第一話 どうやら俺は狼らしい
――腹が減った。
意識が浮かび上がってきて、最初に思ったのはそれだった。
ひどく腹が減っている。
腹の奥が空っぽで、身体の内側から何かを食べろと訴えかけられているようだった。
……いや、待て。
そもそも、俺はどうしてこんなところで寝ているんだ?
ゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに、青空が広がっていた。
枝葉の隙間から覗く、どこまでも澄んだ青。風に揺れる木々。頬に触れる湿った草。鼻先をくすぐる、土と緑の匂い。
遠くでは鳥がさえずり、聞いたこともない獣の鳴き声が森の奥から響いていた。
…………。
どこだ、ここ。
少なくとも、俺の部屋ではない。
自慢じゃないが、俺の部屋はこんなに爽やかな場所じゃなかった。カーテンは閉め切り、床には脱ぎっぱなしの服が散らばり、机の上には空になったペットボトルが並んでいた。
目を覚ます理由といえば、スマホのアラームか、空腹か、あるいは嫌な夢くらいだった。
それなのに、今はどうだ。
聞こえてくるのは自然の音ばかり。肌を撫でる風は心地よく、頭上には見知らぬ木々がどこまでも続いている。
まるで、ファンタジーゲームのフィールドにでも放り出されたような光景だった。
「……夢か?」
そう呟こうとした。
しかし、口から漏れたのは、喉の奥を震わせるような妙な音だった。
「……ゥ?」
…………。
何だ、今の。
寝起きだから声が出ないとか、そういう問題じゃないだろ。
俺は眉をひそめようとした。
そこで、ふと気づいた。
――眉って、どこだ?
いや、それ以前に。
俺は、どうしてこんな場所にいる?
最後に何をしていた?
記憶をたどろうとした瞬間、頭の奥に鋭い違和感が走った。
夜の街。
アスファルトを照らすヘッドライト。
誰かの叫び声。
そして――。
小さな人影が、道路の向こうにいた。
少女だった。
金髪の髪に美しすぎる瞳
こりゃあどこの世界の住人だと思う感じの少女。
顔はよく分からなかった。
ただ、彼女がこちらを向いたことだけは覚えている。
次の瞬間、眩い光が視界を埋め尽くした。
耳をつんざくような音。
咄嗟に伸ばした手。
そして、すべてが途切れた。
…………。
あ。
そうだ。
俺、死んだんじゃなかったか?
頭の中が、すっと冷たくなった。
あのとき、確かに俺は――。
いや、待て。
待て待て待て。
死んだ?
俺が?
じゃあ、ここはどこだ。
病院か? それとも、夢の中か?
まさか、天国……なんてことはないよな。
いや、天国にしては妙に自然が豊かすぎる。というか、もっとこう、神々しい感じとか、天使とか、そういうものがあってもいいんじゃないだろうか。
……いや、そもそも俺が天国に行けるような人間だったか?
考えれば考えるほど、分からなくなってくる。
俺は混乱を振り払うように、身体を起こそうとした。
そして、気づいた。
手がない。
正確には、手の代わりに見覚えのないものが生えていた。
灰色の毛に覆われた前脚。先端には黒い爪。動かそうと意識すれば、指の代わりに脚先がぴくりと動く。
…………。
何だ、これ。
俺は固まった。
ゆっくりと視線を落とす。
胴体も毛だらけ。
後ろ脚もある。
そして、尻のあたりから伸びている長いものが、俺の意思とは無関係に揺れていた。
…………。
いやいやいや。
待て待て待て。
情報が多い。
死んだと思ったら見知らぬ森にいて、声はおかしいし、手もない。おまけに、身体中が毛だらけで、尻からは尻尾まで生えている。
いったん落ち着こう。
こういうときこそ、冷静に状況を整理するべきだ。慌てても何も解決しない。まずは事実を確認し、それから原因を考える。
……と、頭では分かっている。
分かっているのだが。
「な、何じゃこりゃあああああ!?」
森に、獣の悲鳴が響き渡った。
俺の声だった。
いや、声というより鳴き声だ。自分では人間らしく叫んだつもりなのに、出てきたのは狼の遠吠えを失敗させたような音だった。
最悪だ。
死んだかもしれないと思った直後に、今度は狼になっている。
どういうことだよ。
誰か説明してくれ。
……いや、誰もいないんだった。
俺は慌てて立ち上がろうとした。
四本の脚がもつれ、あっさりと地面に転がった。
「ぐふっ!」
…………。
痛い。
普通に痛い。
夢なら、もう少し都合よくできていてもいいだろ。
俺は情けなくなりながらも、なんとか身体を起こした。
幸い、すぐ近くに小さな水たまりがあった。
水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、黒に近い灰色の毛並みを持つ狼だった。
鋭い三角形の耳。長い鼻先。琥珀色の瞳。口元から覗く白い牙。
犬と言い張るには凶悪すぎるし、着ぐるみと言い張るには毛並みが生々しすぎる。
俺が口を開くと、水面の狼も口を開いた。
俺が目を細めると、水面の狼も目を細めた。
…………。
なるほど。
認めたくないが、認めるしかないらしい。
俺は狼になっていた。
「…………」
何だよ、それ。
死んだあとに、狼に転生?
