ヴィクトール侯爵領への帰還
国境を越え、馬車がヴィクトール侯爵領の広大な白亜の城門をくぐった日、エレナの運命は劇的な転換を遂げた。
出迎えたのは、白髪の老侯爵と、涙で顔を濡らした侯爵夫人、エレナにとっての実の祖父母だった。
馬車のステップを降りた七歳のエレナを見た瞬間、老夫婦は言葉を失いその場に崩れ落ちるようにして少女を抱きしめた。
「レティシアの瞳だ」
「よくぞ生きて戻ってきてくれた」
母に生き写しのような銀髪とエメラルドの瞳。
そして、エレナが差し出した双翼の鷲の銀の指輪と、母が命を削って遺した最後の日記。
十年もの間、愛娘の行方を捜し続けていた侯爵家はレティシアの非業の死に激しい慟哭に包まれた。だがそれ以上に、過酷な地獄を生き延び母の魂を連れ帰ってくれた小さな孫娘を全身全霊の愛情で迎え入れた。
それから始まったのは、これまでの七年間がまるで悪夢の幻だったかのような穏やかで満ち足りた日々だった。
隙間風の入らない陽だまりの部屋。
肌を優しく包む絹のドレス。
滋養に満ちた温かな食事。
祖父母はエレナをこれ以上ないほど甘やかし慈しんだ。
だがエレナは決して奢ることなく、与えられた環境の中で乾いた砂が水を吸い込むように侯爵令嬢としての教養と、ヴィクトール家に伝わる高位魔術を貪欲に吸収していく。
傷ついた小さな手足は完全に癒え、納屋で泥水をすすっていた面影は消え失せた。
庭園のあふれる花々に囲まれ、妖精たちと戯れながら微笑むエレナの姿は誰もが見惚れるほど凛とした美しさを放ち始めた。
エレナの存在が正式に認められた後、王室へと挨拶に赴く日が訪れた。
謁見の間でエレナを待っていたのは、ヴィクトール侯爵家の血筋と、圧倒的な才覚を歓迎する国王夫妻。 そしてエレナの前に進み出たのは、第二王子でありのちに婚約者となる少年カディスだった。
漆黒の髪に、理知的な群青の瞳。
二歳年上のカディスは、王室屈指の魔導の俊英とうたわれていたが、エレナの前に跪いたその所作には一切の傲慢さも侮りもなかった。
「初めまして、エレナ嬢。そなたが越えてきた過酷な嵐と気高い魂の強さに心からの敬意を捧げます」
大人の思惑による政略的な縁組ではあった。
だが、カディスがエレナに向けた眼差しにあったのは、打算ではない一人の稀代の魔導士に対する純粋な尊敬と理不尽を生き抜いてきた少女への静かな慈しみだった。
互いに高い知性と魔力を持ち、多くを語らずとも理解し合える二人は自然と強い信頼の絆で結ばれていった。
それから、五年が過ぎた。
吹きさらしの納屋で母を亡くし、死に戻りを経て運命を切り拓いた少女は十二歳になっていた。
陽光を浴びて絹糸のように輝く銀色の長髪と、エメラルドの瞳。
ヴィクトール侯爵家の至宝にして若き天才魔導士。
エレナの名は、大陸全土の社交界と魔導界に知れ渡っていた。
侯爵邸のテラスで、エレナは心地よい風を受けながら優雅に紅茶を口に運んでいた。
傍らには、すっかり背が伸び精悍さを増した婚約者カディスが穏やかな笑みを浮かべて寄り添っている。
庭の木々がサワサワとざわめいた。
風に乗ってやってきた妖精たちが、エレナの耳元に群がり隣国のかつて自分を捨て、踏みにじったフェルデンツ伯爵家の現在の報せをささやきかける。
「エレナ、聞いたよ。あのお屋敷もうめちゃくちゃなんだって」
「ロバート伯爵は牢屋に入れられて領地は没収されて死罪になったんだって」
「シャルロットの炎はどんどん暴走して誰も止められないんだって」
妖精たちのささやきを聞きながら、エレナはカップをソーサーへと音もなく置いた。
伏せられた長い睫毛の下で、エメラルドの瞳に光がかすかに宿る。
あの日、大広間の火災をきっかけに王都から徹底的な査問を受けたフェルデンツ伯爵家。
隣国ヴィクトール侯爵家への大罪、使節団を巻き込んだ大事故、そしてシャルロットの制御不能な竜の炎の力の破綻。
五年の歳月をかけて、あの傲慢な家族が積み上げてきた砂の城は、崩壊の極みに達しようとしていた。
「どうした、エレナ。風の便りか」
カディスが気遣わしげに覗き込んでくる。
エレナはふっと柔らかく微笑み首を横に振った。
「いいえ、ただ過去の亡霊たちが自らの業に呑み込まれそうだという噂を聞いただけです」
五年の月日は、エレナを何者にも侵されない気高き大輪の花へと育て上げていた。
かつて自分を地獄へと突き落とした者たちとの最後の決着の時が静かに近づいていた。




