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異世界来たのに狼ってそれはないでしょう!  作者: ナメク
プロローグ

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1/26

プロローグ 英雄になれなかった男

評価がおねがいします

俺は、どこにでもいる高校生だった。

 ……いや、違う。

 今の俺は、高校生と呼べるのかすら怪しい。

 学校には通っていない。友達もいない。毎日を自室で過ごし、親のすねをかじりながら、ゲームと動画に時間を費やしている。

 昼過ぎに起きて、母親が用意してくれた飯を食う。

 パソコンを起動し、ゲームをする。

 腹が減れば何かを食べ、眠くなれば寝る。

 目が覚めれば、また同じ一日が始まる。

 それだけの生活だった。

 勉強もしていない。働いてもいない。将来のために何かを始めようという気も起きない。

 欲しいものがあれば親に金をせびり、食事は母親に用意してもらう。部屋が汚れていても、自分から掃除することはなかった。

 そんな生活を続けて、もうどれくらいになるだろう。

『いつまでそんな生活を続けるつもりなの?』

『少しは将来のことを考えなさい』

『お父さんもお母さんも、いつまでも元気でいられるわけじゃないのよ』


 母親から、何度も聞かされた言葉だ。

 そのたびに俺は、面倒くさそうに返事をする。


「分かったって」

分かっている。

 そんなことは、言われなくても分かっている。

 いつまでも親に頼っていられないことくらい、嫌というほど理解していた。

 それでも、何かを始める気にはなれなかった。

 働くのは面倒だ。

 人と関わるのは怖い。

 失敗して笑われるのも、誰かに見下されるのも、もうこりごりだった。

 だから俺は、何もしない。

 自分の部屋に閉じこもり、現実から目を背ける。

 パソコンの画面に映る世界だけが、俺にとって唯一の居場所だった。

 ゲームの中なら、俺は強くなれる。

 どんな敵だって倒せる。

 仲間を守り、困っている人を助け、最後には世界を救うことだってできる。

 画面の中でなら、誰かに感謝される。

 必要とされる。

 英雄と呼ばれる。

 現実では何一つ成し遂げられない俺でも、ゲームの中では立派な勇者になれた。


「……いいよな、主人公って」


 そんな言葉が、ふと口からこぼれた。

 画面の中の主人公は、どれだけ傷ついても立ち上がる。

 仲間に裏切られても、絶望的な状況に追い込まれても、決して諦めない。

 そして最後には、誰かの笑顔を守るのだ。

 俺は、そんな姿に憧れていた。

 ……いや。

 正確には、今でも憧れている。

 自分では何も変えようとしないくせに。

 誰かのために努力することすらできないくせに。

 理想だけは、昔と変わらないままだった。

 我ながら、情けない話だと思う。

 けれど、そんな俺にも、昔は夢があった。

 誰かを助けられる人間になりたい。

 困っている人がいたら、迷わず手を差し伸べられる人間になりたい。

 そして、いつかは誰かにとっての英雄になりたい。

 そんな夢を、本気で信じていた頃があった。


     ◇


 小学校から中学校まで、俺はよく周囲からヒーローみたいだと言われていた。

 困っている奴がいれば、迷わず手を貸した。

 誰かがいじめられていれば、相手が誰だろうと立ち向かった。

 自分より体の大きな奴が相手でも、複数人に囲まれても関係なかった。

 間違っていると思えば、間違っていると声を上げる。

 泣いている奴がいれば、笑顔になるまでそばにいる。

 それが正しいことだと、疑いもしなかった。


「お前って、本当にヒーローみたいだよな!」


 友達からそう言われるたび、俺は照れくさそうに笑っていた。