そんなことが本当にあるのか?
いや、知識としては知っている。小説でもゲームでも、異世界に転生する話は珍しくない。
だが、それはあくまで物語の中の話だ。
自分が実際にそうなるなんて、考えたこともなかった。
しかも、よりによって狼。
剣と魔法の世界に生まれ変わるなら、せめて人間にしてくれ。
チート能力をくれとは言わない。いや、できれば欲しいけど。
王族じゃなくてもいい。勇者じゃなくてもいい。
ただ、二本の足で立って、普通に喋れる身体が欲しかった。
……贅沢なのだろうか。
俺は水面に映る自分を見つめた。
鋭い牙。獣の爪。黒に近い灰色の毛並み。
そこにいるのは、どう見ても人間ではない。
それなのに、頭の中には人間だった頃の記憶が残っている。
自分が何者だったのか。
どんな人生を送ってきたのか。
そして、最後に何があったのか。
少女の姿が、再び脳裏をよぎった。
道路に立つ、小さな影。
こちらを向いた顔。
伸ばした手。
あのとき、俺は何を考えていたんだろう。
怖かったのか。
助けなければと思ったのか。
それとも、ただ身体が勝手に動いただけだったのか。
思い出そうとしても、肝心なところだけがぼやけている。
ただ一つ、覚えていることがあった。
――俺は、あの少女を助けようとした。
そして、次の瞬間には何も分からなくなった。
…………。
俺は水面から目を逸らした。
今さら考えたところで、答えなんて出るはずがない。
それに。
人間だった頃の俺は、大して立派な人間じゃなかった。
誰かを救えるほど強くもなければ、誰かを導けるほど賢くもない。
正しいことをしたつもりでも、最後には自分が傷ついて終わる。
それなのに、心のどこかではずっと夢を見ていた。
誰かが困っていたら助ける。
誰かが泣いていたら手を差し伸べる。
そんな、物語の主人公みたいな人間になりたかった。
……馬鹿みたいな話だ。
現実は物語じゃない。
正しいことをしたからといって、誰かが味方になってくれるわけじゃない。勇気を出したからといって、報われるわけでもない。
それを、俺は身をもって知っている。
だったら、狼になったところで何が変わる?
今さら誰かを救えるようになるわけでもないだろう。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
俺は小さく息を吐いた。
……やめよう。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
俺が死んだのなら、元の世界にはもう戻れないのかもしれない。
ここがどこなのかも、自分がどうして狼になったのかも分からない。
分からないことだらけだ。
けれど、一つだけ確かなことがある。
――腹が減った。
死んだあとだろうが、異世界だろうが、狼になろうが、腹は減るらしい。
……まったく。
先が思いやられる。
俺は水たまりから離れ、四本の脚で立ち上がろうとした。
まずは、この身体に慣れること。
それから、食べ物を探すこと。
何が起きたのかを考えるのは、そのあとでいい。
そう自分に言い聞かせ、俺は森の中へと足を踏み出した。
◇
歩き始めて、すぐに問題が発生した。
歩きにくい。
いや、正確には、歩き方が分からない。
人間だった頃と同じ感覚で脚を動かすと、前脚と後ろ脚が妙な具合に絡まる。右へ進もうとすれば身体が傾き、急いで立て直そうとすれば、今度は反対側へよろめいた。
何度もつまずき、木の根に鼻先をぶつけ、しまいには自分の脚に腹を立てた。
……誰だよ、狼の身体は便利だなんて言った奴。
俺だ。
さっきの俺だ。
訂正する。全然便利じゃない。
そもそも、どうして四本脚の生き物はあんなに器用に歩けるんだ?
