宴の夜4
静まり返った大広間に、氷の結晶が溶ける微かな音だけが響いていた。
「あいつを捕らえろ」
沈黙を破ったのは、ロバート伯爵の狂気じみた怒声だった。
床から這い起きたロバートの顔は、醜悪なまでの貪欲に歪んでいた。
「衛兵何をしている、その娘を拘束しろ。フェルデンツの敷地から一歩たりとも出すな」
シャルロットの竜の炎を遥かに凌駕する、強大な魔力。
用済みとして捨てたはずの娘が、王家すら脅かせる至宝の怪物となり目の前に立っているのだ。
その力を逃すはずがなかった。
サーベルを抜いた私兵たちが、エレナを取り囲む。
エレナは息を整えながら、拳を固く握りしめる。
魔力の大半を鎮火に使い果たした小さな身体では、全員を薙ぎ払って脱出するのは難しい。
絶望がかすめた、刹那だった。
「控えよ、フェルデンツ伯爵」
広間の空気を両断するような、声がとどろいた。
私兵たちがピタリと止まる。
炎に焼かれかけた貴族たちの間を割って、歩み出てきたのは王都からの使節団を率いる特使、国王直属の近衛騎士団長アルフレッド公爵だった。
その後ろには、使節団として列席していた王立魔導院の重鎮たちが従っている。
「公爵閣下何をなさいます、これは我が家の内輪の話です」
ロバートが叫んだ。
だが、アルフレッド公爵はロバートなど歯牙にもかけずエレナの前へと進み出た。
そして、その場に片膝をつき七歳の少女と同じ目線にまで自らの身体を屈める。
公爵の灰色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれていった。
目の前にいるのは、百人を超える命を救い出した救世主。
だがその姿はあまりにも凄惨だった。
身にまとっているのは、穴だらけですり切れた泥とすすにまみれた麻のボロ布。
冬の寒空の下でも素足のままで、しもやけで赤紫に腫れ上がった手足には無数のあかぎれと切り傷がある。
骨が浮き出るほど痩せこけた小さな身体、首筋や腕に残る折檻の痕跡。
どれほど過酷な地獄を生き延びてくれば、七歳の子どもがこのようになるのか。
使節団の魔導士たちが顔を歪めた。
「なんと、痛ましい」
「大理石を一人で拭かされていたあの幼子か。これが、伯爵家の令嬢に対する扱いか」
貴族たちの間から、ロバートとエリザベスに対する軽蔑と非難が一気に広がっていく。
「閣下。そいつは出来損ないのただの下女」
取り繕おうとするロバートを、公爵は一瞥でねじ伏せる。
「黙れ、フェルデンツ伯爵。我ら王都の使節団の命を救った恩人を捕らえろだ。我が国の法において、王命を帯びた使節団の危難を救った者は身分を問わず王家の特別保護対象となる」
アルフレッド公爵は自らの豪奢なマントを解くと、震えるエレナの小さな肩へと羽織らせた。
上質な毛皮の温もりが冷え切ったエレナの身体を包み込む。
「怖がることはない、小さき賢者よ。そなたの身柄は我ら王都使節団が責任を持ってお預かりする」
エレナの唇から、微かな吐息が漏れる。
その時、マントを整えようとした公爵の視線がエレナの胸元から覗いていた、細い革紐の先の銀の指輪に留まった。
公爵の息が止まった。 指輪の裏面に刻まれた、精緻な双翼の鷲の紋章。
これは隣国ヴィクトール侯爵家の指輪、まさか二十四年前に失踪したあの令嬢のご息女か。
隣国と長年親交のあった公爵の脳裏に、国境付近で忽然と姿を消し侯爵家が国境地帯でいまもなお必死に捜索の手を広げている悲劇の令嬢の記憶が鮮烈に蘇った。
この少女の澄み渡ったエメラルドの瞳と、銀色の髪。
公爵の胸中ですべての点と線が一瞬で繋がった。
驚愕を押し殺し、公爵は静かに立ち上がると、ロバート伯爵を見下ろし氷のような宣告を下した。
「シャルロット嬢の炎の暴走、および使節団を巻き込んだ火災事故。さらには、この少女に対する非道な虐待の疑い。フェルデンツ伯爵家に対し王立魔導院および中央騎士団による全面的な査問を行う」
「査問ですと待ってください。閣下」
縋り付こうとするロバートを、近衛兵たちが冷徹に押し戻す。
豪奢なドレスを焦がし呆然と座り込むシャルロットと、恐怖で震え上がるエリザベス。
エレナは公爵の腕に抱き上げられながら、ゆっくりと振り返った。
かつて自分を蔑み、泥水をすすらせた家族たちが、見る影もなく打ちひしがれている。
母の指輪が、胸の奥で誇らしげに熱を帯びていた。
檻の扉が、ついに外側から完全に打ち砕かれた瞬間だった。