 将来の夢を聞かれれば、決まって同じことを答えた。

『俺は、誰かを助けられるヒーローになりたい!』

 子供じみた夢だったかもしれない。

 それでも、あの頃の俺は本気だった。

 正しいことをすれば、誰かが笑ってくれる。

 困っている人を助ければ、きっと感謝してもらえる。

 勇気を出して手を伸ばせば、その手を握り返してくれる。

 そう信じていた。

 なぜなら、俺には憧れのヒーローがいたからだ。

 子供の頃に見た、特撮番組の主人公。

 普段はどこにでもいる普通の人間なのに、誰かが危険な目に遭えば、迷わず駆けつける。

 自分が傷つくことを恐れず、強大な敵に立ち向かう。

 助けを求める声が聞こえたら、必ず手を伸ばす。

 そして最後には、どれだけ苦しい戦いでも立ち上がり、誰かの笑顔を守るのだ。

 俺は、そんな姿に心を奪われた。

 いつか自分も、あんな人間になりたいと思った。

 困っている人を助けられる人間に。

 誰かが泣いていたら、笑顔にしてやれる人間に。

 どんなに苦しい状況でも、最後まで諦めずに立ち向かえる人間に。

 そんな英雄になりたかった。

 ……高校に入学するまでは。


     ◇


 高校生活が始まったばかりの頃、俺は少しだけ期待していた。

 新しい制服。

 見知らぬ教室。

 初めて話すクラスメイトたち。

 中学までの友達とは別々の高校になってしまったけれど、ここでも新しい友達ができるかもしれない。

 また誰かと笑い合えるかもしれない。

 そんな、ありふれた期待だった。

 そして俺は、一人のクラスメイトと仲良くなった。

 大人しくて、少し気弱な奴だった。

 ゲームの趣味が合ったこともあって、俺たちはすぐに話すようになった。

 休み時間にくだらない話をしたり、放課後に一緒に帰ったり。

 俺にとっては、久しぶりにできた新しい友達だった。

 だからこそ、そいつがクラスの連中からいじめられ始めたとき、俺は黙っていられなかった。

 最初は、ほんの些細なことだった。

 そいつが発言すると、わざとらしく笑う。

 休み時間になると、そいつだけを会話から外す。

 机に落書きをしたり、持ち物を隠したりする。

 やっている連中にとっては、ただの冗談だったのだろう。

 少しからかっているだけ。

 みんなでふざけているだけ。

 そんな言い訳をして、自分たちのやっていることを正当化していた。

 だが、俺にはそう見えなかった。

 そいつは笑っていなかったからだ。

「おい、いい加減にしろよ」

 俺は、そいつらを止めた。

「は? 別にいじめてねえし」

「じゃあ、やめろよ」

「お前、何様だよ?」

「何様でもいいだろ。嫌がってる奴にやることじゃねえだろ」

 正しいことをしたつもりだった。

 昔から、ずっとそうしてきたのだから。

 ところが、俺の言葉を聞いた連中は反省するどころか、面白そうに笑った。


「何? お前、そいつの保護者なの?」

「正義の味方気取りかよ」

「格好つけんなって」

 そのときは、気にしなかった。

 何を言われても構わない。

 いじめがなくなれば、それでいい。

 そう思っていた。

 ……それが、間違いだった。

 数日後。

 今度は、俺が標的になった。

 最初は陰口だった。

 俺が教室に入ると、わざと聞こえるように悪口を言う。

 俺が話しかけると、面倒くさそうな顔をして無視する。

 誰かが俺の名前を出せば、周囲が笑う。

「正義の味方さん、今日もパトロールですか?」

 廊下ですれ違った男子が、わざとらしく敬礼してみせた。

 周囲から笑い声が上がる。

「困ってる人がいたら助けてくれるんだろ?」

「じゃあ、俺の宿題もやってくれよ。困ってるんだわ」

「お前、マジでヒーロー気取りだよな」


 俺は無視した。

 くだらない。

 こんな連中に何を言われたところで、気にする必要はない。

