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異世界来たのに狼ってそれはないでしょう!  作者: ナメク
第一章君の名前は

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2/26

第一話 どうやら俺は狼らしい

 ――腹が減った。

 意識が浮かび上がってきて、最初に思ったのはそれだった。

 ひどく腹が減っている。

 腹の奥が空っぽで、身体の内側から何かを食べろと訴えかけられているようだった。

 ……いや、待て。

 そもそも、俺はどうしてこんなところで寝ているんだ?

 ゆっくりと目を開けた。

 視界いっぱいに、青空が広がっていた。

 枝葉の隙間から覗く、どこまでも澄んだ青。風に揺れる木々。頬に触れる湿った草。鼻先をくすぐる、土と緑の匂い。

 遠くでは鳥がさえずり、聞いたこともない獣の鳴き声が森の奥から響いていた。

 …………。

 どこだ、ここ。

 少なくとも、俺の部屋ではない。

 自慢じゃないが、俺の部屋はこんなに爽やかな場所じゃなかった。カーテンは閉め切り、床には脱ぎっぱなしの服が散らばり、机の上には空になったペットボトルが並んでいた。

 目を覚ます理由といえば、スマホのアラームか、空腹か、あるいは嫌な夢くらいだった。

 それなのに、今はどうだ。

 聞こえてくるのは自然の音ばかり。肌を撫でる風は心地よく、頭上には見知らぬ木々がどこまでも続いている。

 まるで、ファンタジーゲームのフィールドにでも放り出されたような光景だった。


「……夢か?」


 そう呟こうとした。

 しかし、口から漏れたのは、喉の奥を震わせるような妙な音だった。

「……ゥ?」

 …………。

 何だ、今の。

 寝起きだから声が出ないとか、そういう問題じゃないだろ。

 俺は眉をひそめようとした。

 そこで、ふと気づいた。

 ――眉って、どこだ?

 いや、それ以前に。

 俺は、どうしてこんな場所にいる?

 最後に何をしていた?

 記憶をたどろうとした瞬間、頭の奥に鋭い違和感が走った。

 夜の街。

 アスファルトを照らすヘッドライト。

 誰かの叫び声。

 そして――。

 小さな人影が、道路の向こうにいた。

 少女だった。

 金髪の髪に美しすぎる瞳

 こりゃあどこの世界の住人だと思う感じの少女。

 顔はよく分からなかった。

 ただ、彼女がこちらを向いたことだけは覚えている。

 次の瞬間、眩い光が視界を埋め尽くした。

 耳をつんざくような音。

 咄嗟に伸ばした手。

 そして、すべてが途切れた。

 …………。

 あ。

 そうだ。

 俺、死んだんじゃなかったか?

 頭の中が、すっと冷たくなった。

 あのとき、確かに俺は――。

 いや、待て。

 待て待て待て。

 死んだ?

 俺が?

 じゃあ、ここはどこだ。

 病院か? それとも、夢の中か?

 まさか、天国……なんてことはないよな。

 いや、天国にしては妙に自然が豊かすぎる。というか、もっとこう、神々しい感じとか、天使とか、そういうものがあってもいいんじゃないだろうか。

 ……いや、そもそも俺が天国に行けるような人間だったか?

