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異世界来たのに狼ってそれはないでしょう!  作者: ナメク
第一章君の名前は

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第二話 初めての戦闘

 速い。

 いや、速いはずなんだ。

 四本の脚で地面を蹴り、木々の間を駆け抜ける。

 風が全身の毛を撫で、視界の端で木々が次々と後ろへ流れていく。人間だった頃には考えられなかった速度だ。たった数歩で、景色が目まぐるしく変わっていく。

 身体は軽い。脚力だって、間違いなく人間だった頃より上だ。

 それなのに。


「ギギギッ!」


 背後から、耳障りな叫び声が響いた。

 ……まだ追ってきてる!

 俺は振り返る余裕もなく、必死に脚を動かした。

 そもそも、どうしてこうなった?

 食料を探していただけだ。

 ウサギを捕まえようとして失敗し、仕方なく別の場所を探していたら、たまたまゴブリンを見つけた。

 危険そうだったから逃げようとした。

 なのに、小枝を踏んだ。

 たったそれだけで、命懸けの鬼ごっこが始まってしまった。

 ……理不尽すぎるだろ。

 しかも、相手は四匹。こちらは一匹。

 おまけに、俺は狼の身体に慣れていない。

 真っすぐ走るだけなら、どうにかなる。だが、木の根を避け、狭い隙間を抜け、急に方向を変えるとなると話は別だった。

 頭では分かっている。

 右へ避けろ。脚を踏み出せ。身体を低くしろ。

 それなのに、考えたとおりに身体が動かない。

 まるで、自分の身体なのに、自分のものではないみたいだった。

 このままじゃ、いずれ追いつかれる。

 どうする?

 どこかに隠れるか?

 いや、相手が嗅覚に優れていたら意味がない。そもそも、あいつらは人間ではなく魔物だ。前世の常識がどこまで通用するのかも分からない。

 なら、もっと速く走るしかない。

 俺は地面を強く蹴った。

 その瞬間、前方に倒木が見えた。

 避けろ!

 頭では分かっていた。

 だが、身体が反応しきれなかった。

 前脚が倒木に引っかかる。踏ん張ろうとした後ろ脚が地面を滑った。

 視界が大きく傾いた。

「ぐわっ!」

 身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。

 痛い。

 普通に痛い。

 全身に鈍い衝撃が走り、肺から空気が抜けた。

 ……くそっ。

 起き上がろうとする。

 前脚に力を込めた。爪が土を掻く。だが、身体を持ち上げるだけで痛みが走り、思わず歯を食いしばった。

 その間にも、背後から足音が近づいてくる。

 ガサガサと茂みが揺れ、四匹のゴブリンが姿を現した。


「ギギッ!」


 一匹が棍棒を掲げる。

 別の一匹は、俺の逃げ道を塞ぐように横へ回り込んだ。

 ……こいつら、意外と頭が回るな。

 いや、感心している場合じゃない。

 俺は痛む前脚をかばいながら、どうにか立ち上がった。

 背後には太い木の幹。左右にはゴブリン。正面にも二匹。

 逃げ道がない。

 ……詰んだか?

 脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。

 いや、まだだ。

 諦めるには早い。

 確か、ロットウルフは単独のゴブリンより身体能力       が高い。

 鋭い牙も爪もある。

 まともに戦えば、勝ち目がないわけじゃない。

 問題は、俺がそれを使いこなせていないことだ。

 それでも、一匹を倒せれば隙ができるかもしれない。

 俺は牙を剥き出しにし、喉の奥から唸り声を絞り出した。

「グルルル……」

 自分でも驚くほど低い声だった。

 ゴブリンたちが一瞬だけ動きを止める。

 よし。

 威嚇くらいは通じるらしい。

 その隙に逃げ道を探す。

 右は塞がれている。左も無理だ。

 正面の二匹を突破するしかない。

 俺は、棍棒を持ったゴブリンに狙いを定めた。

 腕が振り上がる。その瞬間に身体を低くして懐へ飛び込めば、攻撃を避けながら脇を抜けられるかもしれない。

 今だ!