 いじめがなくなれば、それでいい。

 最初は、そう自分に言い聞かせていた。

 しかし、奴らは俺が無視すればするほど調子に乗った。

 机に置いていた筆箱が消えた。

 教科書が見当たらなくなった。

 体育の着替えをしている間に、上履きがゴミ箱に捨てられていた。

 そして、ようやく見つけた教科書には、油性ペンで大きく文字が書かれていた。

『偽善者』

 その下には、下手くそな似顔絵。

 クラスの連中が、それを見て笑っていた。

「お前にぴったりじゃん」

「偽善者って、まさにこいつのことだろ」

 俺は教科書を握りしめた。

 怒りで手が震えた。

 殴ってやろうかと思った。

 だが、そんなことをすれば、今度は俺が悪者になる。

 それくらいは分かっていた。

 だから、耐えた。

 自分が我慢すれば、いつか終わる。

 そう信じていた。

 だが、いじめは終わらなかった。

 そして、ある日の昼休み。

 俺は、自分が信じていたものを一つ失うことになる。


     ◇


 教室に戻ると、クラスの連中が俺の机を囲んでいた。

 嫌な予感がした。

 近づくと、机の上には俺の持ち物が散らばっていた。

 筆箱の中身がぶちまけられ、ノートには意味の分からない落書きが並んでいる。

 その中心で、クラスの男子が俺のスマホを手に持っていた。

「お、正義の味方のお帰りだ」

「それ、返せよ」

「何が?」

「俺のスマホだよ」

「これ、お前のなの? 証拠あんの?」


 周囲がどっと笑った。

「ふざけんな。返せって言ってんだろ」

「うわ、怖っ。ヒーロー様が怒っちゃったよ」

 男子はスマホを別の奴に投げ渡した。

 そいつが受け取り、また別の奴へ投げる。

 俺が取り返そうと動けば、そいつらはわざと距離を取った。

 まるで、俺の反応を楽しんでいるかのように。


「ほら、取ってみろよ」

「お前、正義の味方なんだろ? これくらい余裕じゃん」

「みんな困ってるんだから、助けてくれよー」


 笑い声。

 嘲笑。

 スマホを投げ合う音。

 俺は、そいつらの顔を一人ずつ睨みつけた。

 この場にいる全員が、敵に見えた。

 さっきまで普通に話していた奴も。

 何もしていないふりをして、遠巻きに見ている奴も。

 そして。

 教室の隅に座り、こちらを見ていた、あの友人も。

 俺は、そいつに目を向けた。

 助けてくれ。

 言葉にはしなかった。

 ただ、目で訴えた。

 お前だって、こいつらに何をされているか知っているだろう。

 俺が、お前を守ろうとしたことも知っているだろう。

 だから。

 今度は、お前が助けてくれよ。

 そんな願いを込めて、俺はそいつを見た。

 しかし、友人は目をそらした。

 俯いて、何も見ていないふりをした。

 その瞬間、胸の奥で何かが冷たくなった。

 ……ああ。

 そうか。

 お前も、そっち側なんだな。

 いや、違う。

 そいつを責めるのは筋違いだ。

 俺だって怖い。

 自分が同じ立場なら、どうしていたか分からない。

 頭では、分かっていた。

 分かっていたのに。

 それでも、許せなかった。

 俺が傷つくのは構わない。

 けれど、俺が守ろうとした相手にまで見捨てられるなんて、思ってもいなかった。

 結局、その日の放課後。

 俺のスマホは、画面にひびが入った状態で返ってきた。

 謝罪はなかった。

 教師に相談しても、返ってきたのは曖昧な言葉ばかりだった。

『みんな、ふざけていただけなんじゃないか?』

『お互いに誤解があったのかもしれないな』

『お前も、もう少し周囲とうまくやる努力をしてみろ』


 ……ふざけるな。

 俺は被害者だ。

 何も悪いことなんてしていない。

 それなのに、どうして俺まで努力しなければならない?

 どうして俺が我慢しなければならない?

 どうして、誰も助けてくれない?