前脚と後ろ脚を交互に動かせばいいだけだと思っていたのに、実際にやってみると、これが驚くほど難しい。
頭では分かっている。
分かっているのに、身体がついてこない。
人間だった頃は、歩くことに何の苦労も感じなかった。目を覚まして、立ち上がって、部屋を出る。それだけのことに、いちいち意識を割く必要なんてなかった。
それが今では、数歩進むだけで一苦労だ。
……人間の身体って、実はすごかったんだな。
今さらながら、どうでもいいことに感心してしまった。
それでも、何度も転んでいるうちに、身体は少しずつ動きを覚え始めた。
前脚で地面を捉え、後ろ脚で身体を押し出す。
重心を意識して、無理に急がず、一歩ずつ進む。
そうしていると、ようやくまともに歩けるようになってきた。
……よし。
人間だった頃の俺なら、ここで自分を褒めていたところだ。
たかが歩くこと。
けれど、できなかったことができるようになるのは、案外悪い気分じゃない。
もっとも、今の俺がやっているのは、ただの歩行練習なのだが。
喜んでいいのか、少し複雑だった。
俺は気を取り直し、森の中を進んだ。
木々はどこまでも続いている。
視界を遮る幹。地面を覆う草。ところどころに張り出した木の根。
人間だった頃なら、ただの自然の風景として眺めていただろう。
だが、今は違う。
この森には、俺の知らないものが多すぎる。
ここが本当に異世界なのかも分からない。元の世界と同じ生き物がいるのかも分からない。そもそも、俺が狼として生きていけるのかさえ怪しい。
考えれば考えるほど、不安が増えていく。
……いや。
今は余計なことを考えるな。
まずは生き残ること。
それだけだ。
俺は鼻先を上げた。
風が吹き抜ける。
湿った土の匂い。腐りかけた木の匂い。青臭い草の匂い。
それらに混じって、何か別の匂いが流れてきた。
俺は思わず足を止めた。
……何だ?
鼻をひくつかせ、もう一度空気を吸い込む。
草の向こうに、小さな生き物の匂いがある。
それだけではない。
耳を澄ませば、微かな物音も聞こえてきた。
カサ、カサッ。
草むらが揺れている。
俺はゆっくりと姿勢を低くした。
……いる。
何かがいるぞ。
心臓が早鐘を打った。
獲物かもしれない。
食べ物が手に入るかもしれない。
そう考えた瞬間、腹の奥がぎゅうっと縮んだ。
そうだ。
俺は今、狼なんだ。
狼なら、狩りくらいできるはず。
いや、できてくれなければ困る。
人間の頃の知識がどれだけ役に立つのかは分からないが、少なくとも、このまま何も食べずに森をさまよい続けるわけにはいかない。
俺は音を立てないように、ゆっくりと草むらへ近づいていった。
葉の隙間から、茶色い毛並みが見えた。
長い耳。
小さな身体。
丸い尻尾。
ウサギだ。
……よし。
よしよしよし。
肉だ。
あれを捕まえれば、少なくとも今日は生き延びられる。
俺は息を殺し、身体に力を込めた。
狙いを定める。
距離を測る。
飛びかかるタイミングをうかがう。
……いける。
いけるぞ。
俺は狼だ。
あっちはウサギだ。
どう考えても、こちらが有利なはず。
人間だった頃の俺にはなかった牙も爪もある。脚力だって、さっき走ったときに十分実感した。
これなら――。
ウサギが、こちらを向いた。
目が合った。
次の瞬間。
ウサギは弾かれたように走り出した。
「あっ、待てコラ!」
俺も反射的に駆け出した。
速い。
いや、俺も速いはずだ。
四本の脚が地面を蹴る。風が毛並みを撫で、木々の景色が後ろへ流れていく。
人間だった頃には考えられない速度だった。
身体が軽い。
脚が動く。
地面を蹴るたび、前へ進む感覚が全身を駆け抜ける。
――これなら、いける!