 考えれば考えるほど、分からなくなってくる。

 俺は混乱を振り払うように、身体を起こそうとした。

 そして、気づいた。

 手がない。

 正確には、手の代わりに見覚えのないものが生えていた。

 灰色の毛に覆われた前脚。先端には黒い爪。動かそうと意識すれば、指の代わりに脚先がぴくりと動く。

 …………。

 何だ、これ。

 俺は固まった。

 ゆっくりと視線を落とす。

 胴体も毛だらけ。

 後ろ脚もある。

 そして、尻のあたりから伸びている長いものが、俺の意思とは無関係に揺れていた。

 …………。

 いやいやいや。

 待て待て待て。

 情報が多い。

 死んだと思ったら見知らぬ森にいて、声はおかしいし、手もない。おまけに、身体中が毛だらけで、尻からは尻尾まで生えている。

 いったん落ち着こう。

 こういうときこそ、冷静に状況を整理するべきだ。慌てても何も解決しない。まずは事実を確認し、それから原因を考える。

 ……と、頭では分かっている。

 分かっているのだが。


「な、何じゃこりゃあああああ!?」


 森に、獣の悲鳴が響き渡った。

 俺の声だった。

 いや、声というより鳴き声だ。自分では人間らしく叫んだつもりなのに、出てきたのは狼の遠吠えを失敗させたような音だった。

 最悪だ。

 死んだかもしれないと思った直後に、今度は狼になっている。

 どういうことだよ。

 誰か説明してくれ。

 ……いや、誰もいないんだった。

 俺は慌てて立ち上がろうとした。

 四本の脚がもつれ、あっさりと地面に転がった。


「ぐふっ!」

 …………。

 痛い。

 普通に痛い。

 夢なら、もう少し都合よくできていてもいいだろ。

 俺は情けなくなりながらも、なんとか身体を起こした。

 幸い、すぐ近くに小さな水たまりがあった。

 水面を覗き込む。

 そこに映っていたのは、黒に近い灰色の毛並みを持つ狼だった。

 鋭い三角形の耳。長い鼻先。琥珀色の瞳。口元から覗く白い牙。

 犬と言い張るには凶悪すぎるし、着ぐるみと言い張るには毛並みが生々しすぎる。

 俺が口を開くと、水面の狼も口を開いた。

 俺が目を細めると、水面の狼も目を細めた。

 …………。

 なるほど。

 認めたくないが、認めるしかないらしい。

 俺は狼になっていた。


「…………」

 何だよ、それ。

 死んだあとに、狼に転生?

 そんなことが本当にあるのか?

 いや、知識としては知っている。小説でもゲームでも、異世界に転生する話は珍しくない。

 だが、それはあくまで物語の中の話だ。

 自分が実際にそうなるなんて、考えたこともなかった。

 しかも、よりによって狼。

 剣と魔法の世界に生まれ変わるなら、せめて人間にしてくれ。

 チート能力をくれとは言わない。いや、できれば欲しいけど。

 王族じゃなくてもいい。勇者じゃなくてもいい。

 ただ、二本の足で立って、普通に喋れる身体が欲しかった。

 ……贅沢なのだろうか。

 俺は水面に映る自分を見つめた。

 鋭い牙。獣の爪。黒に近い灰色の毛並み。

 そこにいるのは、どう見ても人間ではない。

 それなのに、頭の中には人間だった頃の記憶が残っている。

 自分が何者だったのか。

 どんな人生を送ってきたのか。

 そして、最後に何があったのか。

 少女の姿が、再び脳裏をよぎった。

 道路に立つ、小さな影。

 こちらを向いた顔。

 伸ばした手。

 あのとき、俺は何を考えていたんだろう。

 怖かったのか。

 助けなければと思ったのか。

 それとも、ただ身体が勝手に動いただけだったのか。

 思い出そうとしても、肝心なところだけがぼやけている。

 ただ一つ、覚えていることがあった。

 ――俺は、あの少女を助けようとした。

 そして、次の瞬間には何も分からなくなった。

 …………。

 俺は水面から目を逸らした。

 今さら考えたところで、答えなんて出るはずがない。

 それに。

 人間だった頃の俺は、大して立派な人間じゃなかった。

 誰かを救えるほど強くもなければ、誰かを導けるほど賢くもない。

 正しいことをしたつもりでも、最後には自分が傷ついて終わる。

 それなのに、心のどこかではずっと夢を見ていた。

 誰かが困っていたら助ける。

 誰かが泣いていたら手を差し伸べる。

 そんな、物語の主人公みたいな人間になりたかった。

 ……馬鹿みたいな話だ。

 現実は物語じゃない。

 正しいことをしたからといって、誰かが味方になってくれるわけじゃない。勇気を出したからといって、報われるわけでもない。

 それを、俺は身をもって知っている。

 だったら、狼になったところで何が変わる?