 その日、俺は初めて、学校へ行きたくないと思った。


     ◇


 いじめは、それからも続いた。

 俺が登校すると、わざと聞こえるように悪口を言われた。

 授業で発言すれば、後ろから笑い声が聞こえた。

 廊下ですれ違えば、肩をぶつけられた。

「邪魔なんだけど」

 ぶつかってきたのは相手なのに、悪いのは俺らしい。

 謝れと言われれば謝った。

 反論すれば、周囲が笑った。

 黙っていれば、弱虫だと馬鹿にされた。

 何をしても、奴らの都合のいいように解釈された。

 いつしか俺は、教室の扉を開けるだけで息苦しさを感じるようになった。

 朝、目が覚める。

 制服に着替える。

 鞄を持つ。

 玄関を出る。

 そこまではできた。

 けれど、学校が近づくにつれて足が重くなる。

 校門が見えた瞬間、体が動かなくなった。

 教室に入ったら、また笑われる。

 また何かを隠される。

 また、誰かに馬鹿にされる。

 考えるだけで胃が痛くなった。

 俺は初めて、学校を休んだ。

 たった一日。

 明日には行こうと思った。

 次の日も休んだ。

 その次の日も。

 母親には、体調が悪いと嘘をついた。

 最初は心配してくれた。

 病院に行こうかと尋ねられたこともある。

 俺は断った。

 病気じゃない。

 ただ、行きたくないだけだ。

 そう言えるはずもなかった。

 だって、俺はヒーローだったのだから。

 困っている人を助ける、正義の味方だったのだから。

 いじめられたくらいで学校に行けなくなったなんて、知られたくなかった。

 誰にも。

 何より、自分自身に。

 けれど、休む日が増えるにつれて、学校へ戻ることはますます難しくなっていった。

 久しぶりに登校しようとした朝、制服に袖を通したところで手が止まった。

 教室に入る自分を想像する。

 笑い声が聞こえる。

 視線が集まる。

 また何かを言われる。

 そんな光景ばかりが頭に浮かんだ。

 俺は制服を脱いだ。

 そして、そのまま部屋に戻った。

 高校に入学して、ほんの数か月。

 小学校から中学校まで、誰かを助けることを誇りにしていた俺は、他人と関わることすら怖くなっていた。

 人と話すのが怖い。

 誰かに笑われると、自分の悪口を言われているような気がする。

 親切にされても、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。

 自分から話しかけることもできず、周囲が仲良くなっていくのを、ただ眺めることしかできなくなった。

 そして、いつの間にか学校へ行かなくなった。

 今度は、誰かに無理やり追い出されたわけじゃない。

 誰かに直接、学校へ来るなと言われたわけでもない。

 ただ、怖かった。

 また傷つくのが。

 また見捨てられるのが。

 また、何もできない自分を思い知らされるのが。

 だから、俺は逃げた。

 ……それで終わりだった。


     ◇


 それからの俺は、少しずつ変わっていった。

 いや。

 変わったというより、腐っていったと言うべきだろう。

 昔の俺なら、困っている人を見れば手を差し伸べた。

 今の俺なら、見なかったことにする。

 昔の俺なら、間違っていることを見つければ声を上げた。

 今の俺なら、自分に被害が及ばないことを祈る。

 昔の俺なら、誰かを守るために自分が傷つくことを恐れなかった。

 今の俺は、自分が少しでも傷つきそうになれば、真っ先に逃げ出す。

 そして、そんな自分を正当化するようになった。

 正義感なんて、馬鹿を見るだけだ。

 他人のために動いたって、誰も助けてくれない。

 結局、人間なんて自分が一番かわいいんだ。

 だったら、俺だって自分だけを大切にすればいい。

 そう考えるようになった。

 困っている人を見ても、心の中で悪態をつく。

 助けを求める声が聞こえても、面倒くさいと思う。

 誰かが苦しんでいると聞けば、かわいそうだとは思う。

 だが、それ以上は何もしない。

 自分に関係ないから。

 自分が損をするから。

 自分が傷つきたくないから。

 ……最低だろう?

 俺自身、そう思う。

 それでも、やめられなかった。

 他人を助けることをやめた代わりに、他人を見下すようになった。

 学校に通っている連中を見れば、よく毎日通えるものだと思った。

 勉強している連中を見れば、そんなに必死になって何が楽しいのかと思った。

 友達と遊んでいる連中を見れば、どうせいつか裏切られるくせに、と心の中で笑った。

 努力している奴を見ると、馬鹿らしくなった。

 だって、そうだろう?