希望が確信に変わりかけた、そのとき。
ウサギが木の根を飛び越え、茂みの下を潜った。
俺も続こうとした。
だが、狼の身体に慣れていない俺は、着地のタイミングを見誤った。
前脚が根に引っかかる。
身体が傾く。
視界がぐるりと回転した。
そして――。
盛大に転んだ。
「ぐえっ!」
地面を転がり、枯れ葉の山に突っ込む。
しばらく、動けなかった。
…………。
何やってんだ、俺。
ウサギは逃げた。
獲物は逃げた。
俺は転んだ。
完璧な敗北だった。
誰に見られていたわけでもないのに、妙に恥ずかしい。
いや、そもそも狼の姿で恥ずかしがる意味があるのか?
あるんだよ。
中身は人間なんだから。
俺は身体を振って枯れ葉を払い落とした。
その瞬間、腹の底から情けない音が鳴った。
ぐぅぅぅ……。
…………。
笑えない。
さっきまでは自分の情けなさを笑えていたが、今は無理だ。
空腹というのは、人間の尊厳を簡単に踏みにじる。
ましてや、今の俺は狼だ。
尊厳を守る前に、まず胃袋を守らなければならない。
……いや、胃袋があるのかどうかも知らないけど。
もういい。
細かいことは後回しだ。
俺は再び歩き始めた。
今度こそ、何か食べられるものを見つけなければならない。
ウサギが駄目なら、木の実でもいい。魚でもいい。最悪、虫でも……いや、虫はできれば遠慮したい。
食べ物に好き嫌いを言っている場合ではないと分かっていても、心は簡単には割り切れなかった。
人間だった頃の感覚が、まだ残っている。
それはきっと、悪いことばかりではない。
だが、生き残るためには、その感覚を少しずつ変えていく必要があるのだろう。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
風向きが変わった。
鼻先を、嫌な匂いがかすめる。
獣の匂いではない。
土と汗。それに、何かが腐ったような臭いが混ざっている。
俺は思わず鼻にしわを寄せた。
……何だ、これ。
不快だ。
それだけではない。
身体の奥で、何かが警鐘を鳴らしている。
近づくな。
そう言われている気がした。
俺は立ち止まり、耳を澄ませた。
遠くで、何かが動いている。
複数だ。
枯れ枝を踏む音。何かを引きずる音。そして、ときおり聞こえる甲高い声。
……嫌な予感しかしない。
安全を考えるなら、引き返すべきだ。
だが、空腹は限界に近い。
何も食べずに森をさまよい続ければ、いずれ動けなくなる。動けなくなれば、もっと危険な目に遭うかもしれない。
なら、確認するだけだ。
遠くから様子を見て、危なそうなら逃げればいい。
そうだ。
俺は慎重な男だ。
無謀なことはしない。
……決して、腹が減りすぎて判断力が鈍っているわけじゃない。
そう自分に言い聞かせ、俺は匂いのする方向へ足を進めた。
◇
森の一角で、四匹のゴブリンが食料を漁っていた。
緑色の肌に、歪んだ顔。黄色く濁った目の奥には、獲物を求める浅ましい光が浮かんでいる。
足元には動物の骨や食べ残しが散らばり、周囲には腐敗した肉の臭いが漂っていた。
「ギギッ!」
一匹のゴブリンが、地面に落ちていた肉の欠片を拾い上げた。
それを見た別のゴブリンが横から奪い取り、口いっぱいに頬張る。
途端に、甲高い怒声が森に響いた。
食料を奪われたゴブリンが棍棒を振り上げ、奪った側も負けじと歯を剥き出しにする。
だが、争いは長く続かなかった。
残る二匹が面倒くさそうに割って入り、互いを引き離す。
彼らにとって、この森は狩場だった。
弱い獲物を見つければ襲う。食べられるものがあれば奪う。自分たちより強い相手には近づかない。
それが、この四匹の生き方だった。
――もっとも。
彼らはまだ、自分たちのすぐ近くに何が潜んでいるのか、気づいていなかった。
茂みの奥。
木々の影に溶け込むように、一頭の狼が身を潜めていた。
黒に近い灰色の毛並み。鋭い三角形の耳。そして、周囲を注意深く見据える琥珀色の瞳。
ロットウルフ。
この森に生息する狼型の魔物であり、一般的なゴブリンよりも優れた身体能力を持つ。
脚力はもちろん、鋭い牙と爪も侮れない。単独で行動するゴブリンならば、ロットウルフにとって格好の獲物となることもある。
しかし、目の前にいるのは四匹。
いくら身体能力に差があろうと、数の不利は簡単には覆せない。
ゴブリンたちが一斉に襲いかかれば、ロットウルフとて無傷では済まないだろう。
それでも、狼は動かなかった。
耳だけを微かに動かし、ゴブリンたちの位置を確かめる。
風向きを読み、相手との距離を測る。
獲物を狙う獣のように見えて、その行動には確かな慎重さがあった。
だが、その瞳の奥に宿るのは、野生の本能だけではない。
恐怖。迷い。そして、必死に状況を整理しようとする思考。
この狼は、ただの獣ではなかった。
◇
……ゴブリンだ。
間違いない。
俺の知っているゴブリンと、見た目がそっくりだ。
緑色の肌に、醜い顔。手には棍棒。体格は人間の子供くらいだろうか。
ただし、目の前にいる連中はゲームの中の敵じゃない。
画面越しに見ているわけでもない。
あいつらの棍棒が俺に当たれば、普通に痛いだろうし、下手をすれば死ぬ。
……いや、死ぬって何だよ。
俺はもう一度死んでいるんじゃないのか?