 今さら誰かを救えるようになるわけでもないだろう。

 胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。

 俺は小さく息を吐いた。

 ……やめよう。

 今は、そんなことを考えている場合じゃない。

 俺が死んだのなら、元の世界にはもう戻れないのかもしれない。

 ここがどこなのかも、自分がどうして狼になったのかも分からない。

 分からないことだらけだ。

 けれど、一つだけ確かなことがある。

 ――腹が減った。

 死んだあとだろうが、異世界だろうが、狼になろうが、腹は減るらしい。

 ……まったく。

 先が思いやられる。

 俺は水たまりから離れ、四本の脚で立ち上がろうとした。

 まずは、この身体に慣れること。

 それから、食べ物を探すこと。

 何が起きたのかを考えるのは、そのあとでいい。

 そう自分に言い聞かせ、俺は森の中へと足を踏み出した。

 ◇

 歩き始めて、すぐに問題が発生した。

 歩きにくい。

 いや、正確には、歩き方が分からない。

 人間だった頃と同じ感覚で脚を動かすと、前脚と後ろ脚が妙な具合に絡まる。右へ進もうとすれば身体が傾き、急いで立て直そうとすれば、今度は反対側へよろめいた。

 何度もつまずき、木の根に鼻先をぶつけ、しまいには自分の脚に腹を立てた。

 ……誰だよ、狼の身体は便利だなんて言った奴。

 俺だ。

 さっきの俺だ。

 訂正する。全然便利じゃない。

 そもそも、どうして四本脚の生き物はあんなに器用に歩けるんだ?

 前脚と後ろ脚を交互に動かせばいいだけだと思っていたのに、実際にやってみると、これが驚くほど難しい。

 頭では分かっている。

 分かっているのに、身体がついてこない。

 人間だった頃は、歩くことに何の苦労も感じなかった。目を覚まして、立ち上がって、部屋を出る。それだけのことに、いちいち意識を割く必要なんてなかった。

 それが今では、数歩進むだけで一苦労だ。

 ……人間の身体って、実はすごかったんだな。

 今さらながら、どうでもいいことに感心してしまった。

 それでも、何度も転んでいるうちに、身体は少しずつ動きを覚え始めた。

 前脚で地面を捉え、後ろ脚で身体を押し出す。

 重心を意識して、無理に急がず、一歩ずつ進む。

 そうしていると、ようやくまともに歩けるようになってきた。

 ……よし。

 人間だった頃の俺なら、ここで自分を褒めていたところだ。

 たかが歩くこと。

 けれど、できなかったことができるようになるのは、案外悪い気分じゃない。

 もっとも、今の俺がやっているのは、ただの歩行練習なのだが。

 喜んでいいのか、少し複雑だった。

 俺は気を取り直し、森の中を進んだ。

 木々はどこまでも続いている。

 視界を遮る幹。地面を覆う草。ところどころに張り出した木の根。

 人間だった頃なら、ただの自然の風景として眺めていただろう。

 だが、今は違う。

 この森には、俺の知らないものが多すぎる。

 ここが本当に異世界なのかも分からない。元の世界と同じ生き物がいるのかも分からない。そもそも、俺が狼として生きていけるのかさえ怪しい。

 考えれば考えるほど、不安が増えていく。

 ……いや。

 今は余計なことを考えるな。

 まずは生き残ること。

 それだけだ。

 俺は鼻先を上げた。

 風が吹き抜ける。

 湿った土の匂い。腐りかけた木の匂い。青臭い草の匂い。

 それらに混じって、何か別の匂いが流れてきた。

 俺は思わず足を止めた。

 ……何だ?