 努力したところで、必ず報われるわけじゃない。

 正しいことをしたところで、必ず認められるわけじゃない。

 だったら、最初から何もしなければいい。

 失敗しなければ、傷つくこともない。

 何も挑戦しなければ、自分の無能さを思い知らされることもない。

 そうやって、俺は自分の世界を狭めていった。

 親が心配してくれても、うるさいとしか思わなくなった。

 飯を作ってもらっても、感謝するどころか、今日のおかずは何だと文句を言う。

 自分では何一つしないくせに、誰かが自分のために動いてくれることを当たり前だと思うようになった。

 俺が何もしなくても、親は俺を見捨てない。

 俺が何を言っても、結局は飯を食わせてくれる。

 だから甘えた。

 どこまでも。

 いつか親が本当に愛想を尽かすかもしれないなんて、考えないようにしていた。

 考えたところで、何かを変えるつもりなんてなかったからだ。

 そう。

 俺は、ただのクズになった。

 昔、ヒーローみたいだと言われていた少年は、どこにもいなくなった。


     ◇


 ……それでも。

 それでも俺は、英雄に憧れていた。

 馬鹿みたいな話だ。

 現実では誰かと話すことすら避けているくせに。

 自分の生活すらまともにできないくせに。

 他人のために何かをするどころか、親に食わせてもらって生きているくせに。

 それなのに、ゲームの中の英雄を見るたび、胸の奥がざわついた。

 仲間を守るために立ち上がる主人公。

 どれだけ不利な状況でも、諦めずに剣を握る勇者。

 自分の命よりも、誰かの未来を優先する英雄。

 そういう姿を見るたびに、俺は思ってしまう。

 格好いい、と。

 俺も、あんなふうになりたかった、と。

 そして、すぐに自分を笑う。

 なれるわけがないだろう。

 お前は何者でもない。

 何も成し遂げていない。

 誰かを救うどころか、自分の人生からすら逃げ出した。

 お前に英雄を名乗る資格なんてない。

 分かっている。

 そんなことは、誰よりも俺自身が分かっている。

 だからこそ、ゲームの世界に逃げ込むのだ。

 現実の俺がどれだけ惨めでも、画面の中の俺は違う。

 剣を振るえる。

 仲間を守れる。

 魔物を倒せる。

 世界を救える。

 誰かから「ありがとう」と言ってもらえる。

 現実では手に入れられなかったものが、そこにはあった。

 俺は、コントローラーを握りしめる。


「……やっぱ、主人公っていいよな」


 誰に聞かせるわけでもなく、呟いた。

 もしも、もう一度やり直せるなら。

 もしも、何のしがらみもない世界で生きられるなら。

 もしも、俺にも本当に力があったなら。

 今度こそ、誰かを救えるだろうか。

 今度こそ、逃げずにいられるだろうか。

 ……なんて。

 そんなことを考えている時点で、俺は何も変わっていない。

 願うだけなら、誰にだってできる。

 夢を見るだけなら、努力なんて必要ない。

 俺はそれを、嫌というほど知っていた。

 だから今日も、何もせずに一日を終える。

 明日も。

 明後日も。

 きっと、ずっと。

 ――そう思っていた。


     ◇


 午前二時十三分。

「……腹減った」

 ゲームを中断し、俺は椅子から立ち上がった。

 画面の中では、ちょうどラスボスとの戦闘が終わったところだった。

 剣を掲げる主人公。

 仲間たちの歓声。

 世界に平和が戻り、人々が勇者の名を称える。

 何度見ても、いいエンディングだと思う。

 ……俺の人生には、そんなものはないけれど。


「なんか食うか」

 部屋を出て、台所へ向かう。

 冷蔵庫を開けると、飲みかけのペットボトルと、母親が作り置きしてくれたおかずが入っていた。

 ラップをかけられた皿を見つめる。

 食べるなら温めればいい。

 それだけの話だ。

 だが、なんとなく面倒くさかった。


「……コンビニでいいや」


 俺は冷蔵庫を閉めた。

 財布とスマホをポケットに突っ込み、適当なパーカーを羽織る。

 玄関へ向かい、靴を履いた。

 母親を起こさないように、ドアを静かに開ける。

 外へ出る直前、ふと居間のほうを振り返った。

 暗い室内。

 誰も起きている気配はない。

 ……まあ、いいか。

 どうせ帰れば、またいつもどおりだ。

 俺は何も考えず、玄関のドアを閉めた。


     ◇


 夜風が頬を撫でた。

 昼間の暑さが嘘のように、空気はひんやりとしている。

 住宅街は静まり返っていた。

 窓の明かりはほとんど消えていて、道路を走る車もまばらだ。街灯の下には小さな虫が集まり、遠くからは虫の鳴き声が聞こえてくる。

 深夜の街は嫌いじゃない。

 人が少ないからだ。

 昼間に外を歩けば、同年代の連中とすれ違うことがある。

 楽しそうに笑いながら歩く高校生。

 制服姿で自転車を漕ぐ学生。

 部活帰りなのか、疲れた顔で駅へ向かう連中。

 そんな奴らを見ると、どうしても嫌な気分になる。

 別に、そいつらが悪いわけじゃない。

 ただ、俺とは違う世界を生きているように見えるのだ。

 学校に通い、友達を作り、勉強をし、将来のために努力する。

 当たり前のことを、当たり前にやっている。

 それができなかった俺には、まぶしすぎた。

 だから、夜は都合がいい。

 誰もいない。

 誰にも見られない。

 俺がどんな人間だろうと、気にする奴はいない。

「……夜最高」

 小さく呟き、歩き続けた。

 やがて、見慣れたコンビニの看板が見えてくる。

 白と青の光が、暗い道路を照らしていた。

 自動ドアの前に立つと、センサーが反応して扉が開いた。

 ピロリロン。

『いらっしゃいませー』

 気の抜けた店員の声が響く。

 店内は、外とは別世界のように明るかった。

 天井の照明が白い床を照らし、飲み物の冷蔵ケースが低い音を立てている。棚には菓子パンやスナック菓子が並び、レジの横ではホットスナックが保温ケースの中で照り輝いていた。