 地面を蹴った。

 だが、ゴブリンは俺の動きを見ていた。

 振り下ろされる棍棒。

 ――速い!

 とっさに身体をひねる。

 棍棒が肩をかすめ、鈍い痛みが走った。

 それでも止まらず、俺はゴブリンの脇をすり抜けようとした。


「ギギッ!」


 横から、別のゴブリンが飛び込んでくる。

 避けられない。

 肩に衝撃が走った。

 身体が横へ弾かれ、地面を転がる。

 今度は、すぐに立ち上がれなかった。


「……っ、くそ……!」


 痛みで息が詰まる。

 何だよ、これ。

 ゲームなら、攻撃を受けても体力ゲージが減るだけだ。

 画面の向こうでキャラクターが倒れても、やり直せば済む。

 けれど、今は違う。

 痛みがある。

 恐怖がある。

 失敗すれば、そのまま命を落とすかもしれない。

 分かっていたつもりだった。

 でも、実際に殴られてみると、そんな知識は何の役にも立たなかった。

 前脚に力を込める。

 爪が土に食い込んだ。

 身体を起こそうとする。だが、脚が震え、力がうまく伝わらない。

 逃げろ。

 頭の中で、何度も声が響く。

 逃げなければ死ぬ。

 そんなことは分かっている。

 それなのに、身体が動かない。

 ゴブリンの足音が近づいてきた。

 ゆっくりと、獲物を追い詰めるように。

 顔を上げると、棍棒を持ったゴブリンが目の前に立っていた。

 その醜い顔に、獲物を見つけた喜びが浮かんでいるように見えた。

 ……ああ。

 これ、駄目かもしれない。

 せっかく、もう一度生きる機会をもらったのに。

 何もできないまま終わるのか?

 英雄になりたかった。

 誰かを助けられる人間になりたかった。

 けれど、前世では何もできなかった。

 助けを求めた友人に手を伸ばして、結局、最後には一人になった。

 だから、もう期待しないと決めたはずだった。

 誰かを助けることも、英雄になることも。

 現実は、物語みたいに都合よくできていない。

 それなのに。

 心のどこかでは、期待していたのかもしれない。

 今度こそ、何かを変えられるんじゃないかと。

 ……馬鹿だな、俺は。

 ゴブリンが棍棒を振り上げる。

 逃げなければ。

 そう思うのに、脚が動かない。

 目の前の光景が、ひどくゆっくりに感じられた。

 俺は目を閉じかけた。

 そのときだった。

 ――ヒュッ!

 風を切る音。

 次の瞬間、ゴブリンの肩に一本の矢が突き立った。


「ギャッ!?」


 悲鳴とともに、ゴブリンが棍棒を取り落とす。

 何が起きた?

 俺が顔を上げると、木々の向こうに人影が見えた。

 若い男だった。

 少し乱れた茶色の髪。深い緑色の瞳。身につけているのは、森を歩くのに適した地味な服装だ。背中には矢筒を背負い、手には弓を構えている。

 男は俺とゴブリンたちを一瞥すると、迷いなく次の矢をつがえた。


「そこの狼! 動けるなら、今のうちに離れろ!」


 ……狼?

 俺のことか?