 鼻をひくつかせ、もう一度空気を吸い込む。

 草の向こうに、小さな生き物の匂いがある。

 それだけではない。

 耳を澄ませば、微かな物音も聞こえてきた。

 カサ、カサッ。

 草むらが揺れている。

 俺はゆっくりと姿勢を低くした。

 ……いる。

 何かがいるぞ。

 心臓が早鐘を打った。

 獲物かもしれない。

 食べ物が手に入るかもしれない。

 そう考えた瞬間、腹の奥がぎゅうっと縮んだ。

 そうだ。

 俺は今、狼なんだ。

 狼なら、狩りくらいできるはず。

 いや、できてくれなければ困る。

 人間の頃の知識がどれだけ役に立つのかは分からないが、少なくとも、このまま何も食べずに森をさまよい続けるわけにはいかない。

 俺は音を立てないように、ゆっくりと草むらへ近づいていった。

 葉の隙間から、茶色い毛並みが見えた。

 長い耳。

 小さな身体。

 丸い尻尾。

 ウサギだ。

 ……よし。

 よしよしよし。

 肉だ。

 あれを捕まえれば、少なくとも今日は生き延びられる。

 俺は息を殺し、身体に力を込めた。

 狙いを定める。

 距離を測る。

 飛びかかるタイミングをうかがう。

 ……いける。

 いけるぞ。

 俺は狼だ。

 あっちはウサギだ。

 どう考えても、こちらが有利なはず。

 人間だった頃の俺にはなかった牙も爪もある。脚力だって、さっき走ったときに十分実感した。

 これなら――。

 ウサギが、こちらを向いた。

 目が合った。

 次の瞬間。

 ウサギは弾かれたように走り出した。


「あっ、待てコラ!」


 俺も反射的に駆け出した。

 速い。

 いや、俺も速いはずだ。

 四本の脚が地面を蹴る。風が毛並みを撫で、木々の景色が後ろへ流れていく。

 人間だった頃には考えられない速度だった。

 身体が軽い。

 脚が動く。

 地面を蹴るたび、前へ進む感覚が全身を駆け抜ける。

 ――これなら、いける!

 希望が確信に変わりかけた、そのとき。

 ウサギが木の根を飛び越え、茂みの下を潜った。

 俺も続こうとした。

 だが、狼の身体に慣れていない俺は、着地のタイミングを見誤った。

 前脚が根に引っかかる。

 身体が傾く。

 視界がぐるりと回転した。

 そして――。

 盛大に転んだ。


「ぐえっ!」


 地面を転がり、枯れ葉の山に突っ込む。

 しばらく、動けなかった。

 …………。

 何やってんだ、俺。

 ウサギは逃げた。

 獲物は逃げた。

 俺は転んだ。

 完璧な敗北だった。

 誰に見られていたわけでもないのに、妙に恥ずかしい。

 いや、そもそも狼の姿で恥ずかしがる意味があるのか?