 揚げ物の香ばしい匂い。

 コーヒーマシンから漂う苦い香り。

 空調の冷たい風。

 深夜特有の、どこか現実感の薄い空間だった。

 レジの向こうでは、若い店員が眠そうに欠伸を噛み殺している。

 大変そうだな、とは思った。

 だが、それだけだ。

 俺には関係ない。

 適当におにぎりを二つ、菓子パンを一つ、ジュースを一本かごに入れる。

 ホットスナックのケースを覗き込むと、からあげが残っていた。


「お、ラッキー」


 それも追加する。

 会計を済ませ、店員から袋を受け取る。

『ありがとうございました』

「……」

 返事はしなかった。

 礼を言う必要がないと思ったわけじゃない。

 ただ、わざわざ声を出すのが面倒だった。

 店を出る直前、店員がもう一度、ありがとうございました、と言った気がした。

俺は振り返らなかった。

 自動ドアが閉じる。

 明るい店内が背後に遠ざかり、再び夜の闇が戻ってきた。

 俺は袋を片手に、自宅へ向かって歩き始めた。


     ◇


 コンビニから家までは、歩いて五分ほど。

 途中には、交通量の多い交差点がある。

 さすがに深夜なので車は少ないが、それでも時折、大型トラックや乗用車が通り過ぎていく。

 交差点にたどり着いたとき、信号は赤だった。


「……信号待ちかよ」


 面倒くさい。

 車が来ていないなら渡ってしまおうかとも思ったが、ちょうど遠くからヘッドライトが近づいてきた。

 仕方なく足を止める。

 片手の袋がかさかさと音を立てた。

 腹が減った。

 早く帰って、飯を食って、ゲームの続きをしよう。

 それだけを考えていた。

 赤信号。

 車のエンジン音。

 街灯に照らされた横断歩道。

 いつもと何も変わらない、退屈な夜。

 ……そのはずだった。


「……ん?」


 ふと、視界の端に人影が映った。

 交差点の中央。

 車道のど真ん中に、一人の少女が立っていた。


「……は?」


 一瞬、意味が分からなかった。

 見間違いかと思い、目をこする。

 だが、少女はそこにいた。

 腰まで届く金色の髪。

 夜の闇の中でも不思議なほど目を引く、白い肌。

 細い手足。

 年齢は俺と同じくらいだろうか。

 身に着けている服も、どこかおかしかった。

 白を基調とした、見たこともない衣装。

 薄い布が何枚も重なり、裾には細かな刺繍が施されている。装飾品らしきものがいくつも揺れているのに、不思議と派手には見えなかった。

 それは、現代の日本で見かけるどんな服とも違っていた。

 舞台衣装だろうか。

 それとも、何かの撮影でもしているのか。

 そう考えたものの、すぐに違和感を覚えた。

 少女の周囲には、誰もいなかった。

 撮影機材も、スタッフも、ふざけている様子の人影もない。

 そもそも、こんな時間に、こんな場所で何をしている?