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 俺は痛む身体を引きずり、どうにか起き上がった。

 矢を受けたゴブリンが怒りの声を上げ、男のほうへ振り返る。残る三匹も、突然現れた敵を警戒していた。

 男はすぐには矢を放たなかった。

 弓を構えたまま、木の陰へと横移動する。

 ゴブリンたちの視線が、自然とそちらへ向いた。

 その隙に、男は俺とゴブリンたちの間へ木を挟む位置へ移動した。

 ……うまい。

 詳しいことは分からない。

 それでも、あの男がゴブリンたちの動きを誘導していることだけは理解できた。

 俺が正面から突破しようとして失敗した相手を、男はまともに相手にしようとすらしていない。

 ただ、距離を取る。

 木を使う。

 相手が動いた瞬間を狙う。

 それだけで、戦いの流れが変わり始めていた。

 だが、男の表情に余裕はなかった。

 四匹のゴブリンは、まだ一匹も倒れていない。

 そして、そのうちの一匹が、木の向こうへ回り込もうとしていた。


     ◇

 ――まずいな。

 アルトは、弓を構えたまま小さく息を吐いた。

 ゴブリンが四匹。

 一匹は肩に矢を受けているが、まだ動ける。残る三匹もこちらを警戒し、じりじりと距離を詰めていた。

 そして、彼らの少し後ろには、一頭のロットウルフがいる。

 灰色の毛並みに、琥珀色の瞳。

 体格だけを見れば、まだ若い個体だろう。

 ロットウルフは単独のゴブリンよりも身体能力に優れる。鋭い牙と爪を持ち、森の中では厄介な相手だ。

 それなのに、あの狼はゴブリンに追われ、障害物を避けきれずに転倒した。

 怪我をしているのか。

 それとも、何か別の理由があるのか。

 アルトは判断を保留した。

 森では、目の前のものを見たまま信じるのは危険だ。弱そうに見えても、予想外の力を隠している魔物はいる。反対に、強そうな相手でも、小さな傷が命取りになることだってある。