いや、そんなことを考えても仕方ない。
今は目の前の問題だ。
ゴブリンは四匹。
俺は一匹。
こちらには牙と爪がある。身体能力も、たぶん人間だった頃より高い。
だが、戦闘経験はない。
対して、あいつらは武器を持っている。
しかも四匹。
……うん。
勝てる気がしない。
なら、逃げればいい。
それが一番賢い選択だ。
そもそも、俺は何をしに来たんだ?
食料探しだ。
ゴブリンと戦いに来たわけじゃない。
別の場所を探せばいい。
そうだ。そうしよう。
俺はゆっくりと後ずさった。
そのときだった。
――パキッ。
後ろ脚が、小枝を踏み折った。
乾いた音が森に響く。
……あ。
四匹のゴブリンが、一斉にこちらを振り向いた。
緑色の顔に浮かぶ、ぎょろりとした目。
短い沈黙。
そして、一匹が俺を指差した。
「ギギッ!」
甲高い声が上がる。
別のゴブリンも奇声を発し、棍棒を握り直した。
……待て。
待ってくれ。
話し合おう。
いや、言葉が通じるか分からないけど。
俺は敵じゃない。
ただ腹が減っていただけなんだ。
食料を探していただけなんだよ。
そんな心の声が伝わるはずもなく、ゴブリンたちはじりじりと距離を詰めてきた。
逃げろ。
頭の中で声がした。
今すぐ逃げろ。
勝てない相手とは戦うな。
生き残ることだけ考えろ。
それが正しい。
正しいはずだ。
俺は後ろ脚に力を込めた。
いつでも走り出せるように。
けれど、身体は思うように動かなかった。
恐怖のせいか。
それとも、狼の身体にまだ慣れていないからか。
理由は分からない。
ただ、目の前のゴブリンが棍棒を持ち上げた瞬間、頭の奥で、あの夜の記憶がかすかによみがえった。
眩しい光。
耳をつんざく音。
伸ばした手の先にいた、少女の姿。
……俺は、あのとき。
何かを思い出しかけた。
けれど、記憶は霧の向こうへ逃げるように遠ざかっていく。
代わりに、別の声が脳裏に響いた。
『助けて』
あいつは、そう言った。
俺は、その声を無視できなかった。
だから手を伸ばした。
――それなのに、最後に一人になったのは俺だった。
……もう、あんな思いはしたくない。
正義感なんて、持っていても損をするだけだ。
英雄になりたいなんて夢も、もう捨てたはずだ。
だから、逃げればいい。
逃げて、生き残ればいい。
なのに。
どうしてだろう。
棍棒を振り上げるゴブリンを見ていると、胸の奥が妙にざわついた。
俺は小さく息を吐いた。
考えるのは後だ。
今は、とにかく生き残る。
俺は地面を蹴った。
背後から、ゴブリンたちの奇声が響く。
――くそっ。こんなところで死んでたまるか。
死んで、目を覚ましたら狼になっていた。
そんな意味の分からない人生を、始まったばかりで終わらせてたまるか。
異世界での新しい人生。
その初日から、俺は四匹のゴブリンを相手に、命懸けの鬼ごっこをする羽目になった。