 あるんだよ。

 中身は人間なんだから。

 俺は身体を振って枯れ葉を払い落とした。

 その瞬間、腹の底から情けない音が鳴った。

 ぐぅぅぅ……。

 …………。

 笑えない。

 さっきまでは自分の情けなさを笑えていたが、今は無理だ。

 空腹というのは、人間の尊厳を簡単に踏みにじる。

 ましてや、今の俺は狼だ。

 尊厳を守る前に、まず胃袋を守らなければならない。

 ……いや、胃袋があるのかどうかも知らないけど。

 もういい。

 細かいことは後回しだ。

 俺は再び歩き始めた。

 今度こそ、何か食べられるものを見つけなければならない。

 ウサギが駄目なら、木の実でもいい。魚でもいい。最悪、虫でも……いや、虫はできれば遠慮したい。

 食べ物に好き嫌いを言っている場合ではないと分かっていても、心は簡単には割り切れなかった。

 人間だった頃の感覚が、まだ残っている。

 それはきっと、悪いことばかりではない。

 だが、生き残るためには、その感覚を少しずつ変えていく必要があるのだろう。

 そんなことを考えながら歩いていたときだった。

 風向きが変わった。

 鼻先を、嫌な匂いがかすめる。

 獣の匂いではない。

 土と汗。それに、何かが腐ったような臭いが混ざっている。

 俺は思わず鼻にしわを寄せた。

 ……何だ、これ。

 不快だ。

 それだけではない。

 身体の奥で、何かが警鐘を鳴らしている。

 近づくな。

 そう言われている気がした。

 俺は立ち止まり、耳を澄ませた。

 遠くで、何かが動いている。

 複数だ。

 枯れ枝を踏む音。何かを引きずる音。そして、ときおり聞こえる甲高い声。

 ……嫌な予感しかしない。

 安全を考えるなら、引き返すべきだ。

 だが、空腹は限界に近い。

 何も食べずに森をさまよい続ければ、いずれ動けなくなる。動けなくなれば、もっと危険な目に遭うかもしれない。

 なら、確認するだけだ。

 遠くから様子を見て、危なそうなら逃げればいい。

 そうだ。

 俺は慎重な男だ。

 無謀なことはしない。

 ……決して、腹が減りすぎて判断力が鈍っているわけじゃない。

 そう自分に言い聞かせ、俺は匂いのする方向へ足を進めた。

     ◇

 森の一角で、四匹のゴブリンが食料を漁っていた。

 緑色の肌に、歪んだ顔。黄色く濁った目の奥には、獲物を求める浅ましい光が浮かんでいる。

 足元には動物の骨や食べ残しが散らばり、周囲には腐敗した肉の臭いが漂っていた。

「ギギッ!」

 一匹のゴブリンが、地面に落ちていた肉の欠片を拾い上げた。

 それを見た別のゴブリンが横から奪い取り、口いっぱいに頬張る。

 途端に、甲高い怒声が森に響いた。

 食料を奪われたゴブリンが棍棒を振り上げ、奪った側も負けじと歯を剥き出しにする。

 だが、争いは長く続かなかった。

 残る二匹が面倒くさそうに割って入り、互いを引き離す。

 彼らにとって、この森は狩場だった。

 弱い獲物を見つければ襲う。食べられるものがあれば奪う。自分たちより強い相手には近づかない。

 それが、この四匹の生き方だった。

 ――もっとも。

 彼らはまだ、自分たちのすぐ近くに何が潜んでいるのか、気づいていなかった。

 茂みの奥。

 木々の影に溶け込むように、一頭の狼が身を潜めていた。

 黒に近い灰色の毛並み。鋭い三角形の耳。そして、周囲を注意深く見据える琥珀色の瞳。

 ロットウルフ。

 この森に生息する狼型の魔物であり、一般的なゴブリンよりも優れた身体能力を持つ。

 脚力はもちろん、鋭い牙と爪も侮れない。単独で行動するゴブリンならば、ロットウルフにとって格好の獲物となることもある。

 しかし、目の前にいるのは四匹。

 いくら身体能力に差があろうと、数の不利は簡単には覆せない。

 ゴブリンたちが一斉に襲いかかれば、ロットウルフとて無傷では済まないだろう。

 それでも、狼は動かなかった。

 耳だけを微かに動かし、ゴブリンたちの位置を確かめる。

 風向きを読み、相手との距離を測る。

 獲物を狙う獣のように見えて、その行動には確かな慎重さがあった。

 だが、その瞳の奥に宿るのは、野生の本能だけではない。

 恐怖。迷い。そして、必死に状況を整理しようとする思考。

 この狼は、ただの獣ではなかった。


     ◇

 ……ゴブリンだ。

 間違いない。

 俺の知っているゴブリンと、見た目がそっくりだ。

 緑色の肌に、醜い顔。手には棍棒。体格は人間の子供くらいだろうか。

 ただし、目の前にいる連中はゲームの中の敵じゃない。

 画面越しに見ているわけでもない。

 あいつらの棍棒が俺に当たれば、普通に痛いだろうし、下手をすれば死ぬ。

 ……いや、死ぬって何だよ。

 俺はもう一度死んでいるんじゃないのか?

