深夜の歩み
シャルロットの魔力適性が無であるという鑑定結果は、フェルデンツ伯爵邸の空気を凍りつかせた。
かつてエレナを嘲笑い、シャルロットに擦り寄っていた使用人たちは、ロバート伯爵の逆鱗に触れぬよう息を殺して怯えている。
いまや本邸寒さは、納屋よりも痛烈に凍えていた。
「何としてでも、炎の魔力を発現させろ」
ロバートの焦燥は、四歳のシャルロットへと向けられた。
フェルデンツ家が代々誇る竜の炎。受け継がぬ者を、ロバートは我が子として認める気など毛頭ない。
密室に魔導士を呼び寄せ、シャルロットの小さな身体に過剰な刺激を与える魔石を押し当てる。
無理やりに魔力経路をこじ開けようとする激痛に、幼い悲鳴が本邸の奥底から響いた。
エリザベスは、我が子の泣き叫ぶ声を部屋の隅で耳を塞ぎながら震えて聞くことしかできない。
自分が生き残るためにエレナを切り捨てたように、我が子が壊れていくのをただ見つめるだけの無力な人形と化していた。
その噂は吹きさらしの納屋にも届いていた。
「本邸のお嬢様は、毎日のように折檻のような訓練を受けさせられているらしいよ」
厨房から下げられた残飯を運び込んできた若い下女が、声を潜めてアメリアに漏らした言葉。
納屋の奥で古書を開いていたエレナの耳にも、はっきりと聞こえていた。
数日前、裏庭のバラ園で震えていた銀髪の妹。 首筋に刻まれていた痛々しい青あざと、大カラスに震えて泣きじゃくっていた無垢な顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
下女が去った後、アメリアが煙草の煙をくゆらせた。
「自業自得さ。あの男の血にすがって栄華を貪ろうとした報いだ。余計な情けは捨てるんだよ。あの子がどう壊れようと私たちには関係のない話だ」
アメリアの言葉は正論だった。 自分をあっさりと捨て去り、泥水をすすらせた者たちだ。
本邸がどう狂おうと、自分たちはこの暗闇で力を蓄え、いつかこの呪われた屋敷から抜け出す機会を窺えばいい。
「あの子また泣いてるよ」
「すごく強い石を当てられて、息が止まりそうなんだって」
隙間から飛び込んできた妖精たちが、悲痛な声でエレナの耳元に群がった。
精霊のささやきは、風に乗って本邸の最上階で起きている凄惨な光景を運んできた。
「魔導士が使っているのは、古い再生の術式だわ」
エレナが呟く。 本から学んだ知識が瞬時に組み上がる。
「適合しない属性の魔石を無理やり押し当てれば、魔力経路が焼き切れて死んでしまう。あの魔導士保身のために危険な魔石を使っているんだ」
「エレナ」
アメリアの声が鋭さを増した。
「関わるなと言ったはずだ。お前の魔力が露見すればその力を奪うために実験台にされるだけだよ」
「わかっています」
エレナは立ち上がり、静かに自分の両手を見つめた。 皮膚の下で青白い魔力が澄んだ川のように静かに流れている。
「助けに行くわけじゃありません。あの子が死ねばお父様の狂気は必ずこの納屋にも向きます。代わりの道具を探しに暴きに来るはずです」
冷静で打算に満ちた声だった。 瞳の奥には、理不尽に踏みにじられる弱者を見過ごせない、研ぎ澄まされた炎が宿っていた。
「私の存在を悟らせずに魔導士の術具を壊します。アメリア先生に教わった最小限の介入で」
アメリアは息を呑み七歳になったばかりの弟子を凝視する。
その顔には、怯えた捨て子の面影はどこにもない。
自らの運命を、頭脳と力で切り拓こうとする一人の魔術師の顔があった。
しばしの沈黙の後、アメリアは小さく息を吐き、腰から小さな黒い薬瓶を投げた。
「魔力を帯びた金属を一瞬で腐食させる粉だ。風に乗せて窓の隙間から滑り込ませな。失敗したら敷居は跨がせないよ」
「ありがとう、アメリア先生」
エレナは薬瓶を握りしめ、音もなく夜の闇へと滑り出した。
雪がしんしんと降りしきる深夜。 華やかで残酷な檻となった本邸へ向けて、影の少女が静かに足を進めた。
雪の上を、足跡を残さず歩き、妖精たちの手引きで本邸の換気口へ音もなく接近する。
シャルロットが折檻のような拷問を受けている部屋へ、風の魔法に乗せて黒い粉を微量だけ送り込んだ。
粉が届き始めた。