 必要なのは、思い込みではなく観察だ。

 まずは、目の前の敵をどうにかする。

 ゴブリンたちの足元には、動物の骨が散らばっていた。近くの茂みは踏み荒らされ、土にも複数の足跡が残っている。

 ここを餌場にしているのだろう。

 四匹とも武器を持っているが、互いの動きを細かく合わせるほどの連携はない。ただし、獲物を囲み、逃げ道を塞ぐ程度の知恵はある。

 油断できる相手ではなかった。


「……まいったな」


 アルトは誰にも聞こえない声で呟いた。

 できれば、戦いたくはなかった。

 ゴブリン四匹を相手にするのは、弓が使えるからといって簡単なことではない。

 矢には限りがある。近づかれれば弓を十分に扱えなくなるし、無理に走り回れば、こちらの体力が先に尽きる。

 それでも、見捨てて立ち去ることはできなかった。

 別に、魔物なら何でも助けたいというわけではない。

 危険な相手には近づかない。勝ち目のない戦いは避ける。森で生きていくなら、当然の判断だ。

 ただ――。

 目の前で、逃げ場を失ったものがいた。

 自分には、それを見なかったことにして立ち去る理由が見つからなかった。


「……まったく。面倒な性分だ」


 自分自身に呆れながら、アルトは弦を引き絞った。

 最初の矢は、ゴブリンが棍棒を振り上げた瞬間に放った。

 狙ったのは、頭でも胸でもない。

 肩。

 致命傷を与えるためではなく、攻撃を中断させるためだ。

 狙いは成功した。

 だが、それで状況が好転したわけではない。

 矢を受けたゴブリンが怯んだ一方で、残る三匹がこちらへ意識を向けた。狼に向けられていた敵意が、一斉に自分へ移ったのだ。

 アルトは内心で舌打ちした。

 四匹の注意を引くところまでは想定していた。

 問題は、思っていたよりも早く、彼らがこちらへ向かってきたことだった。

 ――狼が逃げてくれれば、もう少し楽だったんだけどな。

 そんなことを考えながら、アルトは木の幹を背にしないよう、ゆっくりと位置を変えた。

 森の中では、木々は障害物であると同時に盾にもなる。

 相手の進路を限定し、複数の敵が同時に襲いかかれない位置を選ぶ。

 大切なのは、四匹をまとめて相手にしないことだ。

 一匹ずつなら、対処できる。

 もっとも、それは相手が思いどおりに動いてくれればの話だが。

 アルトは次の矢をつがえた。


     ◇


「ギギギッ!」

 一匹が男へ突進した。

 男は真正面から受け止めようとはしなかった。

 半歩だけ横へずれ、ゴブリンの進路を外す。

 そして、すれ違いざまに矢を放った。

 矢はゴブリンの腕をかすめる。

 致命傷ではない。

 だが、ゴブリンは一瞬だけ怯み、その足を止めた。


「一匹ずつ来てくれると、助かるんだけどな!」


 男が叫んだ。

 ……そんなこと言っても、聞くわけないだろ。

 思わず心の中で突っ込んだ。

 だが、その声には不思議と余裕があった。少なくとも、俺を安心させるために無理やり強がっているようには聞こえなかった。

 男は距離を取り、木々の間を移動する。

 無理に攻撃せず、相手が動いた瞬間だけ矢を放つ。

 その動きには、森で生きる者の慣れがあった。

 ……戦い慣れている。

 ただ弓が使えるだけじゃない。

 森の地形も、ゴブリンの習性も、よく知っているんだ。

 俺とは大違いだ。

 俺は自分の身体すら満足に扱えず、ゴブリンの棍棒を避けることもできなかった。

 対して、あの男は四匹を相手にしながら、冷静に状況を判断している。

 悔しい、というより。

 ただ、すごいと思った。

 ……いや、感心している場合じゃない。

 俺だって、いつまでも地面に伏せているわけにはいかない。

 せめて、逃げるくらいは自分でやらなければ。

 俺は痛む前脚に力を込めた。

 爪が土を掻く。

 身体が揺れた。

 それでも、今度は倒れなかった。

 どうにか四本の脚で立ち上がる。

 そのときだった。


「ギギッ!」


 ゴブリンの一匹が、男の横を抜けて走り出した。

 向かった先は、俺のほうだった。

「……っ、そっちか!」

 男の声から、初めて明確な焦りが消えた。

 いや、違う。

 焦りを隠す余裕がなくなったのかもしれない。

 男はすぐさま弓を引いた。

 しかし、別のゴブリンが間に割り込む。

 矢を放てば、狙いが逸れる可能性がある。躊躇した一瞬の間に、ゴブリンはさらに距離を詰めていた。

 まずい。

 こいつを倒せなければ、俺はまた逃げられなくなる。

 けれど、脚はまだ痛む。まともに戦えば、さっきと同じ結果になるだけだ。

 どうする。

 どうすればいい。

 俺はゴブリンを睨みつけた。

 そして、気づいた。

 ゴブリンの視線が、俺の顔に向いている。

 いや、正確には、俺の牙に。

 そうだ。

 俺は人間じゃない。

 狼だ。

 今まで、人間だった頃の感覚で身体を動かそうとしていた。立ち上がるときも、走るときも、戦おうとするときも。