 疑問が次々と浮かぶ。

 けれど、俺の目は少女から離れなかった。

 金色の髪が、風もないのにゆっくりと揺れていた。

 街灯の光を受けているはずなのに、その髪はまるで内側から淡く輝いているように見えた。

 足元には、薄い霧のようなものが漂っていた。

 いや、霧ではない。

 白く透き通った光の粒が、少女の周囲を静かに舞っている。

 瞬きをした。

 光は消えなかった。

 もう一度、目をこすった。

 やはり、そこにある。


「……なんだ、あれ」

 声がかすれた。

 怖い、というより、理解できなかった。

 まるで、この世界の理屈が少女の周囲だけ通用していないようだった。

 車道の中央に立つ少女。

 現実離れした衣装。

 金色に輝く髪。

 そして、周囲を漂う不思議な光。

 その姿は、どこかの物語に登場する精霊や女神を連想させた。

 もちろん、そんなものがいるはずはない。

 俺はゲームやファンタジーが好きだが、現実と物語の区別くらいはつく。

 ……つくはずだった。

 そのとき、少女がゆっくりと顔を上げた。

 金色の瞳が、こちらを向く。

 そして。

 目が合った。

 息が止まった。

 その瞳には、見慣れない光が宿っていた。

 金色の奥に、星空のような無数の輝きが浮かんでいる。

 まるで、瞳の中に別の夜空が広がっているかのようだった。

 けれど、何よりも不思議だったのは、その表情だ。

 少女は、俺を見て微笑んだ。

 初めて会った人間に向ける笑顔ではなかった。

 懐かしそうに。

 嬉しそうに。

 それでいて、今にも泣き出しそうなほど悲しげに。

 まるで、長い長い旅の果てに、ようやく探し人を見つけたかのように。

 ……なんだよ。

 なんで、そんな顔をするんだ。

 俺は、お前なんて知らない。

 会ったこともない。

 名前だって知らない。

 なのに、どうして。

 少女の唇が、ゆっくりと動いた。

「……やっと、見つけた」

 声は聞こえなかった。

 けれど、なぜかそう言ったように見えた。

 次の瞬間、遠くからクラクションが鳴り響いた。

少女は、ゆっくりと首を傾げた。

 そして、今度は確かに声が聞こえた。


「……また会ったね■■」

「……は?」


 意味が分からなかった。

 また会った?

 誰と誰が?

 俺と、この少女が?

 いやいや、待て。

 こんな子、見たこともない。

 それに最後の言葉はなんだ聞き取れなかったぞ。

 まるでこの世界の言葉じゃないようなそんな響き。

 いや、今はそれどころじゃないだろ。

 少女が立っているのは、車道の真ん中だ。

 遠くから、車が近づいてきている。

 運転手が少女に気づいたのか、けたたましいクラクションが鳴り響いた。

 少女は動かなかった。

 逃げようともしない。

 車が迫っているというのに、まるで自分の身に何が起きるのか分かっていないようだった。


「おい! 危ないぞ!」


 俺は声を張り上げた。

 少女は、こちらを見たままだった。

 その瞳に浮かぶ悲しみが、ほんの少しだけ深くなった気がした。

 ……なんだよ。

 何を諦めたような顔をしているんだ。

 まだ、何も終わっていないだろう。

 車のヘッドライトが、少女を照らした。

 車は、もう目の前まで迫っていた。


「おいっ!」


 考えるより先に、体が動いていた。

 手に持っていたコンビニの袋を放り出す。

 中身が地面に散らばる音がした。

 そんなことを気にしている余裕はなかった。

 俺は赤信号の交差点へ飛び出した。

 危ない。

 馬鹿じゃないのか。

 そんな声が、頭のどこかで聞こえた気がした。

 だが、足は止まらなかった。

 昔と同じだ。

 目の前で誰かが危険な目に遭っている。

 それだけで、体が勝手に動いてしまう。


「逃げろおおおっ!」


 少女の腕を掴み、力いっぱい引っ張った。

 細い体が、車道の端へとよろめく。

 間に合った。

 そう思った、次の瞬間。

 視界が真っ白に染まった。

 耳をつんざくクラクション。

 強烈な衝撃。

 体が宙に浮いたような感覚。

 手から何かが離れていく。

 俺は、何が起きたのか理解できなかった。

 ただ、世界がひどくゆっくりと流れていく。

 夜空が見えた。

 街灯が見えた。

 道路に散らばったコンビニの袋が見えた。

 そして。

 こちらを見つめる、金髪の少女の顔が見えた。

 少女は、泣いていた。

 大粒の涙を流しながら、何かを叫んでいる。

 だが、声は聞こえなかった。

 その周囲で、光の粒が激しく舞い上がっていた。

 少女の金色の髪が、夜風もないのに大きく揺れる。

 その姿が、少しずつ遠ざかっていく。

 いや。

 違う。

 遠ざかっているのは、俺のほうなのかもしれない。

 少女の背後で、夜の景色が歪んだ。

 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ、見慣れた街並みの向こうに、見たこともない景色が映った気がした。

