
鳴き声を上げろ。
何も分かっていないふりをしろ。
そう自分に言い聞かせた。
それなのに。
アルトの瞳を見つめているうちに、ふと、思った。
この青年は、俺が何者なのかも知らずに助けてくれた。
狼だからといって見捨てず、傷ついているからといって放っておかず、こうして食べ物と休む場所まで与えてくれた。
だったら、せめて。
今くらいは、彼を信じてもいいのではないだろうか。
気づけば、俺の首はゆっくりと動いていた。
縦に。
はっきりと。
アルトの表情が、凍りついた。
「…………え?」
沈黙。
俺もまた、固まっていた。
……しまった。
やらかした。
信じるのが、少し早すぎたかもしれない。
やっぱり人は信用しない方がいいのか?
前世みたいなやらかしはしたくない。
その思いは聞こえることはない。
そして異世界生活初日。
俺はどうやら、ただの狼ではないことがバレかけているらしい。