 でも、今の俺には、人間の腕も脚もない。

 あるのは、四本の脚と牙と爪だ。

 だったら――。


「グルルルルッ!」


 俺は、ありったけの力で唸った。

 喉の奥から響く、獣の声。

 ゴブリンが一瞬だけ足を止める。

 その隙に、俺は横へ跳んだ。

 逃げるためではない。

 ゴブリンの進路から外れ、木の幹を挟む位置へ。

 次の瞬間、ゴブリンが棍棒を振り下ろした。

 狙いを外した一撃が、木の幹にぶつかる。


「ギッ!?」


 鈍い音が響いた。

 ほんの一瞬。

 だが、それで十分だった。

「よし、そこ!」

 男の声が飛んだ。

 放たれた矢が、ゴブリンの腕を射抜く。

 棍棒が地面に落ちた。

 俺はその場から飛び退き、距離を取る。

 今度は、転ばなかった。

 ……やった。

 ただ避けただけだ。

 攻撃すらしていない。

 それでも、自分の意思で身体を動かし、相手の攻撃を避けることができた。

 たったそれだけのことが、今は妙に嬉しかった。


「おお。今のは悪くなかったぞ、狼!」


 男がこちらへ声を飛ばした。

 褒められた。

 ……いや、狼として褒められるのは、何とも複雑なんだが。

 そんなことを考えている暇はなかった。

 残る二匹のゴブリンが、再び男へ迫っていたからだ。

 男はすぐに表情を引き締めた。


「さて。そろそろ帰ってくれないかな。僕も、いつまでも付き合っていられるほど暇じゃないんだ」


 そう言いながら、彼は一歩ずつ後退した。

 声は軽い。

 けれど、その額には汗が浮かんでいた。

 男の呼吸は、戦いが始まったときよりも明らかに荒くなっている。

 それでも、弓を構える手に迷いはなかった。

 ゴブリンの一匹が、男の隙を突くように横へ回り込む。

 男はそれに気づくと、すぐさま弓を向けた。

 だが、矢筒に手を伸ばした瞬間、動きがわずかに止まった。

 ……矢が少ないのか?

 考えるより先に、男が動いた。

 矢を一本つがえ、ゴブリンの足元へ放つ。

 矢は地面に突き刺さった。

 ゴブリンが驚いて足を止める。

 その隙に、男は木の陰へ滑り込んだ。


「危ない危ない……。当たったら、しゃれにならないところだった」


 小さく呟く声が聞こえた。

 ……今の、わざと外したのか?

 いや、足元を狙ったのだろう。

 相手の動きを止めるために。

 攻撃することだけが、戦いじゃない。

 あの男は、それを知っている。

 俺には、まだ分からないことばかりだった。

 だが、少なくとも一つだけ分かった。

 強さというのは、ただ相手を倒せることじゃないのかもしれない。

 どこで戦うのか。

 いつ攻撃するのか。

 そして、いつ逃げるのか。

 そんなことまで考えられるのが、本当に強いということなのだろう。

 もっとも、今はそんなことをじっくり考えている余裕もなかった。


「ギギギギッ!」


 肩に矢を受けたゴブリンが、仲間を呼ぶように甲高い声を上げた。

 森に響き渡る叫び。

 残る三匹が動きを止め、傷ついた仲間を振り返った。

 男はその隙を逃さず、弓を構え直した。

 短い沈黙が流れる。

 ゴブリンたちは、俺と男を交互に見た。

 この戦いに勝つことが、彼らにとって絶対の目的ではないのだろう。

 目の前の人間は簡単には倒せない。

 獲物だった狼も、まだ動ける。

 そのうえ、仲間の一匹が傷を負っている。

 これ以上の危険を冒すより、退くほうが得策だ。

 そう判断したのかもしれない。

 やがて、ゴブリンたちは傷ついた仲間を支えるようにして、森の奥へと退いていった。

 男は追わなかった。

 ゴブリンたちの姿が見えなくなってからも、しばらく弓を構えたまま周囲を警戒していた。

 やがて、ふう、と息を吐く。


「……よし。生きてる」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 男は弓を下ろすと、木の幹に片手をついた。

 ほんの一瞬、呼吸を整えるように目を伏せる。

 それから何事もなかったかのように顔を上げ、こちらへ歩いてきた。


     ◇


「おい。大丈夫か?」


 男が俺の前で足を止めた。

 大丈夫なわけがない。

 身体中が痛いし、心臓はまだ激しく鳴っている。

 それでも、俺は何とか立ち上がった。


「……ゥ」

「……ん?」


 男が首を傾げた。

 俺も首を傾げた。

 ……いや、待て、

 そうだった。

 俺、狼なんだった。

 普通に返事をするつもりだったのに、口から出たのは情けない鳴き声だけだった。

 男は俺の姿をじっと見つめた。

 灰色の毛並み。琥珀色の瞳。

 そして、ゴブリンに襲われた直後だというのに、妙に人間くさい反応をする狼。


「……ロットウルフ、だよな?」


 男が呟いた。

 俺は反射的に頷きかけ、途中で動きを止めた。

 ……いや、俺はロットウルフなのか?