 果てしなく広がる青い空。

 見上げるほど巨大な樹木。

 そして、その空を横切る、何か大きな影。

 ……なんだ、あれ。

 幻覚だろうか。

 死ぬ直前だから、頭がおかしくなったのかもしれない。

 それでも、最後に見た少女の顔だけは、はっきりと覚えていた。

 まるで、何度も何度も別れを経験してきた人間のような顔だった。

 どうして、そんな顔をするんだろう。

 助かったのは、君のほうなのに。

 俺は、ぼんやりと夜空を見上げた。

 ……ああ。

 そうか。

 俺、死ぬのか。


     ◇


 不思議なことに、恐怖はなかった。

 もっと取り乱すものだと思っていた。

 死にたくないと叫んで、助けてくれと泣きわめいて。

 そんなふうになるのだと、勝手に想像していた。

 だが、実際は違った。

 頭の中は妙に冷静で、どうしようもなく眠かった。

 ……いや。

 未練がないわけじゃない。

 ゲームの続きだって気になる。

 まだクリアしていないゲームもある。

 発売を楽しみにしていた作品だってある。

 親に謝ることもできなかった。

 高校に戻ることもできなかった。

 昔の友達に、もう一度会うこともできなかった。

 何一つ、まともにできなかった人生だった。

 親に迷惑ばかりかけて。

 心配してくれる気持ちに甘えて。

 自分が変わるための努力もせず、他人を見下して、部屋に閉じこもって。

 俺は結局、何者にもなれなかった。

 ……本当に、クズだったな。

 最後くらい、親に感謝の言葉でも伝えておけばよかった。

 いつも飯を作ってくれてありがとう、と。

 心配ばかりかけてごめん、と。

 そんな簡単な言葉すら、俺は口にしなかった。

 今さら後悔しても、遅い。

 何もかもが遅すぎる。

 なのに。

 最後の最後で、俺はまた誰かを助けようとした。

 あのときと同じだ。

 高校で友人を助けようとしたときと。

 いや、もっと昔。

 小学校で、誰かが泣いているのを見つけたときと。

 中学校で、いじめられている奴に手を差し伸べたときと。

 何も変わっていない。

 俺は、もう正義感なんて捨てたつもりだった。

 他人なんてどうでもいい。

 自分さえ傷つかなければ、それでいい。

 そうやって何年も生きてきた。

 なのに、目の前で誰かが危険な目に遭っていたら、体が勝手に動いてしまった。

 ……馬鹿だな、俺。

 最後まで、何も学んでいない。

 せっかく自分を守ることだけ考えて生きてきたのに。

 せっかく、もう誰かのために傷つかなくていいようになったのに。

 結局、こんなところで死ぬのか。

 どうしようもない。

 救いようがない。

 俺は、どこまでいっても馬鹿な人間だった。

 それなのに。

 胸の奥には、ほんの少しだけ温かいものが残っていた。

 あの少女は、助かったのだろうか。

 無事に歩道へ逃げられただろうか。

 ちゃんと生きているだろうか。

 ……そうだといい。

 それだけは、心から思った。


     ◇


 意識が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 周囲の音が聞こえなくなった。

 体の感覚も、少しずつ消えていく。

 ああ。

 もう、終わりなんだな。

 俺の人生は、ここで終わる。

 何も成し遂げられなかった。

 誰かに誇れるようなことも、ほとんどなかった。

 昔は、みんなにヒーローみたいだと言われていた。

 困っている人を放っておけなくて。

 誰かが泣いていれば、必死になって助けようとして。

 それが正しいことだと信じていた。

 けれど、いつしか俺は逃げるようになった。

 傷つくことが怖くなった。

 他人を信じられなくなった。

 そして、自分から何かをすることすらやめてしまった。

 情けない。

 あまりにも、情けない。

 ……でも。

 最後の最後くらいは。

 少しくらい、昔の自分に戻れたのだろうか。

  あの頃、憧れていたヒーローに。

 誰かを助けるために迷わず手を伸ばす、あの格好いい英雄に。

 ほんの一瞬だけでも、近づけたのだろうか。

 意識が消えていく。

 もう、何も考えられない。

 最後に、ひとつだけ。

 ずっと胸の奥にしまい込んでいた願いが浮かんだ。

 なあ。

 俺は。

 俺は、英雄になれたのかな。

 たった一人でも、救えたのなら。

 こんな俺でも。

 最後くらいは。

 理想の英雄に、なれたのかな。

 ……誰か、そうだと言ってくれよ。

 それが、俺の最期の願いだった。


     ◇


 ――その願いを、誰かが聞いていた。

 誰もいないはずの夜の片隅で。

 誰にも届くはずのない、男の最後の願いを。

 金色の髪の少女は、静かに目を閉じた。

「……今度こそ」


 かすれた声が、誰もいない夜に溶けていく。

「あなたが、あなたらしく生きられますように■■」


 少女の足元で、淡い光が揺らめいた。

 その光は、まるで星のように瞬きながら、夜空へと溶けっていく。

 そして、少女の姿はゆっくりと薄れていった。

 まるで、最初からこの世界には存在していなかったかのように。

「あなたを愛してる。だからまた会えるわ」

 そう言い消えた少女。

 残されたのは、静かな夜と、誰も知らない小さな奇跡だけだった。

続きもぜひ楽しんでください

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