 いや、そんなことを考えても仕方ない。

 今は目の前の問題だ。

 ゴブリンは四匹。

 俺は一匹。

 こちらには牙と爪がある。身体能力も、たぶん人間だった頃より高い。

 だが、戦闘経験はない。

 対して、あいつらは武器を持っている。

 しかも四匹。

 ……うん。

 勝てる気がしない。

 なら、逃げればいい。

 それが一番賢い選択だ。

 そもそも、俺は何をしに来たんだ?

 食料探しだ。

 ゴブリンと戦いに来たわけじゃない。

 別の場所を探せばいい。

 そうだ。そうしよう。

 俺はゆっくりと後ずさった。

 そのときだった。

 ――パキッ。

 後ろ脚が、小枝を踏み折った。

 乾いた音が森に響く。

 ……あ。

 四匹のゴブリンが、一斉にこちらを振り向いた。

 緑色の顔に浮かぶ、ぎょろりとした目。

 短い沈黙。

 そして、一匹が俺を指差した。

「ギギッ!」

 甲高い声が上がる。

 別のゴブリンも奇声を発し、棍棒を握り直した。

 ……待て。

 待ってくれ。

 話し合おう。

 いや、言葉が通じるか分からないけど。

 俺は敵じゃない。

 ただ腹が減っていただけなんだ。

 食料を探していただけなんだよ。

 そんな心の声が伝わるはずもなく、ゴブリンたちはじりじりと距離を詰めてきた。

 逃げろ。

 頭の中で声がした。

 今すぐ逃げろ。

 勝てない相手とは戦うな。

 生き残ることだけ考えろ。

 それが正しい。

 正しいはずだ。

 俺は後ろ脚に力を込めた。

 いつでも走り出せるように。

 けれど、身体は思うように動かなかった。

 恐怖のせいか。

 それとも、狼の身体にまだ慣れていないからか。

 理由は分からない。

 ただ、目の前のゴブリンが棍棒を持ち上げた瞬間、頭の奥で、あの夜の記憶がかすかによみがえった。

 眩しい光。

 耳をつんざく音。

 伸ばした手の先にいた、少女の姿。

 ……俺は、あのとき。

 何かを思い出しかけた。

 けれど、記憶は霧の向こうへ逃げるように遠ざかっていく。

 代わりに、別の声が脳裏に響いた。

『助けて』

 あいつは、そう言った。

 俺は、その声を無視できなかった。

 だから手を伸ばした。

 ――それなのに、最後に一人になったのは俺だった。

 ……もう、あんな思いはしたくない。

 正義感なんて、持っていても損をするだけだ。

 英雄になりたいなんて夢も、もう捨てたはずだ。

 だから、逃げればいい。

 逃げて、生き残ればいい。

 なのに。

 どうしてだろう。

 棍棒を振り上げるゴブリンを見ていると、胸の奥が妙にざわついた。

 俺は小さく息を吐いた。

 考えるのは後だ。

 今は、とにかく生き残る。

 俺は地面を蹴った。

 背後から、ゴブリンたちの奇声が響く。

 ――くそっ。こんなところで死んでたまるか。

 死んで、目を覚ましたら狼になっていた。

 そんな意味の分からない人生を、始まったばかりで終わらせてたまるか。

 異世界での新しい人生。

 その初日から、俺は四匹のゴブリンを相手に、命懸けの鬼ごっこをする羽目になった。

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