 自分の種族すら、まだよく分かっていない。

 男はそんな俺を見て、少しだけ眉を上げた。


「……何だ、その顔。自分の種族を知らない、なんてことはないよな?」


 知っているわけがない。

 そもそも、俺はついさっきまで人間だったのだ。

 だが、それをどう説明すればいいのか。

 俺は口を開きかけ、結局、何も言えずに閉じた。

 男はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく肩をすくめた。


「まあ、いいか。話せない事情くらい、誰にでもあるだろうし」

 ……いや、話せないんじゃなくて、話しても伝わらないんだと思う。

 心の中でそう返す。

 男は俺の前脚へ視線を落とした。

「そこ、痛むか?」


 俺は少しだけ脚を引いた。

「無理に動かすなよ。今は立てていても、後から痛みがひどくなることもある。歩けそうか?」

 俺はゆっくりと前脚に力を込めた。

 痛みは残っている。

 だが、どうにか歩けそうだった。

 それを見て、男は頷いた。

「よし。なら、ひとまずここを離れよう。あいつらが戻ってこないとも限らないからな」

 男は立ち上がり、森の奥へ目を向けた。

 その横顔には、先ほどまでの戦闘の緊張がまだ残っていた。

 それでも、俺に向ける眼差しは穏やかだった。

 ……助かった。

 ようやく、その実感が湧いてきた。

 もし、あの男が現れなかったら。

 考えたくもない。

 俺は男の後ろ姿を見つめた。

 人間だ。

 久しぶりに見た、人間。

 正確には、目を覚ましてから初めて出会った人間だ。

 警戒するべきなのかもしれない。

 相手が善人だとは限らない。助けてくれたからといって、すぐに信用していいわけでもない。

 ……前世の俺なら、そう考えることもできたはずだ。

 けれど、今の俺には、この男についていく以外に選択肢がなかった。


「おーい。置いていくぞ?」


 少し先から、男の声が飛んできた。

 振り返ると、彼はこちらを見ていた。

「ついてくるなら、早めにな。森の中で立ち話をする趣味はないんだ」

 ……口が悪いわけじゃない。

 たぶん、こういう性格なのだろう。

 俺は一瞬だけ迷った。

 それから、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 男は俺がついてきたことを確認すると、満足そうに頷いた。


「よし。じゃあ、行こうか」


 その声は、戦闘中よりも少しだけ柔らかかった。

 俺は黙って、その背中を追いかけた。

 森の木々の間から、柔らかな光が差し込んでいる。

 異世界での新しい人生。

 その初日に、俺はゴブリンに追い回され、地面を転がり、あと少しで命を落とすところだった。

 そして今、見知らぬ青年に助けられた。

 ……まったく。

 前途多難にもほどがある。

 それでも。

 ほんの少しだけ、思った。

 この世界には、まだ知らないことが山ほどある。

 魔物のことも。

 この身体のことも。

 そして、目の前を歩く青年のことも。

 彼はどうして、危険を冒してまで俺を助けたのだろう。

 森で生きるために必要なのは、危険を避けることだと、俺はさっきまで考えていた。

 けれど、あの男は違った。

 危険を理解したうえで、それでも手を伸ばした。

 その姿が、なぜか頭から離れなかった。

 俺はまだ、何もできない。

 自分の身体すら満足に扱えず、誰かに助けてもらわなければ生き残ることもできない。

 それでも。

 この世界でもう一度生きるのなら。

 今度は、少しくらい違う自分になれるだろうか。

 答えは出ない。

 ただ、前を歩く青年の背中を見失わないように、俺は一歩ずつ足を進めた。

 ――こうして俺は、異世界で初めての戦闘を終えた。

 勝ったわけじゃない。

 何かを成し遂げたわけでもない。

 ただ、生き残っただけだ。

 けれど、その日。

 俺は初めて、この世界で誰かと出会った。

 それが、俺の新しい人生の始まりだった。

 友を救ったはずの俺はその友に裏切られ、クズッになり人を信用できなくなった。

 でもこの男ならそう言う希望を抱き俺は、いや俺たちは歩き出した。

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